彗星が落ちる夜に、世界から消えた君と

 ひとしきりクラス全体の笑いの渦が収まると、オオグマ先生は呆れたようにため息を吐いてから、ホームルームの続きを行った。

 昴もようやく落ち着きを取り戻し、羞恥心に駆られながらも席に座った。瑞稀以外のクラスメイトが、囃し立ててくるのがなお気まずさを際立たせていた。

「よーし、これでホームルーム終わりだ! 気をつけて帰れよ!」

 一通り連絡事項を列挙した後、オオグマ先生はそう言った。そして、学級委員長に目配せを行うと、委員長はクラス全体に号令をかける。

 起立、礼、さようなら。

 流れるような挨拶を行った後、昴たちは帰り支度を始める。クラスメイトの中にはこれから部活動に励むものもいる。その人たちはホームルームの間から少しずつ準備を進めていたのか、挨拶が終わったと同時に光の速さで教室を出ていく。

 オオグマ先生にはそれがわかっていたのか、すぐに「廊下は走るな!」と走って出ていく生徒の背中に怒鳴り声を浴びせる。いつもの恒例行事みたいなもので、生徒たちは笑いながら「先生、また明日!」と言って走る足を緩めることなく去っていく。オオグマ先生は頭が痛そうに抱え込みながら、教室から出ていった。

「あいつらも、毎回毎回怒られるってわかってるのに、本当に懲りないよな」

 後ろで昴と同じように帰り支度をしていた瑞稀が呆れたように笑っていた。瑞稀は運動ができそうな引き締まった体をしていたが、見た目に反して運動音痴なため運動部には所属していなかった。その代わり、見た目からでは想像もつかない吹奏楽部でフルートを演奏していた。普段のおちゃらけた雰囲気からはわからないが、幼少期から音楽に触れて育っていた彼のフルートの腕前はソロコンテストで優勝するほどだった。

「じゃ、俺は行くわ! また、明日な!」

 パパッと準備を終えた瑞稀は片手をあげて挨拶をする。そして、昴越しに心愛を見ると、ニヤリと悪巧みをするように笑った。

「九ノ瀬!」

 名前を呼ばれた心愛は不思議そうに振り返った。瑞稀は親指を立ててグッドポーズを取ると昴の背中を軽く押した。

「こいつのこと、頼むな!」
「……! うん、任せて!」

 どんなやりとりだ、と反論しようとした時には瑞稀の姿は教室から消えていた。逃げ足の速い奴め、と教室の入り口を見て唸っていると心愛が目の前にまでやってきた。

「それじゃあ、行こうかスバル」
「初めに言っとくけど、何も面白いものなんてないからな」
「別に期待してないよ。スバルってものに執着しなさそうだもの。部屋の中も必要最低限のもので済ませてそう」
「……ぐ、なんで見てもないのにわかるんだよ」

 心愛の観察力の方が昴の想像力よりも上をいっていたようだ。心愛は昴が口を尖らせて不満そうにするのを見てケラケラと笑い出す。

「わかるよ。だって、私はここに来てから君のことをずっと見てきたんだから」

 昴は彼女の言葉の意味がわからず首を傾けて問いただそうとした。しかし、彼女はやっぱりスクールカバンも何も持っていない手で昴の腕を掴むとぐんぐんと歩き出した。強引すぎるその誘導に昴は思わず文句を言いそうになったが、結局言葉にはならなかった。

 二人は並んで校舎を出ると、傾きかけた日を背に昴の家に向けて歩き出す。

「後少ししたら、一番星が見えそうだね」

 夕方といっても少しだけ陽は高く、一番星が見えるようになるには少し早い時間だった。

 心愛は太陽の光が差し込む方を見ながら、器用に後ろ向きで歩く。そして、太陽の位置からおおよその一番星の位置を見つけて指差した。

「一番星は日本では宵の明星っていうんだっけ?」

 ずっと遠くを見つめる心愛の瞳は太陽の光に反射してきらりと光っている。

「そう。夕方に見えるものを宵の明星、朝方に見えるものを明けの明星っていう。普通は金星のことを言うけど、それがどうしたんだ?」

 ちらっと彼女の方を見ると、心愛は難しそうに眉間に皺を寄せて何かを思い出そうとしていた。

「宵の明星の逸話を君は知ってる?」
「逸話……? イシュタルのとか?」
「そう! 宵の明星、つまり金星は夜の訪れとともに人々に希望や情熱を与える象徴だったんだよ。多くの人にそれは吉兆として映っていたんだ」
「だからなんだって言うんだよ」

 心愛の言いたいことがわからず、昴は怪訝そうな表情を浮かべる。すると心愛は体の向きを反転させると、妖しく笑って昴の顔を覗き込んだ。


「私は、どっちだと思う?」


 ――どっち? どっちってどういうことだ?


