昴が家に誰かを招くのは、もう随分としていないことだった。

 それがいつからかははっきりとは覚えていない。だけど、父親と疎遠気味になった時には友達と呼べる人も少なくなり、家に他人を招かなくなったはずだった。唯一の友達である瑞稀ですら、昴の家にはもう長いこと来ていない。昴が誘わなかったのもあるが、瑞稀が昴に遠慮していたということもある。瑞稀は普段はおちゃらけているように見えるが実は相手の気持ちを察するのが上手だった。

 昴と昴の家が大きく変わってしまった日から、瑞稀はそんな昴のそばに近すぎず、遠すぎない距離感を保ちながら付き合ってくれていた。

 そう考えると、瑞稀の存在は昴にとっては大きいのだろうが、普段の態度がふざけすぎているため素直に「ありがとう」は言えそうになかった。

「お邪魔しまーす!」

 昴が家の鍵を開けると心愛は遠慮なく家の中に入ってきた。誰もいないリビングに、シンクにつけ置きされた食器。普段使っていないところにはうっすらと埃が積もっており、洗濯物は浴室に干されっぱなしだった。

 家に帰ってくるまでは何も思わなかったのに、いざクラスメイトが――しかも女子だ――家にいると考えた途端に、まともに家の掃除もしていないことが恥ずかしくなっていきた。せめて、シンクに溜まった洗い物くらい片付けておけばよかった、と後悔している間にも心愛は廊下を通ってリビングに向かう。

「……汚くて悪い」
「んーん! 全然! 想像していたよりもずっと綺麗だよ。家のことはスバルが全部やってるの? 家族は?」

 昴が恥ずかしそうに謝ると心愛は小さく首を横に振った。そして、誰もいないリビングを見渡してそう聞いた。

 昴はなんて答えればいいのかわからず思わず口を閉ざしてしまう。

 家族は――そう頭の中で小さな呟きを漏らしながら小さな棚に置かれた伏せた写真たてを見る。心愛はその視線を追いかけるようにして棚を見て昴と同じように写真があることに気がついた。全て伏せて置いてあることに疑問を抱きながら心愛は昴に視線を戻す。

「見てもいいやつ?」
「え……あ、あぁ、別にいい。隠してるわけじゃないし」

 心愛に話しかけられてようやく意識を取り戻したように、知らず知らずのうちに詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

 昴の了承を得た心愛は一番手前にあった、他のよりも大きめな写真たてに手を伸ばす。

 そこには穏やかに笑う女性と、その腕に抱かれた小さな男の子、そして二人に優しく寄り添う男性が写っていた。どこかに旅行に行った時のものなのだろう、周りには同じように観光しにきた人がちらほらと写り込んでいた。

 心愛はその写真をじっと見つめた後、次の写真に手を伸ばした。

 その写真には子供用の椅子に座った昴がオムライスを口いっぱいに頬張っている姿が写っていた。隣には女性が愛おしそうに昴を見ている。男性は写っていないため、おそらくこの写真の撮影者なのだろう。

 次の写真にはひまわり畑での思い出が。そしてその次の写真では公園でのピクニックの様子が写っている。

 心愛と一緒に横でそれを見ていた昴は、そういえばそんなこともあったような気がする、と過去に想いを馳せる。だけど、どれだけ昔のことを思い出そうとしても、胸が苦しくなるだけではっきりとは思い出せない。まるで大きな箱に無理やり鍵をかけてしまってしまっているかのように。

「幸せそうだね。この人は……スバルのお母さん? こっちはお父さんかな?」

 正直に言えば母親の記憶はほとんどなかった。父親からも母親の話をされるわけでもなく、親戚と会うことがあるわけでもないため、母親のことに関する情報が極端に少なかった。

「……母さんは、俺が中学の時に死んだ。交通事故だった」

 かろうじて覚えていることを話し始めると、心愛は驚いたように昴の方に視線を向ける。

「俺たちが三人ででかけている時に。相手の飲酒運転に巻き込まれて。父さんも怪我を負って、俺は隣に座ってた母さんに守ってもらった」

 法定スピードをはるかに上回る速度で突っ込んできたその車とガードレールに挟まれる形で昴たちは事故にあった。咄嗟の判断で昴を守った母親は、その後搬送された病院で亡くなったそうだった。

