空は静かだった。
音も、風も、光さえも、まるで時間が止まったように、全てが遠ざかっていた。

僕の目の前で、君は倒れていた。
血まみれの地面に、刀だけがまだ力を宿していた。
でも、それももう限界だった。
君の命と共に、その力も消えようとしていた。

僕は、ただ理由もなく立っていた。
ほとんど何もできなかった。
止められなかった。

「やっぱり、来ちゃだめだった……」
呟いた声は届かない。
君は、もう聞こえていない。
けど、きっと分かってたんだよね。
これが、自分の役割だってこと。

君は最後まで、戦った。
僕を守るために。
世界を守るために。
そして、誰よりも……自分自身と戦ってた。

君が落としたその刀に、僕は手を伸ばす。
重い。冷たい。
けど、あの日触れた君の手と、同じぬくもりがあった。

でも、もう君はいない。
それでもきっとどこかで、また会えると信じてる。
それが希望でも、呪いでも、なんでもいい。
君がいた、この世界を。
僕は、忘れない。


「んっ⋯⋯」
ゆっくりと目を開けた。
眩しさに思わずまた目を閉じた。木漏れ日が揺れていた。
見知らぬ森。見知らぬ空。
そして、見知らぬ痛み。

「……っ、どこだ……ここ……」

身体は重かった。
起き上がるだけで背中に鋭い痛みが走る。
服は土にまみれて腕には大きな切り傷。そして乾いた大量の血がこびりついていた。
まるで誰かに殺されかけた後のような倦怠感。

思考が、上手くまとまらない。
頭の奥が靄のように霞んでいて、自分が誰なのかも一瞬だけ曖昧になった。

不思議と恐怖はなかった。
それよりも先に出てきたのは、疑問だった。
(なんで……こんなところに?)

記憶を探ろうとする。だがそこには、穴が開いていた。
最後に何をしていたのか?どこから来たのか?最後に見た自分の顔さえも……。

そのとき、近くで地面を踏むがした。
反射的に素早く身を構えた。それは何故なのか自分でもわからない。
しかし、現れたのは1人の中年の男だった。

「おっ、生きとったか。よかったよかった」

男は穏やかな笑みを浮かべ、手にした籠を地面に置いた。
中には薬草のようなものが詰まっている。
どうやら村の人のようだった。服装は粗末。だけれど、丁寧に整えられていた。

「お前さん、道の真ん中に倒れててな。まるで空から落ちてきたみたいだったぜ。今朝、村の若ぇのが見つけてな。俺が連れてきたんだ」
言葉の意味がすぐには入ってこない。
だが、自分が倒れていたという部分には引っかかった。
やはり、何かがあった。

「村……?」

「おう、ここはラシェルの村ってとこだ。大陸の外れの小さな島だよ。ま、今じゃすっかり忘れ去られたような場所だがな。お前さん、もしかして記憶がないのかい?」

少しの沈黙の後、俺はゆっくりと頷いた。
男は深く息をつきながら、立ち上がった。

「まずはうちに来な。村長がいる。いろいろ話せると思うぜ。お前みたいなのが突然現れること、まあ、そうないからな」

ふらつく足を支えながら、男の後をついていった。
森を抜けると、木の家々が並ぶ小さな村が見えてきた。
子供たちが遊び、大人たちが家の修繕をしている。
時間の流れが、どこか緩やかだった。

まるで、世界の裏側に置き去りにされたような場所。

やがて一軒の大きな家の前に着いた。
男は扉を叩きながら、中に声をかける。

「村長、連れてきましたよ。例の子です」

中から出てきたのは、白髪に深い皺を刻んだ老人だった。
だがその目には鋭さが残っていた。
ただの老いではない。多くを見てきた者の目だった。

「……目を覚ましたか。何よりだ。よく生きていたものだな」
「……あんたが、村長?」
「ああ。名はエルバ。今はこの村の世話役をしておる。お前の名前は?」

少し間を置く。
喉まで何かが出かかった気がしたが、それが何なのか分からない。
結局、何も言えなかった。

「……覚えていない。全部が、霧の中みたいだ」
「……ふむ。そうか。まあ、無理もないな。お前が倒れていた場所は、昔から不吉な場所とされている。だが、助かったのならそれでいい。いずれ思い出すだろう」

エルバは机の引き出しから何かを取り出した。
小さな金属のペンダントだった。中央に黒い宝石が埋め込まれている。

「これは……お前の服に引っかかっていたものだ。何かの手がかりになるかもしれん。持っておけ」

受け取った瞬間、指先が微かに熱を持った。
だが、それが気のせいなのか、確信はなかった。

その夜、村の外れの小屋に用意されたベッドの上で、俺は何度も夢を見た。
闇に沈んだ空、裂ける大地、叫び声。
そして、誰かの手が、確かに俺を……引き上げていた。

(誰だ……?)

朝が来るのが、妙に怖かった。

朝の光は、静かに小屋の中へ差し込んでいた。
目覚めた時、昨夜の夢の記憶はもう薄れていたが、胸の奥の違和感だけは残っていた。
言葉にならない不安と、理由のない焦燥。
名前を思い出せないことよりも、その感情の正体が分からないことが、何よりも気がかりだった。

ドアがノックされた。
「起きてるか?」
エルバの声だった。

「……ああ」
答えると、ゆっくりと扉が開かれる。

「体の調子はどうだ」
「まあ、動けるくらいには」
エルバはひとつ頷いて、小さな袋を差し出してきた。
中には干した果実と、水の入った革袋。

「朝飯代わりにしてくれ。……今日は少し、話をしたい。外に出ようか」
村の外れにある広場。
そこは円形に切り開かれ、中央に古びた石の祠のようなものがあった。
エルバはその前に立つと、静かに目を閉じた。

「この島には、言い伝えがある。500年前、世界が一度終わった時、ほんのひと握りの者たちがこの地に逃げ込み、生き延びたと」

「世界が……終わった?」

「今、我々が知る文明は、実は2度目の歴史だ。古き時代は魔族という存在に焼かれ、人も大地もすべてが滅びた。だが、奇跡的に生き延びた者たちが、記憶を封じ、新たな時代を築いた。……それが、今のこの世界だ」

