もちろん、1,000万円はエルから貰ったものだ。
 私は何から何までエルに貰いっぱなしで、そんな私がエルに返せるものは、あまりにも少ない。
 だからせめて、食を中心とした生活を快適に過ごしてもらえるように、私はこれまで以上に料理に励んだ。
 エルのためにお弁当を作り、毎日のようにエルの部屋に通って掃除をして、晩ごはんを作って一緒に食べた。
 両親に決別宣言をして以降、門限はなくなったので、遅くまで彼の部屋にいさせてもらうことができた。
 けれど、彼の部屋で夜を明かすことだけは、『それは結婚してから』と彼に反対された。

 私はエルに少しでも恩を返すべく、がんばって料理のレパートリーを増やした。
 中華にイタリアンにフレンチに。
 けれど彼は恐ろしいほど外食慣れしていて、逆にまったくと言っていいほど家庭料理慣れしていなかった。
 端的に言って、彼は『家庭の味』に飢えていた。
 だから私はレパートリーを増やしつつも、それを家庭の味に落とし込む努力をした。
 例えば『洋風みそ汁』とかね。
 あとはメインがガチめの外食っぽいやつでも、アツアツごはんとみそ汁とお漬け物を欠かさず付けるとか。

 あ、魚の三枚下ろしもできるようになったよ。
 境様の対物結界はニオイにも有効で、私はどれだけ魚を捌いても手にニオイが付かない。
 いやぁ便利。

 そんな感じで、何事もなく数週間を過ごした。
 私はおおむね幸せだった。
 けれど、あくまで『おおむね』の幸せだった。
 つまり不満があった。
 何が不満なのかと言うと、彼がキッスをしてくれないのだ。

 毎日のように何時間も一緒にいるので、そりゃ、いい雰囲気になることも多々ある。
 エルは優しくて、私が甘えるつもりでもたれかかったら肩を抱いてくれるし、頭を撫でてくれたり、手で髪を梳いてくれたり、情熱的なハグもしてくれる。
 それはそれで非常に甘美な時間なのだけれど、私はその先を望んでいる。
 つまり、キッスだ。
 既成事実を作りたいのである。

 例えば私が彼に向かって顎を上げ、目を閉じてみせる。
 俗に言う『キス待ち顔』である。
 が、彼は『ふふっ』と苦笑して、私の唇に指を当て、『そういうのは結婚してからね』と言うばかり。
 何なんだろうか。
 雑誌や漫画なんかで見ている限り、キレイな女――私はあの、性格はネジ曲がっているけれど顔面偏差値だけはやたら高い双子の姉・巫由(ふゆ)と同じ遺伝子を持っているので、エルの財力で身だしなみとお肌を整えた今現在の私は自分で言うのも何だが美人なのだ――にここまでされたら、男はオオカミになってガオーッとくるものではないのだろうか。

 もしかして、私の魅力が足りてない?
 と不安になるが、エルが私を見つめる眼差しの、湿度の高さは本物だ。
 ふぉっふぉっふぉっ、この男、心の底から私に惚れておる。

 え、でもだったら、健全な男性ならカノジョにキッスしたくなるもんなんじゃないの?
 そうは思うものの、いくら誘惑してみても、彼の決意は硬いらしく、結果は芳しくない。
 ううむ。
 何か、理由があるのかもしれない。
 まだ、私に明かしてもらっていない、彼しか知らない重大な『事情』というものがあるのかも。
 彼のご実家、何やら複雑なご家庭みたいだし……。

 そんな彼の心をときほぐせる存在に、私はなりたい。
 いや、ならなければならないのだ。




   ◆   ◇   ◆   ◇




 草木も眠る丑三つ時、つまり深夜2時である。
 私は神戸上空数千メートルにいた。
 気温と気圧は、境様の自動結界がすべていい感じにフォローしてくれている。
 どれほど高所にいても、私は寒くも苦しくもない。
 境様の自動結界、本当に万能すぎでしょ。

