その日から、二人はよく一緒に過ごすようになった。

 主に一方的に心愛の方が昴に絡みに行き、昴がそれに仕方なく答えるという感じで二人の付き合いは続いていた。

 自己紹介をした日の帰り道は、心愛に捕まる前にさっさと帰ろうとしてものの見事に失敗した。他の生徒たちが帰宅準備や部活動に向かう準備をしている中で、まるで準備する必要がないかのように心愛は何も持っていなかった。

 教科書を学校に置いていく派なのかも知れないが、それしたってなんでスクールバッグすら持っていないのか不思議に思ったのを今でも覚えている。

「私って、基本カバンとか持ち歩かないんだよねー。大事なものはちゃんと身につけておきたい派だったり……なんちゃって」

 そう言って下をぺろっと出して笑う彼女にドキドキして、カバンを持っていないことなんてすぐにどうでも良くなった。

 心愛と話すのは思いの外楽しかった。

 女子と話すことなんて何もないと思っていたが、『スバル』の由来を知っていたこともあり、彼女も相当な天体オタクだということを知った。時には昴が知らない星の話までしてくれて、思わず聞き入ってしまうほどだった。

 心愛は星や天体については博識なのに、他のことはまるで知らなかった。

 バスや電車のに乗り方も、駅前にあるファストフード店の味も。


 ――もっというと、一般常識というものがないように感じた。


 どうして何も知らないのか、これまでどうやって過ごしてきたのか。尋ねたくても尋ねることはできなかった。

 それを知ってしまったが最後、元には戻れない気がして。

「あ、見て!」

 心愛の声に昴は後ろを歩いていた彼女の方を振り返る。心愛は少し離れたところで足を止めて、夕暮れの空を見上げていた。空は明るいオレンジ色から、星が散らばり始めている深い群青色にかけて綺麗なグラデーションになっている。もしもこの景色の一部を切り取って写真に収めたら、きっと素敵な一枚が出来上がるだろう。

 昴はカメラを構えるように人差し指と親指で四角い窓を作ると、空に焦点を合わせる。しかし、何かが物足りなくて思わず顔を顰める。

「ちょっと! 話聞いてる?」

 怒ったような声に釣られて、手をそのまま下げる。すると、四角く区切られたキャンバスの中に、心愛の姿が入り込む。

 ぷくっと頬を膨らませながら腰に手を当てて昴の方を見ている。美人が怒っても、可愛いだけなんだなと意識の向こうで考える。

 建物の隙間から覗く眩い光が心愛を照らし、その背後には黒い宝箱にダイヤモンドを散りばめたような星の光を携えていた。


 ――綺麗だ。


 今、昴の手の中にカメラがないことを、これほど後悔したことはなかった。美しい天体の中で輝く彼女はどんな被写体よりも美しかった。だけど、背後から迫る暗闇が、彼女を連れていってしまうのではないかと思って、少しだけ足が竦む。

 手を構えたまま微動だにしない昴に痺れを切らしたのか、心愛はツカツカと音を立てながら近づいてきた。

「ねぇ? 大丈夫?」

 四角いキャンバスの向こうから、心愛がその窓を覗く。星の煌めきのように輝くその瞳とパチリと視線が絡み合う。

「……っぁ、あぁ、うん…………ごめん、なんの話だった?」

 ようやく意識を取り戻し、肺に空気を送り込む。急に入ってきた空気のせいか、胸が少しだけ痛んだ。心愛は不思議そうにしながらも、もう一度空を見上げた。そして、一つの星を指差した。

「見て、北極星が見えるよ。北極星の逸話を知ってる?」
「……旅人や船乗りの道標になっていたっていう話とかか?」
「そう……北極星は『海の星』として例えられる時があるんだよ。『海の星』――ステラ・マリスに私はなりたいんだ」

 『海の星』という言葉は聞いたことがあったが、ステラ・マリスという言葉は聞いたことがなかった。それが、一体心愛のなりたいものとどう関わっているのか、想像もできなかった。


「夜の道で迷った時、いつも空を見上げて、ただ一つの星を頼りにして道を切り開くんだって。そういう星の名前がステラ・マリス」


 静かに星に願いを込めるように話す心愛の横顔を昴はじっと見つめる。

「私も、誰かの道を照らせるような、そんな存在になりたいんだ……例えば、スバルとかのね」

 そういうと心愛は視線を昴に向けた。空ではなく心愛を見ていた昴の視線と心愛の視線が交わる。一瞬彼女の笑顔に影がかかったような気がしたと思ったら、心愛は不意に視線を逸らした。くるりと昴に背中を向けた心愛の肩は、見間違いじゃなければ小さく震えていた。まるで、激しい感情の波に全身で耐えているようだった。

