帰国して家に直帰したが、ベッドに入ってもうつらうつら(・・・・・・)するだけでよく眠れなかった。時差のせいもあるが、目を瞑ると部長の顔が浮かんできて、深い眠りに入るのを邪魔された。眠った感じがほとんどしないまま朝を迎えた。

 重い体を引きずって台所へ行くと、母親が朝食の支度をしていた。テーブルの上にはご飯とみそ汁と漬物、それに空の皿が置かれていた。
 席について母親の姿をボーっと見ていたが、フィッシュロースターから皿に移されたものを見てぞっとした。鮭の塩焼きだった。見た瞬間、食欲がなくなった。朝早く会議があるからと嘘を言って、何も食べずに家を出た。

        *

 駅のホームは込んでいた。人身事故で電車が遅れているらしい。やっと来た電車は超満員だった。

 鮭の塩焼きに人身事故に超満員……、

 イヤ~な予感がした。
 案の定、お尻を触られた。一瞬体が固まったが、泣き寝入りするつもりはなかった。よろけた振りをして真後ろの男の靴を思い切り踏んでやった。ピンヒールでグサッとやってやった。呻き声が聞こえたので、骨を折ることは出来なかったとしてもかなりのダメージを与えたはずだ。
 でも、それで終わらせるつもりはなかった。次の駅で降りて、駅員にそいつを突き出した。女の敵をのさばらせておくわけにはいかない。起訴されても6か月以下の懲役か50万以下の罰金で済んでしまうが、前科一犯が付けば、懲戒免職の可能性もある。

 ドツボにはまれ!

 心の中で罵倒(ばとう)して、再び電車に乗り込んだ。

        *

 最寄り駅で降りて歩き出すと、足元が何か変だった。ピンヒールがぐらぐらしていた。さっき痴漢男の靴を踏み付けた時に痛めたのかもしれない。

 あ~、とことんついていない。お気に入りのハイヒールなのに……、

 一気にテンションがマイナス100になった。

        *

「おはようございます」

 オフィスに入ってすぐに部長席を見ると、機嫌の悪そうな顔で座っていた。それはそうだ。被害を受けたとはいえ始業時間には間に合わなかったし、それに、アラスカから送った報告書は最悪なのだ。機嫌がいいわけがない。テンションはマイナス200になった。

 席に荷物を置き、室内履きに履き替え、パソコンを立ち上げてから部長席に向かった。

「申し訳ありませんでした」

 わざと蚊の泣くような声にして謝ったが、部長は何も言わなかった。言葉のゲンコツが飛んでくると思っていたのに叱責されることはなかった。

 出発前の(げき)はなんだったのだろうか? 

 (きつね)につままれたような気分になった。

 その日はなんの変化もなく終業時間を迎えた。室内履きのまま会社を出て、時々利用している駅の靴修理店へハイヒールを持っていくと、ヒールブロックの交換を勧められた。修理代が4,000円で3日掛かるという。給料日前なので痛かったが、他に選択肢がないので、代金を払って預かり書を受け取った。
 財布の中には2,000円しか残っていなかった。明日と明後日の昼食はカップ麺しか選択肢がなくなったが、それでも、むしゃくしゃが増していて、駄菓子を買うことを止めることはできなかった。

 夕食後に自室でバリバリ食べ続けて解消しようとしたが、そんなことで消えることはなかった。その上、食べ過ぎたせいか、お腹が気持ち悪くてなかなか寝付けず、七転八倒した。

 やっと眠れたと思ったら、最悪の夢を見た。
 痴漢されている夢だった。
 ヤメテー! と叫んだ瞬間、目が覚めた。
 パジャマは汗でびっしょりだった。
 テンションはマイナス1,000になった。