 こんな高所にいられるのは、境様が展開する【飛翔】術式のおかげ。
 そして、なぜ私がこんなところにいるのかというと、もちろん、下界を見下ろすためだ。
【千里眼】の術式にはナイトビジョンの機能もあるので、眼下の様子がはっきりと視える。

「見つけた」

 私は【飛翔】を切って、自由落下を始める。
 数千メートル落下し、着地の寸前に一瞬だけ【飛翔】を展開され、ふわりと地面に降り立った。
 そこは、夜の公園。
 物陰でウゾウゾと蠢いているのは、キツネのような、そうでないような、黒いナニカで形作られたドロドロの生き物だ。
 いや、生きていると言っていいのか疑わしい。
 コイツは、霊だからだ。
 満足に実体化もできない、低級の動物霊。

「――()ッ!」

 霊力をまとわせた拳で、私は動物霊を殴りつけた。
 とたん、爆散する動物霊。
 人類最強の私にとって、この程度の霊など相手にもならない。

「除霊完了っと。次行くわよ、(さかい)様」

「おうよ」

 境様に霊力を供給してもらい、私は再び夜空へ上昇。
 しばらく【千里眼】で辺りを確認し、

「また見つけた」

 墓地に動物霊を発見したので、落下、着地し、霊に拳を叩きつける。
 だが、

 ――グォォオオオオッ!

 今度の霊は、私の一撃を耐えた。
 雄叫びを上げながら、襲いかかってくる!

「うおっ!? 硬いわね、コイツ」

 だが、動物霊の突進攻撃は、私にはまったく効かなかった。
 境様の対物・対霊結界によって弾かれたからだ。

「もいっちょ、()ッ!」

 より多くの霊力をまとわせた拳で、動物霊に右ストレート。
 すると今度こそ、動物霊が爆散した。

「今日はこんなところかしら。他に反応はないわよね、境様?」

「そのようだな」

 何をしているのかと言うと、ご覧のとおり除霊作業である。
 本来は、あのキツネ男――阿ノ九多羅(あのくたら)ミカたち退魔師の仕事なのだが、いかんせん日本というのは広く、対して退魔師は数が少ない。
 だから、どうしても墓地とか病院とか学校の近くに霊物のたぐいが発生してしまうことがある。
 放っておいたら人間を襲いはじめるので、こうして退治する必要があるのだ。

「退魔家業からは足を洗いたい、なんて言いつつも、こういうところは真面目なんだな」

 境様が褒めてくれた。
 私は照れ隠しにそっぽを向きながら、

「私なら簡単に調伏できるのに、調伏しなかったがために誰かが襲われたりしたら、寝覚めが悪いもの。でも、せいぜいが隣町までよ。さすがに他県とかは無理。見ないふりをさせてもらうわ」

「それでも、十分に立派な心がけさ。誰が褒めてくれるわけでもないのに」

「境様が褒めてくれるから、いいのよ。っていうか何、妙に優しいわね。そんなに褒められても、何も出ないわよ?」

「俺様はこれでも、善神の端くれだからな。善い行いをしているヤツの姿を見ていると、嬉しくなっちまうんだよ」

「ふぅん」

「それにしても、最近多いな」

「やっぱりそうよね。ハロウィンの季節になったら西洋産のアヤカシが増えるのは、毎年のことだけど。でも今はまだ6月だし、出てくる霊も日本産っぽいし」

「案外、近所の学校で誰かが『コックリさん』でもやってるのかもしれねぇぜ。それで、動物霊たちが騒いでいるのかも」

「なんて迷惑な!」

 などと話し込んでいたのがマズかったのだろう。
 私は、第三者の出現を、その人物が墓地に飛び込んでくるまで検知できなかった。

「やばっ、誰か来た。逃げなきゃっ。でも、どうやって!?」

 空を飛ぶ?
 いや、見られたらアウトだ。
 ならば隠れる?
 ええとじゃあ、墓石の陰に――

「誰だ貴様っ、その強大な力は――」

 ヤバいっ、顔見られた!
 身バレするぅぅぅうううううう!