言っている意味が、どこか夢の中の話のようだった。
だが、村に流れる空気、そしてこの島の静けさは、どこか現実離れしている。
まるで、過去に時間が縛りつけられているような錯覚。

「……それと俺が、関係あると?」

「あるかもしれん」
エルバはそう言うと、俺の胸元を指差した。
ペンダントが、微かに光を放っていた。

「それはただの飾りではない。鍵だ。そしてお前は、その力に触れた。……お前自身が気づいていないだけで、内に何かを宿している」

「何か、って……なんなんだ」

「それを知るには、己の力と向き合うしかない。……山の奥に、1人の男が住んでいる。元は旅の武人だったが、今は隠遁し、己の術を研ぎ続けている。名は、ガルド」

「ガルド……」

「この島で異質な存在を見極められるのは、あの男だけだ。お前を見れば、何かが分かるだろう。行ってこい。準備は必要ない。ただ、気を抜くな。……あの男は、人を試すのが趣味でな」

エルバの言葉を背に、俺は再び森の中へ足を踏み入れた。

森は深く、道はほとんど獣道に近かった。
枝が顔に当たり、泥に足を取られながらも、黙々と歩を進めた。

やがて、獣避けのように木の杭が刺さった細道を抜けた先に、丸太で組まれた小屋が見えてきた。
その前に、斧を持った大柄な男が立っていた。
腕は太く、肩幅は異常に広い。
だが、ただの木こりには見えなかった。
身体の周りに、言葉では説明しづらい緊張感があった。

「……あんたが、ガルドか?」
男は斧を肩に担ぎ直し、こちらを見た。
その目は鋭く、まるで獣のように人を見る。

「エルバのガキか。ほう……生きてたんだな、お前」
「……前に会ったことがあるのか?」

「いや、違うな。だが、匂いがある。人のものじゃない」
「匂い?」
「混ざってる。人間の皮をかぶったそれ以外がな」
ぞくり、と背筋が冷たくなる。
だが、ガルドは構わず笑った。

「面白い。気に入った。教えてやるよ、ちっとばかし、自分の中身の見つけ方をな」
修行は、想像よりも苛烈だった。
武術でもなければ、魔法のような派手な技でもない。
まず教えられたのは、“感じる”ことだった。

森の音を聞き分ける。
風の流れを肌で読む。
獣の気配を捉える。

「力は、外にあるもんじゃねえ。中にある。それを引き出すには、まず自分が何を感じてるかを知ることだ」

最初の数日は、ただひたすらに座っていた。
目を閉じ、何もせず、ただ五感を研ぎ澄ませろと命じられた。

だが、そんなものが急にできるはずもなく、最初は全く分からなかった。

ある日、ガルドが一言つぶやいた。

「……お前、眠ってる時に喋ってるぞ。やめろ、あれは違うって」
「……」
「何を見てる?」

夢だ。
毎晩、俺は同じ夢を見ていた。
遠くから誰かの声がする。

「来い……こっちへ来い」
手を差し伸べるその影だけが、なぜかはっきりと見えなかったんだ。

(……誰なんだ、お前は)
ある晩、ふいにペンダントが強く熱を持った。
反射的にそれを握ると、頭の中に直接響くような声が流れ込んできた。
「お前は……まだ目覚めていない」
飛び起きた。
額には汗。胸は強く脈打っていた。

翌朝、その様子を見たガルドが言った。
「やっぱりな。お前の中には何かがある。……それは選ばれし血か、目覚める力か……いずれにせよ、普通じゃねえ。もう少し鍛えれば、輪郭が見えてくる」

「力、って……なんなんだ、俺は一体……」

「それを知りてぇなら、まず自分を鍛えろ。何者か知るには、まず何者でもない自分を掘り下げるしかねぇよ」

修行は続いた。
呼吸の鍛錬、剣の素振り、瞑想。
ただの肉体訓練ではなかった。
精神を叩き直す、そんな訓練だった。

だがその過程で、確かに何かが目覚め始めていた気がしてきていた。
視界の端に、誰もいないはずの影が見える。
夜の風が、何かの囁きを連れてくる。
聞こえるはずのない声が、耳元に触れる。

「お前は、ここじゃない何かに呼ばれている。……それを恐れるな。向き合え」
ガルドの言葉が、胸に刺さった。
(本当に、俺は……何者なんだ)

修行を始めて何日が経ったのか、正確な日数はもう分からなかった。
山の中では、時間というもの自体が歪んで感じる。
朝も夜も、空の色さえ、どこかなにかがおかしい。
だが、身体は確実に変わっていた。
最初は苦しかった呼吸法も、今では無意識にできる。
重たい木刀を振ることにも、次第に慣れてきた。

そんなある日のことだった。

「……よし。そろそろ次に進むか」
ガルドがそう呟き、物置小屋の奥から黒い布に包まれた細長い何かを取り出してきた。

「これをお前に預ける」

布を外した瞬間、空気が変わった。
冷えた風が一瞬、頬を撫でる。
目の前には、ひと振りの刀があった。

刀身は静かに黒く光っていた。
まるで呼吸をしているかのような、重たい空気感。
柄は深い赤。鍔には古びた意匠が彫り込まれ、時代がかった匂いが漂う。

「……これは?」
「名はない。少なくとも、俺の知る限り、誰にも名付けられていない」
「じゃあ、なんで俺に?」
「この刀を使えるのは、限られた何かを持つ者だけだ。……普通の人間なら、五振りもしないうちに気を失う」

冗談のように聞こえたが、ガルドの目は笑っていなかった。

「この刀は、その力だけに反応する。だからこそ、お前に持たせる。何が起きるか……見たいと思ってな」

静かに刀を受け取った。
ずしりとした重みが手のひらを通じて伝わる。だが、重さそのものは気にならなかった。

「振ってみろ」

言われるがまま、構える。
重心を下げ、肩に余計な力を入れず、ゆっくりと一振り。

ヒュン、という音と共に、空気が割れた気がした。

もう一振り。
そしてもう一度。

切っ先が見えないほどの速度で振る。
振るたびに、何かがの力が身体の奥から出てくるのが分かる。

気づけば、何十、何百と振り続けていた。
汗は流れているのに、疲労感がなかった。

ただ、振りたい。
もっと。深く。速く。正確に。
意味もなく、そう思えた。

ようやくガルドの、やめろの声が聞こえたのは、何度目の斬撃だったか。

「……すげえな、お前」

肩で息をしながら振り向くと、ガルドが腕を組んでこちらを見ていた。

「もう千は超えてる。しかも、顔色1つ変えてねえ。……やっぱりな。そうだったか」

「……何が?」

「お前の中には、受け継がれた力がある。だが、それだけじゃない。……この刀と通じ合ってる。まるで、最初からお前のために作られたみてぇにな」

ガルドは歩み寄り、刀をじっと見つめた。

「この刀、最初に手に入れたのは500年以上前だ。北の山脈の奥、誰も近づかねぇ祠の中に、布に包まれて置かれてた。まるで選ばれるのを待ってたみたいにな」
「それから何度か、使わせようとした。村の若ぇ奴らにも試させた。だが、誰も3回も振れなかった。まともに持つことすらできなかった奴もいた」

