彗星が落ちる夜に、世界から消えた君と

 バスに揺られて数十分経った頃、バスはようやく目的地に到着した。そこはその路線の最終地点で、一本の街灯と簡易的な休憩所があるだけで他は何もなかった。こんな夜に男女一組が終点で降りるのをバスの運転手は怪訝そうな顔で見てきたが、心愛はそれに気がついた様子はなかった。昴だけが若干の気まずさを感じながら運賃を払って外に出る。

 澄んだ空気にさわさわと風に揺れた葉の音がする。

 街灯の明かりがパチパチと時折跳ね、それらに蛾や虫が集っている。

 バスはそのままどこかへと走り去っていき、その場には心愛と昴の二人が取り残された。

「ここからどこに行くの?」

 何も知らない彼女は昴の次の行動を確認する。昴は行き慣れた道を心愛の手を握って進み出す。旧天文台までの道はアスファルトで舗装されている。一本道でも繋がっているから迷子になることもない。ただ、明かりがないため昴はカバンからスポットライトを取り出して二人の足元を照らす。

「何もないところだね。スバルはいつもここにきてるの?」
「何もないけど、星は一番綺麗に見える」
「たしかに、すごくたくさんの星が見えるね。私、こんなにたくさんの星を見たの、いつぶりだろう」

 ゆっくりと道を進みながら二人は静かに話す。空を見上げた心愛の瞳に満天の星の輝きが閉じ込められる。テンションが上がっているのか、暗がりでも頬が赤く染まっているのがわかった。

「この先には天文台の跡地があるんだ」
「天文台? それって何?」
「天文台は天体やその現象を観測したり解析したりするところ。今は使われてないから、形だけの施設だけど」
「そんなところがあるんだね。そこからならもっといっぱいの星が見えるかな?」
「開けた場所に出るから、たぶん。でも、暗さはこことそんなに変わらないから、見えてる星の数は変わらないかもしれない」

 二人で話しながら進んでいると大きく開けた場所に到着した。そこには廃墟と化した天文台が聳え立っていた。壁にはひびが入り、蔦や植物が無尽蔵に伸びている。地面のアスファルトはところどころ欠けており、気をつけないと足を取られて転んでしまいそうだった。

「これが、天文台……」

 初めて見るのか大きく目を見開きながら心愛は息を呑んだ。天体の知識は豊富に持っているのに天文台は見たことすらないようだった。

 心愛の知識の偏りに彼女らしいな、と思いながら昴は天文台の扉に近づく。

「もう使われなくなってからどれだけ経つのかは知らないけど、ここの扉の鍵が壊れてて中に入れるんだ」

 ドアノブを捻ってゆっくりと扉を開ける。錆びついて甲高い音と共に扉はゆっくりと開き、心愛は昴に導かれるように中に進む。

 誰も使わなくなった天文台の内部は埃っぽい。山の中は七月にしては幾分か涼しかったが、建物の中はそれ以上に空気が冷たかった。

 少し歩くと、ドームのところが完全に開いた状態で、その中心に大きな望遠鏡が鎮座している部屋に辿り着く。

「ここが、俺の好きなところ。静かで、誰にも邪魔されずに星が一番綺麗に見える場所」
「……すごいね。私、こんなに大きな望遠鏡は見たことない」

 人の大きさよりも何倍もする望遠鏡に目を輝かせる。そして昴が空を見上げているのに倣うように心愛も空を見上げる。

 そこには宇宙が広がっていた。

 幾重にも浮かんだ星がそれぞれに光を放っている。まるで私を見て、と声をあげるように二人に話しかけてくるみたいだった。

 そしてその光の渦の中心にハレー彗星が輝いていた。
 大きな光の集合体が星の海を切り裂くように存在している。

 目の前の光景に胸を打たれたような心愛のことを横目で見ながら昴も空を見上げる。両方の人差し指と親指で四角い窓を作ると、その窓の中にハレー彗星と星々を収める。カメラを持っていない昴はその光景を目に焼き付ける。美しい星空の一瞬を、この先も忘れにないように。

