翌朝、弦はアンドレアと共にフィレンツェに向かう大型SUVの中にいた。運転しているのはシメオーニの三男、サンドロだった。
「フィレンツェに到着するのは夜になると思うよ」
流暢な英語だった。彼の説明によると、パルマ、モデナ、ボローニャを経由してフィレンツェに向かうのだという。どの街も人口4万人位のこぢんまりとしたところで、中世の街並みが美しく、パルマは生ハムとパルミジャーノチーズが、モデナとボローニャは柱廊と赤いレンガ色に染まる旧市街が有名だという。
「サンドロさんは何をされているんですか」
「工房でヴァイオリンを作っているんだ」
答えたのは助手席に座っているアンドレアだった。彼はどうも他人の話に割り込む癖があるようだ。しかし、それももう慣れたので、気にせず質問を続けた。
「ヴァイオリンも演奏されるんですか」
「とてもうまいんだよ。プロ級さ」
またしてもアンドレアだったが、それをやり過ごしていると、「そうでもないけどね」と魅力的な低音が運転席から聞こえてきた。バックミラーに映るサンドロの目元は涼やかで、いかにもモテそうな雰囲気を漂わせていた。そのせいか、「もう結婚はされているんですか」と余計なことを訊いてしまったが、彼は首を振って否定したあと、現在婚約中で、秋に挙式予定だということを教えてくれた。
「とっても綺麗な人なんだよ」
アンドレアは昨夜紹介されたのだという。女優のようだったと褒めそやすと、「それほどでもないけどね」と声が少し照れていたが、そこでいきなりアンドレアが話題を変えた。
「サンドロさん、音楽掛けていい?」
しかし、返事も聞かずにCDをセットすると、すぐにミステリアスなイントロが流れてきて、トランペットの演奏が始まった。すると、「クリス・ボッティだろ。NIGHT SESSHONSだっけ? これいいよね」とサンドロの声が弾んだ。頷いたアンドレアが後ろ手に渡してくれたCDジャケットを見ると、2001年の作品と記載されていた。流れているのは『LISA』という曲で、以前アンドレアの部屋で聞いた『ITALIA』とはまったく違う曲調だった。ミディアム・ロックという感じだった。
「最近のもいいけど、彼の若い頃の演奏も最高だよね」
サンドロがリズムに合わせて体を揺らすと、「この曲はもっといいよ」とアンドレアがオーディオのパネルに手を伸ばして何やら操作をした。すると、曲が変わって打楽器の音が聞こえたと思ったら、ハスキーな女性の歌が始まった。鼻にかかった声がセクシーだった。
「5曲目だよ」
振り返らず声をかけてきたのでそこを見ると、『ALL WOULD ENVY』と記されていた。
「誰もが羨むか……」
何か意味ありげにサンドロが呟くと、「なんのこと?」とアンドレアは聞き逃さなかったが、「昔のことさ」と口を濁した。そして、苦い思い出を消し去るようにヴォリュームを上げると、タイトなリズムが車内に響き渡り、呼応するように車のスピードが上がった。ペダルに乗せている足に力が入っているようで、トランペットの音色がセクシーな歌声に絡むと、更にスピードが上がった。バックミラーに映るサンドロの瞳が揺れているように見えた。