ガルドの声に、どこか哀しみの色が混じる。

「刀の方が、使い手を選ぶ。……そういうのは、物語の中だけの話だと思ってた。だが、現実にもあるらしい」

「この刀……何なんだ?」

「分からねえ。鍛えたのが誰なのかも、素材が何なのかも。ただ、あの祠には封じの印が刻まれていた。つまり、これはただの刀じゃない」

振り返ると、確かに柄の根元に、奇妙な紋様が浮かんでいた。
まるで、無数の文字が絡まり合っているような……どこか“呪い”に近い気配。

「……それを平然と千回も振れる奴なんて、聞いたことがねえ。……つまりお前は、選ばれちまったんだよ」

選ばれた。
そう言われても、実感はなかった。
だが、胸の奥が妙に熱く、ざわめいていた。

(俺は……何なんだ。どこから来て、なぜここにいる?)

名も、過去も、記憶も曖昧なまま。
だが、手の中には確かに、存在理由のようなものだけがあった。

「この刀、お前が持ってろ。もう誰にも、使いこなせやしねえ」
ガルドはそう言って、背中を向けた。

「だが気をつけろよ。そいつは力をくれるが、同時に代償もある。もし、心が揺らげば……お前自身が、そいつに呑まれる」

その言葉を背に、俺は刀を鞘に納めた。
金属音が、体の奥まで響いた。

山を降りる頃には、空の色が黒色になり始めていた。
霧が濃く、まるで世界全体が言葉を失っているような静けさだった。
だが、その静けさはもう心地よいとは思えなかった。
腰には、あの刀。
名もなく、正体も分からない。けれど確かに、存在を主張してくる。

「力が欲しいなら……応えよう」
そんな言葉が、時おり頭の中に浮かんでくる。
まるで刀が、こちらに話しかけているかのように。

(……幻聴か?)

いや、違う。
これは何かと繋がっている感覚だった。

「お前は、誰なんだ……」

自問しても、やはり答えは返ってこなかった。

村に戻ると、エルバが一通の封書を手渡してきた。
茶色い紙に、黒インクで小さく名前が書かれていた。

「ゼク・ロア」
「彼は、元・魔族側の研究者だ。今は人間の社会に紛れ、過去の遺物を調べて生きている。……その刀についても、長年独自に調べていたらしい」

「魔族……だったのか?」
「そうだ。かつて魔界の門が開いた時、人の心を持つ魔族も少なからず存在した。彼はその1人。今は……まあ、穏やかに暮らしてると聞いている」

「都市にいるのか」
「中心街の外れ、古びたアパートに住んでいる。人を避けるような場所だ。だが、話せば応じてくれるはずだ」
俺は短く頷き、最低限の荷物だけを背負った。

中心街に入った瞬間、空気が変わった。
山や村の湿った空気とは違い、ここには鉄などの匂いが立ち込めていた。
都市と呼ぶには規模は小さいが、建物の密集やせわしない足音、誰もが他人に目を合わせない空気。
それらすべてが、俺には冷たく感じられた。

地図に示された場所は、街の端にあるアパートだった。
路地裏に入り、看板も出ていない三階建ての建物を見つける。
その二階、端の部屋にだけ、うっすらと「ゼク」という文字が貼られていた。

ノックした。
「来たな」
返事は一言。それも扉の向こうから、まるで予想していたかのような口調。
開いた扉の先にいたのは、痩せた青年だった。
灰色の髪に、乾いた目。人間とも、魔族ともつかない、妙な中性的な雰囲気が纏っている。

「……ゼク・ロアか」
「そうだ。入れ」

部屋の中は、まるで図書館と研究所の合い子だった。
壁一面に魔法記号と古代語が書かれた紙、山積みの分厚い本、ところどころに黒焦げた魔族の骨や装飾品が並ぶ。

「気にするな。全部過去の遺物だ。」
ゼクは薄く笑って、椅子に腰をかけた。

「じゃあ、用件を言ってもらおうか。封鋼の刃のこと、そして……お前自身のことについて、だな?」

「……知ってるのか」

「ああ。ここに来ることもな。そういう流れだ」

「……流れ?」

「俺は視えるんだ。ほんの一部だけな。線のように未来が流れていくのが見える。断片的に歪んだ映像のように。……それでも、お前がここに来ることは、もうずっと前から見えていた」

ゼクは立ち上がり、部屋の隅から一冊のノートを取り出してきた。
それを開くと、そこには黒いインクで何十もの日付が書き込まれていた。

「これは、俺が見た未来の記録。数年分だ。そして……その中に、お前がいた」

ゼクはページをめくり、1枚の紙を示した。
そこにはこう書かれていた。

2030年、封鋼の刃の使い手、現る。
名は不明。
覚醒の兆しあり。
同年、魔族との最終戦争勃発。
だがその戦争の終盤、彼は命を落とす。
刃は消失。世界は沈黙。

「……何だ、これ」
「未来の断片だ。見えてるだけだ。確定じゃない。だが……今までこの記録が外れたことは、一度もない」

喉が渇いた。
手が自然に刀の柄に触れる。だが、それもまた冷たい。

「封鋼の刃……これは何なんだ。俺は、なぜ……」

「封鋼は、均衡のための刃だ。正義でも、悪でもない。ただ、世界を保つために斬る。斬るべきものを。……かつて魔王に仕えていた一人の剣士が、己の命と引き換えに打ち鍛えた刀。それが、500年前に封印された」

