「ふんふんふふ~ん♪」

 指輪を夕日に掲げながら、鼻歌が止まらない私である。
 そんな私を、エルが嬉しそうに見つめてくれている。
 ふと、エルが時間を確認して、

「さて、そろそろ帰らないと。(いつつ)の家の門限は18時だったよね」

「門限と言うか……」

 母いわく『出来損ないへのエサの時間』。
 両親に支配された陰鬱とした実家を思い出し、私は憂鬱になる。

「でも、どうしよう。婚約のこと、どうやって親に説明すれば……」

「一度、ご挨拶に伺うよ。その時に、私から説明させてほしい」

「うーん」

 私は、気が進まない。

「私の交際のことは、ご両親もご存知なんだろう?」

「多分、ですけど」

 きっと、巫由(ふゆ)が言いふらしていることだろう。

「両親とは、反りが合わなくて……。もう何年も、会話らしい会話をしていないんです。えっと」

 恐る恐るエルの顔を見上げると、彼はなんてことない顔をして、

「まぁ、家庭はいろいろだよね」

 と言った。
 やはりこの人も、複雑な家庭を持っているようだ。
 私がエルにシンパシーを感じるのは、きっと私たちふたりとも、親から愛されずにここまで生きてきたからなのだろう。

「やっぱり、親へは私から説明します。エルに不快な思いをさせたくないので

「私は気にしないけど」

「私が気にするので」

 あの両親のことだ。
 退魔師でもない一般人と結婚する、なんて知ったら、エルにどれほど心無い言葉を投げかけるかも分からない。

「そっか。そういうことなら、お任せしようかな。でも、助けが必要ならいつでも言ってね」

「ありがとうございます。あ、じゃあお言葉に甘えて、さっそくで本当に申し訳ないのですが……」

「大丈夫。心配せずに何でも言ってごらん」

「本当に大丈夫ですか? 本当にとんでもないお願い事なんですけど」

「大丈夫」

「では…………」

 かくかくしかじか。
 私はエルに、家庭の事情について説明した。

「人様の親御さんをとやかく言うのは何だけど」エルは苦虫を噛み潰したような顔をして、「それ、本当に親のすることかい?」

「ですよね……。エルには多大なご迷惑を」

「迷惑だなんて。キミひとりで戦わせてしまって悪いけど、がんばって」

「はい!」

 気合は十分だ。
 私はエルから、お守り(物理)をもらったのだから。




   ◆   ◇   ◆   ◇




「こんな時間まで、どこほっつき歩いてたの! このクズ!」

 私を出迎えたのは、母の罵声だった。
 母が決めた門限の5分前には帰ったのに。
 その場の思いつきと自分の都合で主義主張をコロコロと変える、実に母らしい言動だ。
 ここで『門限には間に合っているじゃないか』などと口答えしようものなら、往復ビンタからの金切り声のようなお説教が始まるので、黙っている。
 (さかい)様直伝の自動発動型対物結界で守られた私の頬は痛くも痒くもないけれど、ヒステリックな説教を何十分も聞かされるのは苦痛だからだ。

「って、そんなことはいいのよっ。アンタがグズなせいで、余計な時間を取ってしまったじゃない。それよりアンタ、勝手に男と付き合っているらしいわね? どういうつもりっ?」