「母さんは俺のせいで死んだんだ。父さんは無事だったけど、多分心が無事じゃなかった。その証拠に母さんが死んでから、ほとんと家に帰ってこなくなったから」
「……どうして?」

 暗い顔で心愛の手の中にある写真をじっと見つめる。どこにでもある、普通の家族写真が今では昴も父親である月人のことも苦しめている。だから、伏せられる写真は全て伏せてある。もう楽しかった日々に戻れないのに、その過去が確かにあったのだと認識させられるのが我慢ならなかったから。

「どうして、君のせいなの?」

 心愛がもう一度呟く。その言葉に昴はハッと視線を心愛に向ける。心愛は不思議そうに首を傾けながら昴の方を見ている。まるで心の奥底まで暴こうとしているようなその視線に昴は気まずくなって目線を彷徨わせる。

「スバルのお母さんが亡くなったのは、事故を起こした方の責任で、スバルのせいじゃないでしょ? それとも、こんなに小さなスバルに、当時できることがあったの?」
「それは……」
「悔しい気持ちもやるせない気持ちもきっとあるんだろうね。だけど、その気持ちのままスバル自身のことを責めたらダメだよ。それじゃあ、いつまで経ってもスバルは辛いままだよ。救われないままだよ」

 説教のような心愛の言葉に昴は内心で「何がわかるんだ」と反論を返す。頭に思い浮かんだ言葉は、結局声になることはなかった。浮かんでは消えていく言葉たちの多くは、八つ当たりのように心愛を責め立てるようなものだった。


 何がわかるんだ。

 何も知らないくせに。

 家族がバラバラになる苦しみを知らないくせに。


 人の心に土足で上がり込んできて、何様のつもりなんだ。


 誰もいないリビング。散乱した部屋。やつれていく父親の様子。

 泡のように浮かんでは消えるそれらを飲み込むように昴は小さくため息を吐く。

「……この話はやめよう。楽しくないだろ」
「楽しくないからとかは関係ないんじゃないかな。私は、スバルが自分のことを責めているように見えるのが辛いなって。だから――」


「でも、お前には関係ないじゃん」


 ぽろっと口に出してから昴はしまったと口を塞ぐ。しかし時すでに遅く、昴の言葉は心愛に届いてしまった。昴は咄嗟に顔を背けて心愛の顔を見ないようにした。心配してくれている人に対して、ひどい言葉をかけてしまったことを後悔する。

「……うん。そうだね。たしかに、私には関係なかったね」

 顔を背けてしまった昴は一瞬心愛が傷ついた表情を見せたことに気が付かなかった。昴がもう一度心愛の方を向いた時には心愛はいつもの笑顔を浮かべていた。

「聞かれたくないこと聞いちゃってごめんね。あ、そうだ、昴の観察記録見せてよ」
「あ……いや、あぁ」

 心愛はそっと手に持っていた写真を元の位置に置いた。他の写真のように伏せておくのではなく、ちゃんと立てて置いたのを見て昴は少しだけ目を見開く。そこにある写真が見える形で置かれたのはいつぶりだろうか、と記憶をあさってみるがわからなかった。

 昴は心愛が話を変えてくれたことをありがたく思いながら彼女をリビングの椅子に座らせると自分は自室に向かった。

 自室の本棚には星や天体、宇宙に関する本がたくさん並んでいる。その一角に天体観測の記録をまとめてあるファイルやノートがあった。そこから真新しいノートを取り出すと中を確認する。

 ノートには日付と観測場所、時間などの基本情報のほかに、ハレー彗星が星座内のどこに近いかが記録されている。簡単なスケッチも書きこんでありハレー彗星の動きが後からでも肉眼で確認できるようになっていた。

 彗星がこの家からはっきりと観測できるようになってからまだ一週間ほどしか経っておらず、記録としては不十分であったがそれを手に持ってリビングに戻る。

「あ、戻ってきた」

 リビングに顔を出すと心愛が窓の外を見るのをやめて昴の方を見た。夕方五時を回る時間帯だったが、夏休みも近づいてきている七月初旬ではまだ夕日は沈みきっていなかった。オレンジ色の夕焼けと宵闇が入り混じり美しい空を描いている。その空に細々と光がチラチラと散りばめられ始めている。

