折りたたみ式の望遠鏡を専用の袋に入れる。その後、虫除けスプレーと蚊に刺された時のためにムヒも準備する。

 一人で屋外の天体観測を行うのならここまで荷物を気にすることはないのだが、今日は昴一人じゃなかった。

 今日はいつの間にか一緒にいる時間が幼馴染の瑞稀よりも長くなりつつある心愛と一緒に、ハレー彗星の観測をしに行くことになっていた。

 結局、心愛が昴の家に観測記録を見に来た日は何もせず、ノートを見せただけで終わった。心愛は最後まで駄々をこねる子供のようにハレー彗星の観測を一緒にしようと誘ってきたが、なんの準備もなく、心愛の家族にも悪いと思い日を改めてもらうことにした。

 心愛は可愛らしい顔をムッとし、眉間に皺を寄せ顰めっ面を見せたが昴も一歩も引かなかった。本当だったら一緒に観測する必要もないところを、譲歩するつもりで後日やろうと提案しているのだ、心愛にも譲歩してもらいたいところだった。だが、ここで一枚上手だったのは心愛の方で、それなら明日やろう、と提案してきたのだ。本当ならもっと後が良かったが、ここが落とし所だった。

 そんなこんなで昴は心愛が帰ってからそそくさと準備を始めた。一人で天体観測を行うときは自室にある大きい望遠鏡を使うか、お気に入りの観測スポットに赴き、何にも邪魔されない場所で小型の望遠鏡を持っていって行っていた。

 昴がよく行く観測スポットは、使われなくなった天文台の跡地だった。古い時代に作られたのか、建物自体は老朽化が進み、木々が繁茂しており、いかにも廃墟感がする場所だった。だけど、そこは町からも十分離れて、天体観測行いやすいようにひらけた場所にある。街灯もなく、頼りになるのは星と月の明かり、そして持参するライトだけだった。

 暗さも立地も十分過ぎるほど整っているその場所は、存在自体を忘れられているのか、いつまで経っても解体作業が行われる様子はなかった。だから、昴は自宅以外ではそこを拠点に天体を観測するのだ。学校に遅刻する日はだいたいこの旧天文台に入り浸った時で、空を見上げるのに夢中になって朝を迎えたこともしばしばある。

「こんなもんか」

 一通りの荷物の準備を終えた昴は時間を確認し、そろそろ家を出なければと考える。

 約束の時間は夜の八時で、今はその三十分前だった。待ち合わせ場所は最寄りの駅で、そこからバスに乗り目的地の近くまで行く。最後は徒歩で旧天文台まで行くのだが、それが少し大変だったりする。昴の家に行くまでの道と違って、舗装された道を歩けることが救いではあった。

 昴は日が沈んだ町の景色を見つめる。人工物の明かりが爛々と輝いている。部屋の電気もつけずにいた昴の家とは対極的だった。

 あんなに光源があったら星はほとんど見えないだろうな、と心の中で呟くと荷物を持って家を出た。

 真っ暗で街灯のない道を自身のスマートフォンの光をつけながら歩く。町に近づくにつれて少しずつ光が溢れてくる。その光に包まれ、目が慣れてくると空に輝く星々の光は薄くなっていく。

 暗い場所も明るい場所も、特別好き嫌いはなかったが、空に浮かぶ星々が見えなくなるのは嫌だった。ずっと天体観測をして育ったからか、星の輝きがないと落ち着かない気持ちにすらなった。

「あ、スバルやっと来た」

 繁華街を抜けて最寄りの駅に辿り着くとすでに心愛は待っていた。白いシャツに黒いズボンで白い羽織を羽織っている。長く美しい黒髪は片耳の下で一つに括られ前に流している。夜の闇の中、町あかりに照らされた髪がキラキラと星のように輝いている。

 制服姿とは違う清楚な格好に昴の心は一瞬ドキッと跳ねる。しかし、心愛はそんな昴の心情をわかっていないのか、笑顔で昴の方に駆け寄った。

「もう、遅いよ! 私、結構待ったんだからね」

 ぷくっと頬を膨らませてわざと怒ったように見せる。その顔が可愛いと思ったところで昴はその気持ちを振り払う。

「集合は八時だろ。まだ余裕あるし、お前が早く来すぎなんだよ」
「あはは、たしかに。スバルと過ごせるって思ってちょっとテンション上がってるのかも」

 そういうと心愛は昴の手を取り歩き出す。

「早く行こう! 私、すっごく楽しみにしてたんだから」

 満面の笑みで心愛は楽しそうに話す。

 彼女にとって天体観測を行えることも嬉しかったが、何よりも昴と過ごせるのが嬉しいようだった。この一瞬を全力で楽しもうとしているのが昴からも見てわかった。まるで、忘れたくない、大切な何かを一緒に見つけに行くような――そんな表情を浮かべている。

 昴は心愛に手を引かれながら一緒にバスターミナルまで行く。

 バスターミナルでは乗る予定だったバスがすでに待機していた。駅が始発で入れ替えの時間なのか、そのバスの入り口はまだ閉ざされたままだった。

「これに乗るんでしょ? それで、どこまで行くの?」
「山の中腹までこれで行ける。利用者が少なくて数時間に一本しか走ってないけど」

 バスは目的地の旧天文台がある山に向かって走る。かつてはその旧天文台を利用する人のために使われていたそうだが、天文台が閉鎖されてからは趣味で天体観測をしに行く人か、山のハイキング目的で行く人を乗せる以外には利用されていない。昔と比べて廃れてしまった路線だが、それでもまだ運行しているのは、本当に時折昴のような人がいるからなのかもしれない。それで採算が取れているのかは謎だったが。

「ふーん、そうなんだ。早く行きたいなぁ」

 楽しげに体を揺らしながら笑う彼女の横顔を覗き見る。黙って笑っていれば人形のような可愛らしさがあるが、心愛の魅力はそれだけじゃない。コロコロと変わる表情に、いつでも全力で物事を楽しむその姿勢が昴には太陽のように眩しく映っていた。

 昴は自分の心境の変化に戸惑いながらも、それが嫌ではない自分がいることを自覚する。

 心から昴はずっとこうやって心愛と一緒にすごしたいと思った。

 心愛といると自然体でいられるような気がするのだ。
 そんなことを考えていると目の前のバスの扉がゆっくりと開く。運転手のアナウンスが二人の耳に届くと、心愛は立ち上がって昴に手を差し出す。

「バス、動くみたいだね! 早く乗ろう!」

 そんなに慌てなくても出発までには時間がある。それがわかっていても心愛の気持ちに乗っかりたいと思う自分もいた。

 今までの自分なら、誰かと一緒に何かをするのは煩わしいと思っていたことだろう。だけど、今は彼女と一緒にいるのが、なぜか心地いい。

 これを喜びと捉えるのかはわからない。

 だけど、こんな自分も悪くはないな、とそう考えた。