九ノ瀬心愛は天真爛漫という言葉が良く似合う人物だった。クラスの中心的存在で、時に冗談を言ったりしてクラスメイトたちを笑わせている。

 運動能力と持久力は高いみたいで、体育の授業では毎回周りを振り落とす勢いで体を動かしていた。だけど、勉強は全然できないようで先生に当てられても困ったように笑うだけだった。授業態度は真面目そのもので、ノートも綺麗に取っているのに何故か知識が身につかないタイプのようだった。

 夜空を溶かしたような艶のある黒い髪が風で揺れる度に昴の目線はそちらに向いてしまう。くるくる変わる表情がおかしくて、自然とえみがこぼれてしまいそうだった。

 結局あの朝、昴は自分の自己紹介ができなかった。なぜならすぐに担任がやってきてホームルームが始まってしまったからだ。彼女は残念そうにしていたけど「またあとでね!」と言って自分の席に戻って行った。

 一番後ろの窓側の席に座った心愛を見て、小さな違和感を覚えた。

 そこには席がなかったはずなのに、どうしてか今は彼女の席になっていたからだ。

 だけどそんな違和感を感じていたのは昴だけのようで、瑞稀に聞いても白い目で見られて終わった。どうやらその席はずっと彼女のものだったらしい。

 どれだけ記憶をひっくりかえしてもそこに誰かがいた記憶を見つけることが出来ない。ましてや、九ノ瀬心愛という人物についても心当たりがなかった。

 昴の知らない記憶が他の生徒にはちゃんとあることから、おかしいのは自分なのかと思ってしまうほどだった。

 まるで、自分だけがどこかに取り残されてしまっているような――そんな感覚に陥った。

 それほど九ノ瀬心愛はこのクラスに自然と馴染んでいた。

「お前、また九ノ瀬のこと見てるぞ」

 後ろの席に座っている瑞稀が呆れたように指摘する。その指摘に昴はハッとして意識を今に戻す。

 いまは昼食の時間で、昴は購買で買ったパンを瑞稀と一緒に食べているところだった。そして昴の視線は教室の反対側に他の女子生徒と一緒にいる心愛の方を向いていた。

 彼女の方を見ながら、過去に思いを馳せていたことに気がつき、少しだけ居心地が悪くなる。

「最近様子おかしいけど大丈夫か? なんだか九ノ瀬と初めて会ったみたいな雰囲気出してるし……もしかして、俺の知らないところで彼女とケンカを……?!」
「ない、ないから! 変な事言うなよ」
「変なのはお前だろ? 気がつくとずっと九ノ瀬のこと追っかけてるし」

 瑞稀の的確な指摘に昴はぐうの音もでなかった。

 そう、昴はあの朝に彼女のことを知ってから気がつくとその姿を探しては目で追いかけていた。まともに話せていないのに、彼女が笑う顔や困った顔、少し怒った顔などばかり知っていく。

 何よりも印象に残っているのは、誰もいない夕方の教室で、一人空を見上げていた彼女の横顔だった。

 薄らと空に浮かぶ星々を見て彼女は泣きそうに笑っていた。

 それは、まるで迷子になった小さな子供のようだった。
 辛そうにも、覚悟を決めているようにも見えたその横顔に何故そんな顔をするのかと考えてみたが、そもそも彼女のことを何も覚えていない昴では予想を立てることすら難しかった。

 勇気の出なかった昴は心愛に理由を聞くことも出来ず、そっとその場を離れた。

「べ、別にそんなんじゃ……ただ、どんな子なんだろうって気になるだけで……」
「どんな子も何も無いだろ。ずっと一緒のクラスだったんだから」
「ずっと……じゃあ、一年の時もこの学校にいたってことか?」

 あんなに美しくて人気のある生徒なら、社交的ではない昴の耳にも届きそうなものだが、やはり記憶の中のどこにも彼女はいない。

「一年の時……あれ? どうだっけな……?」

 その時瑞稀も自分の記憶に小さな違和感を感じた。記憶をひっくりかえして深く考え込むが、一年前を思い出そうとすると突然かすみがかったように思考が散逸してしまった。まるで、思い出そうとするほど記憶が遠ざかっていくような感覚に困惑する。

 だが、昴も考え込んでいたため、そんな瑞稀の変化に気がつくことはなかった。

「なんにしても! ここ最近のお前はおかしい。そんなに気になるならさっさと話に行っちゃえよ」

 気持ちを切り替えるように瑞稀は大きな声を出す。軽々しく言われて思わず頭にくるが、この気さくさが瑞稀のいい所でもあったため深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

「ねぇ!」

 そのとき、二人の目の前でさらりと黒い髪が揺れた。驚いて体を引いて驚かしてきた人物を見た。その人物はちょうど話のネタになっていた心愛だった。

 心愛は二人の驚いた顔が面白かったのかケラケラと声をあげて笑う。

「驚かすなよー! びっくりしただろ」

 瑞稀が仕方がなさそうに眉を下げて小言を言うと、心愛は「ごめん、ごめん」と言いながら両手をあげて降参のポーズを取る。

「ねね、この間はちゃんと話せなかったからさ、今度こそ、君の名前を教えてよ!」

 心愛の顔を凝視していた昴にずいっと顔を近づけると、ニンマリと笑いかけた。

「またその話かよ。なんで今更自己紹介が必要なんだよ」

 不思議そうに瑞稀が尋ねる。心愛は視線を泳がせた後にこう答えた。

「大事でしょ、自己紹介って。初めましてなら、なおさらね」

 パチンとウィンクを瑞稀に送る。瑞稀は一瞬ぽかんとした表情を浮かべた後、納得したように「それなら仕方がないよな」と言った。

 ――いや、待ってくれ。なんで今の一言に納得できるんだ?