ゼクは言葉を区切る。

「だが、彼は死ななかった。正確には、死ねなかった。……魂が、どこかに残った。次の器に宿るためにな」

「俺が……その器ってことか」
「その可能性が高い。姿も、記憶も変わっていても、本質は引き継がれるもの。……だから、お前だけがあの刀を振れる」

「じゃあ、その本質が俺を……戦争に巻き込む?」

「巻き込む?それは違う。お前が、その戦争を終わらせるんだ。命を代償にしてな」

胸が重くなる。
何も知らずにここまで来たのに、いつの間にか世界の中心に立たされていた。

「選べないのか、これは」

「……選べるさ。ただし、代償は変わらない。何を選んでも、お前の命は戦場で消える」

「ふざけんな……俺は、何も覚えてない。何も望んでない。なのに、ただ斬って、死ねってか?」

ゼクは冷静にこちらを見ていた。
その目には同情も、憐れみもなかった。ただ、事実を見届ける者の静かな眼差し。

「なあ、知ってるか。未来を視るってのは、呪いなんだ」
ゼクは小さな声で言った。

「俺は、お前がどうあがいても死ぬ姿を視ている。だが、それを止める力は持っていない。……俺は観測者だ。運命を語ることしかできない」

「それでも、お前は来た。予言通りに、ここに立ってる」

「……だから何だ。俺は……生きていたいだけだ」

「なら、抗え。生き延びてみせろ。……予言に逆らってみせろ。俺はそれを見てみたい」

ゼクの口元が、かすかに歪んだ。

「もし、未来が変わるとすればそれは、絶望を知った者だけだ」

この世界の何処かにあると言われている謎の島は、公式な地図にすら載っていない。

海に囲まれたその場所は、かつて魔界との境界が開いた地だと言われていた。
ゼクが最後に手渡してきた古地図には、確かにその座標が記されていた。

「そこには、もう誰もいない。だが、何かは今も残っている」
「お前が進む道の先に、それは不可避だ。……遅かれ早かれ、辿り着く運命だよ」

ゼクは最後にそう言い残していた。
小さな漁船を雇い、夜明けとともに出航する。
波は静かで、空は鈍い灰色に曇っていた。
航行することおよそ3時間。
視界の端に、うっすらと陸地が見えてくる。

「……あれが、謎の島か」

地図では接近禁止区域とだけ記されていた。
戦後すぐに、政府が完全封鎖した島。
だが、今は監視も警戒も存在しない。ただの放棄された場所。

船は浜辺に着き、足を地に下ろす。
潮の匂いに混じって、どこか鉄錆びたような空気が鼻をかすめた。
島は思った以上に広かった。
海岸線から丘を登っていくと、すぐに町並みが現れる。
だが、それは町と呼べるものではなかった。

崩れた家屋、傾いた電柱、草に覆われた道。
それでも一部には建物の原型が残っていた。看板にはかつての店名、銀行、学校、雑貨屋……。
人の生活の痕跡が、朽ち果てる寸前の姿でそこにある。

「……まるで、時間が止まったようだ」
歩くほどに、静けさが重くのしかかってくる。

遠くに見えるのは、巨大な監獄施設。鉄格子の塔と、崩れかけた石壁。
その奥には、白い灯台がぽつんと立っていた。
まるで誰かを導くためではなく、閉じ込めるための光のように見えた。

探索は数時間に及んだ。
建物の中には何も残っていない。
ただ、書きかけの手紙や、歪んだ日記帳、風で飛ばされた写真が転がっている。
どれも、500年前に何かがあって、それっきり誰も戻らなかったという証だった。

(ここで……魔界との門が開いたのか?)

誰もいないはずの島で、ふと気配を感じたのは、夕暮れが始まる頃だった。

灯台の近くにある、石造りの広場。
その一角、崩れかけた噴水の縁に、誰かがいた。
子供だった。
小さな背中が、静かに座っていた。
こちらに気づく気配はない。風も音も、まるで彼を避けているかのようだった。

「……おい」

声をかける。
子供は動かない。
それどころか、まるで最初からそこにいるべき存在のような静けさで、ただ座っていた。

ゆっくりと近づく。
年齢は10歳前後に見える。
痩せていて、肌はどこか透き通るように白い。

「お前……何してる。ここに、誰かいるのか?」

沈黙。
だが、その沈黙の奥に謎の気配があった。

こちらを見ていなくても、まるでこちらの内側を覗いているような。そんな違和感。

次の瞬間、子供はぽつりと呟いた。
「君、見たことある気がする」
「……俺を?」
子供は顔を上げた。
瞳が、赤かった。
燃えるような赤ではない。
深く、冷たい、魔の色だった。

「ここで君と会うの、3回目だ」

「は?」

「でも、今回は違う。前と違って……君は、まだ壊れてない」

その言葉が意味するものは、理解できなかった。
だが、胸の奥がざわついていた。
まるで、覚えていない何かが、彼の言葉で呼び起こされたように。

「お前……名前は?」
「……ないよ。誰もつけてくれなかった。魔王の子なんて呼ばれても、ぼくはただ、ここで待ってるだけだったから」
「魔王……の、子?」
子供は頷いた。
「うん。でも、それが何なのか、僕もよく分からない。ただ……みんな、僕を怖がって離れていった」

その表情に、感情はほとんどなかった。
だがその声には、深い孤独が滲んでいた。

この子は、ずっとここに座っていた。
誰もいない島で、誰にも知られずに。
500年前からか。あるいは、もっと前から。

(……この子が、魔王の子?)

目の前にいるのは、ただの少年にしか見えなかった。
だが、刀の中の気配がざわついていた。
まるで、同族の存在を感じ取っているかのように。

「ねえ、君……名前はあるの?」
「……いや、ない。俺も、記憶が曖昧でな。ここに来た理由すら、最近まで分かってなかった」

少年はふっと笑った。
「そう。なら、おあいこだね」
そう言って、初めてこちらに手を伸ばしてきた。

「また……会えてよかった」
触れた手は、あたたかかった。

風が止んでいた。
時間さえも隠れてしまったような、静けさが灯台の周りを包んでいた。

あの少年⋯⋯いや、魔王の仔は、静かにこちらを見ていた。
瞳の奥に、恐ろしいほど何かを抱えて。
それは年齢に似合わない目だった。

「……君、やっぱり変わってない」
少年がぽつりと呟いた。
「俺を……知ってるのか」
問いかけに、少年は首をかしげるように小さくうなずいた。

「たぶんね。……というより、知ってたんだ。昔の君を」

その言葉に、心臓が微かに疼いた。

「昔……って、いつの話だ?」

「500年前。……僕が生まれた頃」

空気が凍った気がした。
ただの比喩じゃない。本当に、温度が数度下がったような錯覚。

「そのとき、君は魔王って呼ばれていた。でも、本当は魔族でも人間でもなかった。ただ、すごく強くて優しかった」

優しかった、という言葉が意外だった。
魔王が優しい?
自分が?