「どういうつもりも何も」

 私の人生なのだから、誰と付き合おうが私の勝手だろう。
 さすがに、結婚する前にはちゃんと報告するつもりでいたし。

「……ん? アンタ、その指輪は何?」

 母が、私の左手の指輪に気づいた。

「えっ、ダイヤ!? こ、こ、これ、いったい何カラットあるの!? アンタこれ、いったい誰から!? こんなの何百万、いえ、何千万円も――」

「なんぜんまん!?」

 これには私も驚いた。

「ど、どういうこと!? 伍、説明しなさい!」

 あ、久しぶりに母から名前で呼ばれたな。
 いつもは『アンタ』とか『アレ』とか『そいつ』だったから。

「実は、プロポーズされまして。まずは婚約から、ということに。これはその証」

「あぁ、あぁぁ……」

 母はふらりとなった後、

「あなた、あなたーーーーっ!」

 と叫びながら、家の奥へと消えていった。
 私はため息をひとつ。

「相変わらず」と境様。「ヒステリックな親だなぁ」

「本当にね」

「あれでも、元は春神の巫女だったんだぜ」

「らしいわね」

「春神いわく、昔っからあんな感じだったらしいぜ」

「救いようがないわね。春神様に、『母がご迷惑をおかけしました』って言っておいてもらえる?」

「はははっ」

 私が自室に戻ってくつろいでいると、

 ――ドタバタドタバタッ

 と廊下を走る複数の足音が聴こえてきて、

 ――スパーンッ

 と、私の部屋のふすまが開かれた。

「どういうことだ、伍!?」ヒステリックにわめきながら、父が押し入ってきた。「私に断りもなしに、男と交際しているだと!? どこの馬の骨だ」

「さんざん放置してきたくせに、いまさら父親面しないでよ」

「何だとっ、貴様誰に向かって――だいたいお前は昔から――あーだこーだ――」

 父の小言が始まったが、

「あなたっ」

 母が、そんな父を止めた。
 こ・れ・だ・よ。
 母は、自分は好きなだけしゃべくり回るくせに、人が喋っていると平気で遮るようなところがあるんだよね。
 巫由と同じで、さぞワガママ放題で育ってきたのだろう。

「伍」と父。「お前には、阿ノ九多羅(あのくたら)ミカエル様に嫁ぐという大事なお役目があるだろうが」

「それは何かの間違いって話じゃなかったの? 巫由(ふゆ)なんて、未だに阿ノ九多羅ミカの妻になる気まんまんみたいだけど」

「あれはそのっ、勘違いだ!」

 支離滅裂だ。
 この父は恐らく、私が自分の思いどおりにならないのが気に食わないだけだ。
 母も同じなのだろう。
 犬猫のように扱い放置してきた娘が、大きなダイヤの婚約指輪を贈ってくれるような相手と婚約したことが、ただ純粋に気に入らないのだ。

「とにかくっ、お前は四季神(しきじん)家の大事な資産なのだ。お前の養育には大金をかけている。1,000万円だ! それを返すまで、自由になれると思うなよ」

 そう、これこそが、エルに『親のすることか』と言わせしめた父の所業。
『1,000万円返すまで、自由にはさせない』発言だ。

 実際には、私は保育園にも幼稚園にも入れてもらえず屋根裏部屋で放置されていたし、小中高とも公立に通っているし、ランドセルも勉強机も教科書も文房具も衣類も何もかもが姉たちからのお下がり。
 食事も両親や姉たちの残飯だ。
 そのうえ、休日は女中たちと一緒に下働きまでさせられている。

 だから、1,000万円なんてどう考えても絶っっっ対にかかっていない。
 むしろ、下働き分を給料にしたら、すでに返済しきっているまである。
 だからこれは、父によるウソっぱちなのだ。

 父のすごいところは、このウソを私が2歳かそこらの頃から私にずーーーーっと吹き込み続け、私の精神の根幹部分に深く根付かせてしまったところだ。
 そのうえ、私に得意の精神汚染呪術までかけているという徹底っぷり。
 まったくもう本当に、『親のすることか』だよね。
 私が【魅了】の術を得意としているのは、幼少から父の精神汚染呪術に毒され続け、耐性を付けていたからに他ならない。

「い、1,000万円……」

 ほら、今も。
 私の声が、自分でも分かるほど震えている。
 私の体に異変が起こりはじめている。
 喉がカラカラになり、体が震え、全身に冷や汗が浮かぶ。
 父の言葉に逆らおうとすると、体が拒絶反応を起こすのだ。
 父にかけられた【洗脳】呪術の効果である。
 境様の結界すら突破してくるなんて、どんだけ強い呪いなのよ。
 実の娘をこんな呪いで縛るとか、どうかしてる。

「お前さんだけは、それを言っちゃいけねぇよ」と境様からのツッコミ。「ほら、さっさと愛しのダーリンからもらったアレで対策しな」

 分かってるわよ、境様。

「っ――」

 私は強烈な頭痛に耐えながら、エルからもらった小包を取り出した。

「そんなに1,000万円が欲しいなら、くれてやるわよ!」

 その小包を、父に向けて全力でぶん投げる。

 ――ぺちーんっ
 ――バサバサバサッ

 小包が父の顔にクリーンヒットし、封が解けた。
 中から出てきたのは、

「さ、札束!?」父が目の色を変える。「これも、これも、これも!? まさか本当に!?」

「1,000万円よ。四季神家との手切れ金として、お支払させていただきます」

 鼻の穴を膨らませながら札束を拾い集める父と、顔面蒼白で立ち尽くす母に、私は宣言した。

「高校卒業とともに、私はこの家を出ます。それまでの間、戸籍とこの部屋だけはこのままにしておいてください。そのほうが育児放棄を疑われないから、アナタたちにとっても好都合でしょ? ご飯も要らない。衣と食は自分で全部なんとかします。残り2年半、私のことは野良猫か置物だと思ってください。今までと同じように、ね」

 こうして私は、この忌々しい家と決別したのだった。