「これ、言ってたやつ。始めてから少ししか経ってないから、データとしては少ないけど」

「わぁ、ありがとう!」と言って心愛は昴の手からノートを受け取る。そして一ページずつ真剣に昴の書いた記録を読んでいく。

 少しの静寂の後、読み終わった心愛は目を星のように輝かせながら昴の方を見た。昴はその瞳の圧力に思わずたじろいだ。

「すごい! すごいよ、スバル! こんなに正確に観測してくれてるなんて! 私、すっごく嬉しいよ!」

 ノートを机に置くと昴の両手を取ってぶんぶんと振り回した。その様子から心愛が心の底から興奮していることがわかったが、昴には何が彼女のスイッチを入れてしまったのかわからなかった。

「すごいなぁ。この記録ってここで見たんでしょ? 私にも見ることできるかな?」
「み、見ようと思えば見えるんじゃないか?」
「え、じゃあ、私も見ていっていい?」
「今から見ていくつもりか!?」

 てっきり自分の家から見えるのかという話をしていると思ったら、どうやらそうじゃなかったようだ。心愛は今日、ここでハレー彗星の観測を行うつもりだったようだ。

「いや、流石に急すぎるって。お前の家族だって、帰ってこなかったら心配するだろ?」

「えー? そうかなぁ」と能天気に返事をする心愛に昴はがっくり肩を下ろす。常識もなければ警戒心もどこかに置いてきてしまっているようだった。

 昴の家族が一般的じゃないことはわかっていたが、普通の家族なら子供のことを心配するのだということはわかっていた。

 だけど、心愛にはその感覚そのものがなかったようだった。育った家庭環境の差はあれど、ここまで無警戒にこられても困ってしまうのだと初めて知った。

「私は大丈夫だから、今日一緒にみようよ。私もハレー彗星をここから見たいの」

 ねだるように上目遣いで見てくる心愛だったが、昴は鬼の心でその提案に対して首を横に振る。流石に、誰もいない家の中で高校生の男女が一緒に過ごすのはまずいだろうと思ったのだ。

「ダメだ。今日は帰れ。それに、ハレー彗星はしばらく見れるんだから、無理して今日やる必要ないだろ」
「それじゃあ、他の日に一緒に見てくれる?」
「一人で見ればいいじゃないか。なんでそこまで俺と一緒に……」
「君だからだよ。私に気が付かなかったスバルだからこそ、私はもっと君と一緒に過ごしたいの」

 なぜか悲しそうに目尻を下げた心愛に昴の心はドキリと震える。なぜ彼女がそんな表情を浮かべるのかわからず、またその言葉の真意も汲み取ることができなかった。

「でも、たしかにそうだね。今日は流石に急すぎたよね。わかった、今日は帰るよ」

 昴が何も言えないでいると心愛は悲しい表情をさっと消していつもの笑顔を浮かべる。

「また、今度、一緒にハレー彗星を見ようね。絶対だよ」

 心愛はスッと小指を立てた手を差し出した。指切りのポーズだった。

 昴は戸惑いながらも彼女が納得するなら、とその小指に自分の小指を絡める。指切って約束を交わしたことに心愛は満足してにっこりと笑った。

「じゃあ、またね」
「あ……下まで送る。街灯少なくて暗いから」
「本当? やった、スバルともう少し一緒にいられるなんて、ラッキーだね」

 嬉しそうに笑う彼女を見て、ずっとこの笑顔を見せてくれたらいいのにと心の底で考えた。

 そう考えてから、すとんととある気持ちが心の中で落ちてきた。

 昴はいつの間にか心愛のことが好きになっていた。ずっとその笑顔を見ていたいと思うほど。

 幸せそうに笑う顔も、楽しそうに話す姿も、全てが愛おしいのだとようやく自覚した。

 気付いたからといってすぐに何かをするわけではないが、誰かを受け入れるのは悪いことじゃないんだと少しだけそう思うことができた。

 昴に「恋は人を変える」と言った瑞稀はあながち間違いではなかったようだ。