「……俺は、そんな存在だったのか」

「うん。君は橋になろうとしてた。魔族と人間が殺し合わない世界を作ろうとしてた。……でも、うまくいかなかった」

少年は立ち上がり、灯台のふもとの古い石碑に手を触れた。
そこにはびっしりと古代語が彫られている。雨水に濡れ、読み取るのは難しい。

「この島は……君が最後に立ってた場所だよ。君が、魔界との門を閉じようとしてボロボロになって、ここで倒れた」

喉の奥が熱くなった。
意味のわからない感情が、胸の中で暴れ出す。
なにか、大事なものを……忘れてる。

「助けたのは、僕。君が僕を助けてくれたから」

「……!」

「君が死にかけてたとき、僕は子供だった。まだ、自分が何者かも知らなかった。でも、あのときの君は……僕の手を取って、笑ってくれたんだ」

少年は言葉を止め、こちらをまっすぐに見つめた。
「だから……僕は、君を助けた。500年後の今、ここで」
「……あのとき、俺が君を?」

記憶は、ない。
けれど確かに心の奥が共鳴している。
頭がズキッ!と痛んだ。
視界が歪む。
何かが流れ込んでくる。

視界が黒く染まり、次の瞬間、世界が反転した。
気づけば、そこは戦場だった。
焼け焦げた大地。
剣を振るう者たちと、叫ぶ魔族たち。
そして、その中心に自分が立っていた。

かつての自分は、深紅のマントを翻しながら、ただ1人で魔族たちを前に立ちはだかっていた。
その姿は、まるで……。

「魔王……」

自分の口から漏れたその言葉に、幻の中の彼が振り向いた。

確かにそれは、自分自身だった。
けれど、今の自分よりもずっと強く、どこか疲れていた。
その目は、すべてを諦めた者のような静けさをたたえていた。

そして、少年、魔王の仔がその男の後ろに立っていた。
怯えた顔で、必死に手を伸ばそうとしている。
でも、届かない。声も届かない。

やがて幻の中の自分は、静かに口を動かした。

「この世界がまた壊れるならせめて、橋となれ」

その瞬間、世界は白く弾け、幻は終わった。
現実に戻ると、灯台の周囲には夕暮れが差し込んでいた。
少年がそっと言った。
「……思い出した?」

「……ああ。少しだけ、な」
「じゃあ、きっともうすぐだね。君がどこに行くか、もう分かってるんでしょ?」

「……ああ。あの門がまた開こうとしてる。そして、俺はまた、それを止めに行く」

少年は何も言わなかった。
ただ、どこか寂しそうに笑った。

「お願い、今回は……」
その声は、かすかに震えていた。
「お願いだから、今回はちゃんと、生きて帰ってきてよ」

「……あぁ」

村に戻る途中の突然の違和感。
一歩進んだ瞬間、足が止まる。
空気が変わった。
それは直感に近かった。

昼間の森とは思えないほど、木々が黒く、影が濃い。
耳の奥に、小さなうなり声のようなものが響いていた。
いや、違う。これは……呼吸の音。

「……いるな」

体が反応していた。
腰の刀が、まだ鞘にあるにもかかわらず、うっすらと震えている。
生き物のように、獲物の存在を感じている。

ぬるり、と木の影から現れたそれは、四足の獣だった。
だが、ただの獣ではない。

その体は黒い霧のようなものに包まれ、
毛皮の中からは赤い筋が脈打つように浮かび上がっている。
目は……3つあった。
真正面に1つ、側頭部に2つ。全て真っ赤に輝いている。

魔族。
それも獣型の異形種。

「……来るか」

一瞬の静寂。
次の瞬間、地面が抉れた。
魔族は低く構えたまま、音もなく突進してきた。
その速さは人間の目では追えない。

だが、体が勝手に動く。
刀を抜く。
カッと空気を切り裂く音。
一閃。

だが、魔族は読んでいた。
後ろ足で跳ね、主人公の斬撃をかすめて宙に舞い、回りながら背後へ回り込む。

「っ……!」

間に合わない。
と思った瞬間、刀が再び動いた。
意識よりも速く、腕が反応していた。

背後からの爪撃を、鍔元で受け止める。
重い衝撃。
腕に痛みが走る。

一歩、二歩と下がりながら距離を取る。

「強ぇな、お前」

魔族は答えない。
だが、その口元にわずかに笑みのようなものが浮かんだ気がした。

呼吸を整える。
この一体、明らかにただの下級じゃない。
人語は話さずとも、戦いを楽しんでいる。
知性のある魔族……いや、半魔型か?