 心愛の言葉になんの違和感も感じなかったのか、瑞稀はパンを食べるのを再開する。

 瑞稀の言葉が正しいのなら、この心愛って女子生徒は昴たちと一緒に高校生活を送っているはずだ。あいにく、昴にその記憶はなかったが、瑞稀を含めた他のクラスメイトにはその記憶がある。であれば、彼女だって昴のことを知っているはずだ。初めまして、になるはずがないのに――。

「深く考えなくてもいいんだよ。私が君のことを知りたい、ただそう理解してくれればいいの」

 スッと心に届いたその言葉に昴は思わず顔をあげる。優しく、全てを包み込むように優しく笑う彼女の姿に心臓がドキリと跳ねる。


 この子は何者なんだ――その疑問が頭を占める。


 しかしそのことを深く考えるより前に、心愛が話し始める。


「私のことは前にも教えたけど、九ノ瀬心愛。君の名前は?」
「……俺は、星宮、昴」
「スバル、ね……夜空に輝く星団の一つ――プレアデス星団の和名だね。夜の空に一番に見つけたくなる星だ…………うん! 想像通り君にぴったりな素敵な名前ね!」


 心愛がぽそりと呟いた星の知識に昴は少しだけ驚いたのと同時に胸の奥が温まるような気がした。

 その感覚が、記憶のない彼女に呼ばれたからなのか、それとも別の理由があったのか、今の昴には判断がつかなかった。

 『スバル』という名前は珍しくなく、普通の人にも知られている名前だった。しかし、多くの人はそれの由来を知らなかったりする。昴は天文部に所属するほど星を観測することが好きだったから、自分の名前の由来ももちろん知っていた。でも、心愛が知っていることは意外だった。こう言っては悪いが、星になんて興味なさそうなのに、と心の中で思う。

 するとそんな昴の胸の内を見抜いたのか、心愛はいたずらが成功した子供のようにほくそ笑んだ。

「ははーん……さては、君、私にはわからないと思ったでしょう? これでも、星の知識は誰にも負けない自信があるんだよ」

 胸を張ってそう主張する心愛に図星を突かれた昴は気まずそうに視線を逸らす。

「ま、いいけどね。そんなことより、私と友達になってよ! スバルとならきっと楽しい毎日を過ごせそう!」

 キラキラと星を散りばめたような瞳に見つめられて、また突然名前を呼び捨てにされて昴の心は追いつかなかった。そもそも、女子生徒とまともに喋ったことのない昴が、可愛くて美人な心愛に詰め寄られて平静を保ってられるわけがないのだ。

 助けを求めるように瑞稀の方を見ると、瑞稀は他の生徒と話しており昴のことは完全に見捨てていた。

 くそ、と心の中で恨めしそうに舌打ちをしていると、心愛の両手が昴の頬に伸びてきた。驚いて後ろにひっくり返りそうになったが、心愛が昴の両頬を包むことで支えてくれた。

 心愛は昴の顔を無理やり自分の方に向けさせた。まるでよそ見なんて許さないと言わんばかりの強引さに、昴の心臓は破裂寸前だった。


 ――なんだよ、こいつ……なんなんだよ!


 水面に突然石を投げ入れるように、心愛は無遠慮に昴の心に入り込んでくる。普段だったら、無視するか、失礼なやつと言って怒るところだが、どうしてか彼女には強く出れなかった。それは、彼女のことを知りたいと思っている心がそうさせているのかも知れなかった。

 昴が空気を求める魚のように口をパクパク動かしていると、彼女はわざとらしく下から昴の顔を覗き込んだ。

「お願いだよ、私と友達になろう?」

 先ほどまでとは打って変わって、上目遣いで自信なさそうに昴の瞳を見つめる一対の漆黒の瞳に思わず息を呑んだ。心の中では彼女の誘いを断る選択肢はなかった。

 心愛もそれがわかっているのか、今度はうるうると瞳を潤ませてじっと昴を見つめている。

 昴は心の中で、こんなの反則だ、と思いながら観念したように小さく頷いた。

「…………わかった。わかったから、頼むから手を離して……」
「本当!? やったー! じゃあ、早速今日一緒に帰ろう!」

 昴が了承した途端に心愛は両手をあげて大袈裟に喜ぶ。その声に他のクラスメイトたちが二人の方に視線を向ける。

 たくさんの視線が一気に降りかかり、昴は居心地が悪くて仕方がなかった。


「いや、待てよ! 今日!? 一緒に帰る!?」


 ハッと心愛の言葉を理解した時には心愛はもう目の前からいなくなっていた。その姿を探すと、先ほどまで喋っていたであろう女子生徒の輪の中に戻っていた。あまりの変わり身の速さから、昴の口は開いたまま塞がらなかった。

 昴は心底意味がわからないと思った。それは異性の気持ちのことなのか、それとも心愛だったからか――なんにしても、もしかしたら選択を誤ったかもしれないと、ようやく後悔が追いついてくる。

「まま、いいじゃないか。クラス、いやこの学校一人気と言っても過言じゃない九ノ瀬と友達になれたんだからさ」

 これまで昴のことを見捨てていた瑞稀がそっと肩に手を乗せてきた。昴はその手を振り払うと、瑞稀の脇腹に怒りの鉄槌を送った。痛みで悶絶する瑞稀を見て、一生そこで悶えていろと、心の中で中指を立てた。

 そんなことをしていたから気が付かなかった。


 心愛が表情を消して、まるで何かを確かめるように、昴の方をじっと見ていたことに――。