 昴は思わず足を止めて心愛のことを見つめる。彼女がどんな答えを昴に求めているのかわからず、ただ困惑するしかなかった。

 心愛は普段は普通の女子高生なのに、時折とても遠い存在のように感じる時があった。自分とは立場も考えも、何もかも違うかのような、そんな大きな違和感を感じさせた。まるで今この瞬間のように――。


「あはは、そんなに難しく考えないでよ! 私は君にとって吉兆か、それとも不吉な前兆か。どっちなんだろうってちょっと思っただけ」

 背中で手を組むと心愛はわざとらしく大股で歩き始める。少しずつ距離が離れていく、二人の隙間が、今の彼らの心の距離を表しているようだった。

 まるで雲を掴めと言われているような気分だった。

 昴には心愛の気持ちはわからなかった。近づいてきたかと思ったら、するりと遠くに行ってしまう。そうかと思ったら、今度はすぐそばにいて昴の瞳をじっと見つめているのだ。だけど、昴にはそれがどれだけもどかしくても、受け入れるしかなかった。

 だって、捕まえることのできない彼女の真意を、昴は知りたいと思ってしまったから。

「お前が何を言いたいのかわからないけど、少なくとも不吉な前兆ではないだろ」

 クラスメイトからの印象も良く、クラスの中心にいるような心愛。もしも彼女が吉兆でないのだとしたら、きっとこの世の誰も吉兆の証になんてなれるわけがない、と昴は考える。

「……私は、君にとっての不吉な前兆かもしれない。君は私に会わなければと、いつか後悔するかもしれない」

 昴よりも少し離れたところまで歩くと、心愛は足を止めて振り返った。笑顔を消して真剣な表情で呟くその姿に思わず唾を飲み込む。

「君は私のことをひどく嫌うかもしれない。どうして、と恨むかもしれない……それでも、君は、私を不吉な前兆と言わないでいてくれる?」

 質問の意図がわかず昴は一瞬固まったが、その時、心愛の手がわずかに震えていることに気がついた。

 常に元気いっぱいで、不安も悩みもないように見える心愛でも、怖いものがあるのだということに昴はようやく気がついた。

 昴は心愛の方に近づいて震える手を掴む。一瞬大きく心愛の肩が跳ねたが昴は気にしなかった。

「お前が何に悩んで、苦しんでいるのかは知らない。それでも、俺は――九ノ瀬に会えてよかったと思う」

 昴の回答に心愛は大きく目を見開く。その言葉を噛み締めながら、心愛は安堵したように表情を和らげる。

「そっか……そっかぁ…………なら、嬉しいな。その言葉、きっと忘れないでね」

 心愛が確認するように昴を見てきたから、昴もはっきりと頷いて返した。


 ――こんな変なやつのこと、忘れたくても忘れられないだろうな。


 自分の気持ちから目を逸らしながら、あえて捻くれた考え方をする。昴の中に芽生えつつある気持ちに名前をつけてしまったら、この関係が終わってしまいそうで怖かったのだ。

 もう少しだけでいいから、昴は心愛とのこの関係を続けたかった。そして、きっと心愛もそう思ってくれている、と根拠もないのにそう考えていた。

 夕日に包まれながら二人は昴の家まで歩いていく。地域の子どもが笑いながら二人の横を駆けていく。赤ちゃんをベビーカーに乗せて道端で談笑している母親の横を通る。

 いろんな人たちのそばを通りながら帰っていると、心愛はいちいち全部に反応していた。元気な子供を見れば「転んだらダメだよ」と声をかけ、赤ちゃんには変顔をしてみせ、母親と一緒に赤ちゃんを笑わせていた。

 あまりにも自然に人に近づいていくので、昴は後ろでどうしたらいいのかわからず立ち尽くすしかなかった。それを見た心愛はなぜか笑って昴に手招きをする。

「スバルも! こっちにきて。一緒にお話ししよう!」

 それでも動けなかった昴の手を心愛が引いてくれる。話したこともない人の輪の中に無理やり入れられ、ぎこちない様子を見せながらも心愛に釣られて少しだけ頬を緩める。

 そんなことをしていると、だんだんと人通りが少なくなり、建物も少なくなってくる。その代わり、木々が増え、自然が広がってくる。昴の家は小さな山の上にあった。家に帰るには舗装されていない道を登っていく必要があり、心愛に確認するように振り返る。

 本当に昴の家にくるつもりなのか、そう思いながら心愛を見ていると、心愛は笑って「早く行こう」とまた昴の腕を引っ張っていく。

 遠慮というものを知らない彼女のその行動に背中を押されながら、昴も諦めて彼女を受け入れることにした。