「あれが、ハレー彗星……」

 そんな昴の横で心愛が彗星に向かって手を伸ばした。昴はその様子を見ながら、心愛がハレー彗星に吸い込まれてしまうのではないか、とおかしなことを考えた。

 まるでこの星空と一緒に、心愛までどこか遠くに行ってしまいそうな――そんな妙な不安だった。


 その瞬間、何かの映像が昴の頭に一瞬よぎった。

 真っ暗で、無機質な岩の塊がいくつも辺りを漂っている。

 音も風もなく、ただ目の前をたくさんの塊が過ぎ去っていく。

 そしてそれは自分も例外ではないのだと、途中で気がついた。昴自身も岩の塊と一緒にどこかへと流されていく。

 かと思ったら、次には大きく青い球体が目の前に現れる。

 その球体にはところどころ緑や白い何かもあり、まるでいつかの宇宙から見た地球のようだった。

 見たこともない光景なのに、どこか懐かしい気がした。心の奥底に何かが満ちていくような、静けさがそこにはあった。

『――!』

 その時、誰かの声が昴の頭の中に直接入り込んでくる。誰の声かは分からなかったが、その声には悲しみや寂しい気持ちが込められているようで、ぎゅっと胸が苦しくなる。


 この景色は、一体――。


「スバル!」


 心愛の焦ったような声にハッと意識を現実に戻す。知らずうちに止めていた息を呑み込むと急に肺に空気が入った関係なのか大きく咳き込むことになった。


 ――なんだ。何が起きたんだ?


 訳がわからず咳き込んでいると心愛が心配そうに背中をさすってくれた。しばらくして落ち着いて昴は心愛に「ありがとう」と言った。心愛はなぜか申し訳なさそうな表情を浮かべ「ごめん」と謝った。

 その意図が分からず心愛の方を見ると、心愛は目尻を下げながら悲しそうに笑うだけだった。

 なんで、とその表情のわけを尋ねるよりも前に心愛は昴のそばからスッと離れる。

「ごめん。そんなつもりはなかったの」

 昴に背を向けた彼女の肩は小刻みに震えていた。まるで何かに怯えているようだった。昴には心愛が何を恐れているのか分からずただ困惑するだけだった。

「私、本当に今日のこと楽しみにしてて……それなのに、なんで」

 両腕を抱え込みながら心愛の背中は少しずつ丸くなっていく。そしてその場にしゃがみ込んでしまう。

 昴は彼女の苦しみに寄り添うようにそばに近寄る。

 泣くのを堪えるように心愛は唇を強く噛み締めている。

「うまくいかないなぁ」

 自虐するように心愛は力なく笑う。その様子に昴の心も締め付けられるようだった。

 彼女には笑っていて欲しかった。そんな自分を責めるような笑顔ではなく、周りを明るくするような天真爛漫な笑顔を見せて欲しかった。

 その笑顔こそ、昴が好きになった心愛の姿だから。

 だけど、それを口にするのは違うということもわかっていた。ただ昴の願望を伝えるのは独りよがりに過ぎない。だからこそ、昴はどうして心愛がそんなに苦しそうに笑うのか、理由が知りたかった。一緒に背負ってあげたいと思ったのだ。

「俺は、九ノ瀬と一緒に来れてよかった……俺も、楽しみにしてたから」
「……!」

 心愛の正面に回り込み、その両頬を手で包み込んで顔を引き上げる。心愛は驚いたように目を見開きながら昴の方を見た。星の輝きとハレー彗星の光が心愛の瞳を輝かせる。その煌めきに吸い込まれそうになりながらも昴は自分の気持ちに少しだけ素直になる。


「一回しか言わないからよく聞けよ……俺は、お前が好きだ」