「……ちょうどいい」

今の自分が、どこまで通じるのか。
さっきの島で見た過去、あれが本当なら、俺はかつて戦場を駆けた存在。
なら……その感覚がまだ残っているはずだ。

「来い」

魔族が動いた。
今度はジグザグに地を這いながら接近してくる。
目が3つあるから奴は死角を持たない。
なら……逆にその余裕を利用する。

一歩踏み込み、真正面から迎え撃つ構え。
魔族が飛びかかる瞬間、足元の石を軽く蹴り上げた。

「今だ」

砂が宙を舞う。
一瞬、3つの目がそれを追う。

その隙を、見逃さなかった。

斜めから刃を滑り込ませるように振るう。
斬撃ではないく削ぐような。

ザクッ、と重い手応え。

魔族の肩口から脇腹にかけて、深々と裂けた。
黒い霧と血が噴き出し、奴の動きが止まる。

すかさず後ろへ跳び、構えを解かない。

「……倒せたか?」

だが違った。

裂けた身体から、再び黒い霧が溢れ出す。
そして、その傷口がゆっくりと閉じ始める。
再生能力。しかも尋常じゃない。
半魔どころか、上位体かもしれない。

「チッ……」

息を整える時間すら与えず、再び奴が突っ込んできた。
だが今度は、その速さに目が追いついている。

完全には避けきれない。
でも、受ける場所なら選べる。
主人公は左肩を犠牲にし、爪撃を滑らせたまま踏み込む。

「!!」

力任せにぶつかる。
刃ではなく、拳で腹部を打ち抜く。

魔族の体がぐらついたその瞬間、刀を真上から振り下ろす。

ドゴッ……という鈍い音と共に、刀が奴の胸元を貫いた。

霧が、ゆっくりと晴れていく。

魔族は喉を鳴らして崩れ落ちた。
黒い血が地面を濡らし、刃がほんのりと赤く光っていた。

主人公は刀をゆっくりと鞘に収めた。
その瞬間、刀から低く、満足そうな音が響いた気がした。

「……俺は、誰だったんだ。あんな戦い、いつの間に……」

かつての自分。
本能。
この刀。
すべてがまだ覚えている。
だが、記憶だけが、まだ遠い。

「俺は……これから、また戦場へ戻るのか」
呟きながら、血の付いた肩を押さえたまま、森の奥へと歩き出す。

村に戻る道すがら、朝の光が木の間から差し込み、足元には木漏れ日が踊っていた。
息は弾んでいたけれど、剣の重みを感じながらも、ふらつくことはなかった。
肩にはまだ痛みが残るけれど、それすら、誇らしさの余韻に変わっているようだった。

そして、村の輪郭が見えてくると、心臓が急に高鳴った。あの静謐な日々をともに過ごした人たちが、今の自分をどう迎えてくれるのか?それを想像するだけで、胸の奥に熱が広がる。

石畳の広場に足を踏み入れた瞬間、子どもたちの歓声と、主婦たちの驚きの声が一斉に溢れ出した。

「戻ってきたのか?!」
「ほんとうに生きて帰ってきた!」

震えるほどの温かさが、空気を満たしている。その声には、言葉を超えたありがとうやここで待っていたという感情が混じっていた。
自分が倒れていたあの道の真ん中で見つけられた苦悶が、こんなにも人の心に影響を与えていたなんてその事実に、胸がぎゅっと締め付けられたようだった。

男たちが駆け寄り、肩に手を置き、一瞬にして体が浮き上がるようだった。女たちは目に涙を溜めながら、その顔を覗きこむ。自分はただ笑って、「みんな」とただひと言。すると、歓声が一際大きくなる。

まるで花が開くように、子どもたちが主人公のまわりを跳ね回る。ある子は首に抱きつき、ある子は手を引かれたまま笑顔を振りまく。そこにいる全員が、自分の帰還を信じて待っていてくれたのだ。

そうして、緩やかな拍手の渦が巻き上がると、奥からじっとこちらを見つめる人物が現れた。村長、エルバだった。

「よく……帰ってきてくれたな」

声は低く、震えていたようにも聞こえた。その言葉には、何か重たく、深いやっと安心したという感情が混じっていた。

「……無事でした。……ありがとうございます」

主人公の声はかすかで、震え、だけど強かった。エルバは近づいて、そっと額に手を置いた。

「痛かったろう。……でも、生きていてくれた。それだけで、どれだけ救われたか、分からん。ありがとう、本当に」

言葉は途切れ、村長は目を逸らした。声に込められた思いは、老人の魂の深みから発せられたものだった。その横顔を見るだけで、自分の存在が、みんなにとって意味のあるものだったと実感できた。
わずかに沈黙が流れた後、エルバは静かに言った。

「今日は休んでくれ。夜になれば、みんな集まって祝おう。お前の話を、誰もが聞きたがっている」

その言葉に、丸太のベンチを用意されて座った。心臓はまだ速く打っていたけれど、体は少しずつ戻ってくる感覚だった。

「お前は……あの獣を……あの魔物を……?」

瞳に光を取り戻しつつ、自分が戦って、勝ったという事実を証明するために、手を拳にした。

「ええ……倒しました。……剣で」

すると、村人たちからため息交じりの驚嘆が漏れた。「剣で……本当に?」という声もいくつかあった。

「……本当に強かった。けど……もう大丈夫です。みんなの村は守られたままです」

その瞬間、隣にいた若者が息をのんで言った。

「ありがとう……もう、安心して暮らせそうだ」

村長がそっと僕の手を取った。握られた瞬間、少しだけ力がこもった。

「よくやった。ほんとうによく頑張った。……明日になれば、みんなと祝宴を開こう。酒はないから果実だけど、今夜はそれで十分だ」

それを聞いて、あちこちから笑い声がこぼれる。自分がいるこの場所が、何よりも尊いと思えた。

少しして、主人公は立ち上がり、村人たちに向かって頭を下げた。ひとりひとりと目を合わせ、ありがとうの言葉を繰り返しながらゆっくり歩いた。その重みが、胸の奥に温かな印として刻まれた。

最後に、村長と向かい合った。

「村長、村のみんな……ありがとう。本当に」

村長は一瞬目を細め、そして柔らかく微笑んだ。

「これでいいんだ。……これから、また一緒に生きていこう。だが、お前の旅はまだ終わっちゃいない。きっと、もっと危うくて、美しい未来が……、待っていると思うぞ」

その言葉に、胸の後ろ側がじんわりと温かくなる。これから待つ旅、そのすべてを、受け入れられるような気がしていた。

俺は夜明け前の村を出た。
まだ空には星がちらついてて、焚き火の残り香がほんのり鼻に残ってた。
村長や誰かと話したかったかもしれないけど、胸の中がざわついて、それを言葉にするのが怖かった。だから、1人で船に乗って、あの島へ向かったんだ。

霧が海面を覆ってて、視界はほとんどなかった。
だけど、海の揺れと木の板のきしむ音、それから水に揺れる灯りのぼやけた光が、妙に心強かった。
俺の鼓動が高鳴る。もう一度、あの島に立つ。だけど、前とは違う。

島に近づくにつれて、空気が変わっていった。
潮の匂いのあとに、鉄のにおいとか、まるで遠い記憶の奥にあった匂いが混じってた。
霧の向こうにぼんやりと、朽ちた建物の影。廃墟の町のかたちを思い出した。