 その背中は、何かを飲み込むように、深く、静かに呼吸していた。

「へへ、なーんてね! 珍しく私が真剣な顔してて驚いたでしょ!」

 もう一度昴の方を向いた心愛には先ほどまでの憂いを帯びた表情はどこにもなく、元気が有り余った満面の笑みを浮かべていた。

 心愛は誤魔化せたと思っているようだが、昴の心は大きく動揺していた。そして、本能的にこう思った。


 ――彼女は、何かを隠している。それがきっと、自分の中にある違和感の正体なのだろう、と。


 その隠し事は何なのかは今は見当もつかない。だけど、彼女のことを知っていく中で、彼女が抱えるものを一緒に背負ってあげられたらいいなと考える。

「ねぇ、私の話、ちゃんと聞いてる?」

 心愛は不満そうに口を尖らせて眉間に皺を寄せている。昴は心愛の眉間にデコピンをお見舞いすると、彼女は「いたーい!」と大袈裟に額を抑える。

「そんなに皺寄せてると、おばあちゃんになったときに皺が深くなるんだぞ」

 自分で口に出した未来を想像して昴はフッと笑う。心愛は少し考えた後、表情を緩めた。

「そうだね。そんな未来も、あるといいね」

 楽しそうに笑う彼女を見て、昴も満足そうに笑う。二人はふざけ合いながら帰り道を進む。

 すっかり日が落ちた頃、二人は二手に別れた道でさよならを言い合う。

「また明日ね、スバル! 明日は、町に行こうね!」
「あぁ。また明日。気をつけて帰れよ」
「スバルこそ、知らない人についていったらダメなんだからね!」
「それは、お前の方だろ」

 クスッと昴が笑うと心愛も頬を赤らめて可愛らしく笑う。昴が心愛のことをちゃんと認識したのはついこの間のことだったのに、心愛は昴の心の半分以上を占めていた。

 天体観測にしか興味がなかった昴からすれば、驚くべきことだった。

 ただのクラスメイトに、自分の感情が大きく揺さぶられる経験をしたことなかった昴は、その変化に戸惑いながらもむず痒い気持ちで受け入れつつあった。

 もっと心愛のことを知りたい――その感情が少しづつ、かつ急成長する木のように大きく育っていくのを昴は見ていることしかできなかった。だけど、それは不思議と嫌なものではなかった。むしろ、積極的に受け入れて、大切に育みたいと思えるほどだった。

「ねぇ、スバル」

 背中を向け合ってそれぞれの帰路に足を踏み出した時、心愛が後ろから話しかけてきた。

 昴は足を止めて振り返った。その先では心愛が手を組みながら、昴に背を向けて空を眺めていた。


「もしも、明日が来なかったら……スバルはどうする?」

「……何言ってるんだ?」

 質問の意図が分からず聞き返すと、心愛は肩をわずかに震わせた。そして、何事もなかったかのように、パッと昴の方を振り返ると、いつもと変わらない笑顔を見せる。

「へへ、明日までの宿題ね! じゃあね、スバル!」

 心愛はそう言い逃げするように走って去っていってしまった。突然のことに昴は呆然としながら彼女の後ろ姿を見送った。心愛の姿が完全に見えなくなった頃、ようやく復活した昴は小さく「なんだったんだ……」と呟いた。

 考えても心愛の胸の内はわからない。なら、明日学校でその真意を確かめればいい。そう考えて心愛の真似をするように昴も空を見上げる。

 キラキラと宝石のように輝く星々が昴のことを歓迎している。

 ハレー彗星が見えるのは深夜だ。

 それまでに、いろんな準備を終わらせなければと思い、昴は家に帰ることにした。

 家に着くと真っ暗で誰もいない部屋が昴を出迎えた。

 パッと明かりをつけると、父親が帰って来ていたのか机の上にはお金が置かれていた。昴はそれを一瞥すると、すぐに視線を逸らして自分の部屋に向かう。

 勉強机の上に学校指定の黒のスクールバッグを放り投げると、窓際に置かれた望遠鏡に近づく。それは小さい頃に両親に買ってもらった、昴だけの宝物だった。また、父親との唯一の思い出と言っても過言ではなかった。

 望遠鏡のレンズを覗き込む。


 そこには神秘的な光景が広がっていた。


 父親の意向で町の明かりが届きにくい、少し離れた場所に建てた一軒家は、光に邪魔されず天体観測にはうってつけの場所だった。

 レンズの向こうには星々が輝きあい、私を見て、と互いに主張していた。この星たちに名前があり、想いが込められているのだと考えると、学校で勉強をするよりもずっと胸が躍った。

 しばらく星を観測した後、昴は息を吐き出しながら望遠鏡から離れた。

 昴が星を好きなのは、父親の星宮月人(ほしみやつきと)がきっかけだった。

 月人はあることがきっかけで家に寄り付かなくなったが、元々は星の研究をする人だ。小さい頃は家族で山に登っては天体観測をしたり流星群を見にいったりもした。優しい父親で、星に興味を持つ昴にいろんな知識を授けてくれたのは月人だった。

 だけど、今の昴は変わってしまった父親とどう付き合えばいいのかわからなかった。

 昴の家族が変わってしまったのは、昴が中学生の時に母親が亡くなったことがきっかけだった。

 母を大事にしていた月人は母親の死と共に、雰囲気が豹変した。のめり込むように研究に打ち込み、昴のことも忘れてしまったようだった。

 母親を失ったばかりだった昴は当然月人の変化についていくことができなかった。また、幼い彼では月人の胸の内の痛みに寄り添うこともできなかった。

 そうして、二人はすれ違い続け、昴が高校生になる頃にはほとんど話さなくなってしまった。

 月人は時折、思い出したかのようにこの家に帰ってきてはお金だけを置いていく。昴はそんな父親と分かり合おうとすることをやめた。

 昴はリビングに来ると、壁にかけられた埃を被った写真を横目で見る。

 笑う母親と昴に引っ張られて戸惑っている父親。その真ん中で年相応に笑う昴。

 幸せだった過去がそこにはたくさん飾られていた。


 ――たまには、掃除しなきゃな。


 無感情にそう思いながら、昴はテレビをつけて夕食の準備をする。部屋の電気はつけなかった。空に瞬く星を側で感じていたかったから。