浜辺に降り立つ。
砂はひんやりしてて、足の裏に伝わってくる細かさが。そうだ、あの日と同じだった。
静けさが重い。まるで、島全体が俺を待っていたみたいだった。

俺はそっと歩き出した。
瓦礫の山のを進む。あの灯台のほうへ向かうと、夕方に座っていた少年の場所が目に入ってきた。
ただ、今回はそこに誰もいない。だけど、彼がいたときの空気がまだ残ってる気がした。

あの子は、何者だったのか。
魔王の子、って言葉だけじゃ、俺のなかの何かを言い表せない。
ただ、あのとき、俺の中にあった光を、思い出させてくれた。

息を整えながら、俺は地図にある荒れた建物の跡へ来た。
かつては銀行か、学校か、名前がかすれて読めない。だけど、建物のかたちは、ここで人が暮らしていたことの証だった。

壁に残る古びた文字に気づいた。
彫られた文字はすっかり擦れてる。だけど、黒い石みたいに凍りついたくぼみが、言葉を語っているようだった。
手をかざすと、ひんやり冷たかった。でも、どこか……胸の奥がちくりと痛んだ。

(ここに、あの門があったんだ)
心の中で声がした。思い出したような、でも忘れてたような感覚。
この島の中心に、その門はあった。閉じようとして、叫んで、壊れて、倒れた場所。

俺は小さく息をついた。
それから、空を見上げた。霧の切れ間から、光が差していた。
まるで、俺が戻ってくるのを、待っていたみたいに。

そこで、俺は決めた。
もう一度、あの場所に行こう。門がまた開こうとしているのなら、俺は今度こそ……自分の答えを、形にしよう、そう思った。

門の前に立ったとき、俺は、時間の外にいるような感覚に包まれた。
風は吹いてないのに、空気が流れてる。耳の奥で、ざわざわと何者かの声がしてた。
まるで、過去の誰かたちがここで叫んだりしていたみたいに。

門は黒かった。けれどただの黒じゃない。吸い込まれそうな色。
鉄でもない、何かもっと、生きてるものに近い……そんな感触。

俺の指先が、ほんの少し触れたとたんだった。
ズンッと、心臓の奥が引っ張られるようにして、世界が裏返った。
気づいたとき、俺はもうそこに立っていた。
向こう側に。魔界に。

空は赤に近い灰色で、雲が逆さに流れてた。
地面はひび割れて、溶岩のような光が下から漏れてる。だけど、熱くない。冷たいのに、燃えてるみたいだった。

風景全体が、悲鳴みたいだった。
建物……いや、建物のようなものが、空に向かって曲がって伸びていて、
その隙間に、何かが蠢いていた。目か、口か、それとも他の魔族か。

俺は一歩踏み出した。怖かった。だけど目が離せなかった。

奥のほうに、巨大な像が立っていた。
それは、鎧をまとったような影で、目の部分が青白く光っていた。動かないのに、見られてる気がした。
近くにいた小さな影たち、人の形をしてるのに、どこかおかしい。
手が多すぎたり、笑ってる口が裂けすぎてたり。
そのうちの一体が、ふいに俺の方を見た。

目が合った。
そいつは首をかしげた。まるで「なんでお前がここに?」
とでも言いたげに。

その瞬間だった。
ズワッと空気が揺れて、俺の身体が引っ張られた。
影たちの視線が一斉に俺に集まる。像の目が、わずかに光を強くした。
そして、耳の奥に誰かの声が響いた。

(まだ……早い)

視界がぐらりと傾いて、足元が崩れる。
そして。
俺は、現世に戻ってきていた。

膝から崩れ落ちた感触。息が荒い。心臓がうるさいに鳴ってる。
周りには誰もいない。ただ、夜明け前の空と、潮の匂い。

でも、身体の奥がまだざわついてた。
確かに、あれを見た。感じた。あの世界の存在を。
俺は、手のひらを見た。指先が、まだ少し黒く染まっているように見えた。

それは、警告かもしれない。
でも、俺の心のどこかには確かに、あの中にある何かが、俺を呼んでいた。
終わってない。
そんな気がしてならなかった。

あの日、俺はひとりで、あの門の前に立っていた。
村の奥地、誰も近づかない崖の先。そこにそれはあった。

黒く、ねじれた空間。
空気は重く、冷たく、音が吸い込まれていくような静けさ。
あのとき感じたのは、興味じゃなかった。
怖さでもなかった。
ただ、呼ばれた気がしたんだ。中から、誰かに。

「……1回だけ、見るだけ」

そう言い聞かせて、俺は一歩踏み込んだ。

世界が、ひっくり返った。
地面はねじれ、空は赤黒く染まっていた。
木々はまるで苦しんでいるようにうねり、どこからか、叫び声のような風が吹いた。

「――ここが……魔界……?」

地面の下から、何かが這い出してくる音がした。
見れば、影のようなものが蠢き、形を変えてはまた崩れていく。
一歩、また一歩進むたびに、身体が重くなる。
目が、焼けるように痛むのに、俺はなぜか目を逸らせなかった。
奥に、何かがいる。

その存在に気づいた瞬間、
背筋を凍らせる視線を感じた。

「……見てる、のか……?」

そこにいたのは、人じゃなかった。
人型をしているけど、違った。
腕が多すぎたし、顔が……いや、顔の数がおかしかった。

そして、そいつは俺に向かって、
にやりと笑った。

「ッ!」

瞬間、世界が弾け飛んだ。

光も、音も、何もかもが反転して、俺の身体が宙に浮く。
息ができなかった。
心臓が止まったように、何も感じなくなった。
いや、止まったんじゃない。止められたんだ、きっと。
そいつは、何も言わず、ただ目で語ってきた。
「また、会おう」

……次に目を開けたとき、俺は、村の神殿の前に倒れていた。
村長や、仲間たちが俺を囲んでいた。
みんな、泣いていた。

「よかった……生きてた、俺たち、もうダメかと……!」
「心臓、止まってたんだぞ……!」

そう言われても、俺の中は妙に静かだった。
鼓動がゆっくりと戻るその瞬間、
あいつの顔が、頭から離れなかった。

……俺は、死んでいた。
たしかに、あのとき一度、死んだんだ。

だけど、戻された。
なぜか。
そして俺は、もう分かっていた。
あの存在は、ただの魔物じゃない。
魔王あれが、魔界の主だ。

そして、もっと恐ろしいことに気づいた。
……俺の中に、今もあの視線が残っている。

まるで、見られているみたいに。
いや、違う。
もう、内側にいるんだ。魔、そのものが。

俺は、生き返ったんじゃない。
こっちに戻されただけだ。
俺は、もう人間じゃないのかもしれない、そう思った。

村に戻ってきてから、毎日がにぎやかだった。
村人たちは俺を見れば笑顔になるし、子どもたちは駆け寄ってきた。
「本当にありがとう! 命の恩人だよ!」
「もう、怪我とかしてない? 無理しないでね!」

みんな、俺のことを英雄みたいに扱ってくれた。
村長からは感謝の言葉をもらい、仲間たちは肩を叩いてくる。
だけど、俺の中ではなにかが違った。
最初は、ただの疲れだと思ってた。
たしかに、あの門を越えてから、体にずっと重さがある。
夜眠っても、夢の中でずっと誰かに呼ばれてるような感覚が消えない。

いや、呼ばれてるっていうより……
引っ張られてる。
どこか、奥へ。

そしてある日、俺は自分にこう問いかけてた。
「……俺って、こんなやつだったか?」

昔だったら、子どもたちがはしゃいでたら、自然に笑ってた。
でも今は、作り笑いしかできない。
仲間がふざけて肩を叩いてきても、
その手を払いのけたくなる衝動が走る。
「触るな……」
って、心で思ってる自分に気づいてゾッとした。
それだけじゃない。
動物たちが、俺を見ると逃げるようになった。
犬が吠え、猫が毛を逆立てる。
鳥たちは近づかなくなり、畑の農夫が俺と目を合わせるのを避ける。

おかしい。
俺は何もしてないのに。
でも、たしかに、変わってきてる。
体温は少しずつ下がり、
鏡を見ると、目の奥の光が濁って見えた。
まるで、何かが、俺の中で目を覚ましかけてるみたいに。
そんな中、ひとりだけ、気づいたやつがいた。
この村での初めての同い年で一緒に育ったのカナだ。

「あんたさ、最近……なんかおかしいよ」
「……は?」
「笑い方とか、目とか。……前みたいなあんたじゃない」

俺は否定した。
けど、その瞬間、心の中にあの声が響いた。

「殺せ」
一瞬、カナの首元がはっきり見えた。
動脈の場所も、心臓の鼓動も、全部わかった。
手を伸ばせば、簡単に。

「……あ、ああ、俺……ごめん、ちょっと眠れてなくて」

カナがこっちを見たけど、それ以上は追及しなかった。
俺はその場から逃げるように立ち去った。
……ダメだ。
俺の中に、誰かがいる。
俺の中の俺じゃない何かが、静かに、確実に目を覚まし始めてる。

夜、独りになるときが一番怖い。
目を閉じると、あの赤黒い空が浮かぶ。
耳を澄ませば、あの魔王の声が聞こえる。
「おまえは、選ばれた。おまえは、こちらの者だ」
俺は叫んだ。
頭を抱えて、何度も何度も、自分の心を否定した。
「違う……俺は……人間だ……!」
けど、その言葉に答えるように、心臓が脈打つ。
ドクン、ドクン……

晩、村の外れにある監視塔から、急報が届いた。
「北の山脈で、不審な光と音が観測された」
しかもそれは、一夜だけじゃなかった。
数日続けて、夜になると同じ方向から普通ではない風が吹き、地面が震えた。

俺は、村長に呼ばれた。
「……あの山には、昔から誰も近づかん。だがな、どうやら目覚めてきたらしい」
「目覚めてきた?」
「これはな、ワシの爺ちゃんの話だ。昔、この地で戦いがあった。人間と、魔族と呼ばれるものたちの戦争じゃ。そのとき、奴らの一部がこの世界にも潜ったそうだ。……姿を変え、深く地球の底へ」
俺は言葉を失った。
魔族が……こっちにも?
「そのときの封印が、いま、緩んでいる。お前が魔界の門に触れてしまったせいかもしれん」

俺のせい……?
違う、そうじゃない。
けどそうかもしれない。

俺は、あの場所を開いてしまった。
そして俺自身も何かが開いてしまった。

「……行く。確かめなきゃ。俺が、見てくる」
村長は渋い顔をしたが、何も言わなかった。
すぐに仲間たちが集まり、調査隊が組まれた。

北の山脈は、霧に包まれていた。
昼でも薄暗く、鳥の声ひとつ聞こえない。
俺たちは山を登る途中、いくつか奇妙な痕跡を見つけた。
黒く焦げた地面。
削られた岩々。
何かが這い回ったような跡。
そして、ついにそれは現れた。

洞窟の奥で、俺は見た。
壁に刻まれた、魔族の紋様。
封印を意味する古代文字。
そして、うごめく黒い影。人間じゃない、何か。
そいつは俺を見ると、一瞬、ピタリと止まった。
そして、俺の心に直接、語りかけてきた。
「おかえりなさい……王の器よ」
「……っ!」

後ろにいた仲間が、刀を抜いた。
でも俺は、動けなかった。
その言葉が頭の奥で、ずっと響いていたから。

王の器?
なにを、言ってる。
でも俺は、わかってしまった。

あの魔王の声と、そいつの声が、同じ場所から聞こえてきていることに。
俺の中に、確かにそれはいる。
あのとき、門を越えた瞬間から、ずっと。

影はゆっくりと後退し、闇に溶けた。
洞窟の奥、まるで国のように広がる空間の先へ。

俺たちは追わなかった。
追えなかった。
その場から離れるとき、俺の背中には冷たい視線が刺さっていた。

「いつか、お前は戻ってくる。こちら側に」
村へ戻ると、報告書がまとめられ、調査は一時中止になった。
でも俺は、あのときの言葉が頭から離れなかった。
この世界にも、魔族の国がある。
魔界と繋がってる、根のようなものが。

俺は思った。
きっとあれは、ほんの始まりに過ぎない。
俺の中で変わっていくものと、世界でうごめく影。
それらが交差するとき、
この世界は、もう元には戻れないところまで来るんだ。