彗星が落ちる夜に、世界から消えた君と

 その本は昴の家の机に置かれていた。昴は心愛と別れ、自宅に帰ってくると一番にその本のところに向かう。

 深緑の本は机の上で佇んでおり、出かけた時と変わりはなかった。

 昴がそれに手をのばし、中身を確認するとやはり何も書かれていないページが続いていた。

「やっぱり、何も変わらないか」と呟きながら昴は本を片手に窓際に置いてある望遠鏡に近づく。あの時、この本に文字が浮かび上がったのは何がきっかけだったのだろうか。

「たしか、夢を……そう、九ノ瀬に似た誰かの夢を見たんだ。それで――」

 あの日のことを思い返していると、本がほんのりと光っている様に見えた。どうして、と驚いていると、本はより輝きを増して昴の手の中でその存在を主張し始める。

 その時、ふと何かに呼ばれた様な気がして空を見上げた。空には数え切れないほどの星の数々と、その中心に静かに鎮座するハレー彗星があった。昴の瞳が宇宙の輝きで満たされる時、昴はふとあることに引っ掛かりを覚える。


 ――ハレー彗星……彗星? そうだ、あの夢でもたしか彗星が見えていたはずだ。


 トリガーはこの空にあるのかもしれない、と考えるとその意見に賛同するように本の光が激しくなる。

 まるで、『私を読め』と言っている様だった。

 昴は生唾をごくりと飲み干して、ハレー彗星が輝く空の下でそれをゆっくりと開く。

『ほうき星が見えた日に私はとても可愛い女の子と出会いました』

 以前にも読んだ文章がインクが滲む様に現れる。そして、それに続くように文字が次々に浮かび上がってくる。

 ハレー彗星の光に呼応するように、インクの文字が光り輝く。

『可愛い女の子の名前はココア。私たちはすぐに意気投合して、仲良しになりました』
『女の子はほうき星が浮かぶ夜に毎日私に会いに来てくれました。明日も彼女と会えるでしょうか?』

 浮かんでは消えていく文字の羅列は、まるで誰かの思い出の走馬灯でも見ているかの様だった。

 もしくは、この本に込められた記憶が言葉となって、昴に語りかけているかのように。

 さながら、時を超えて届いた手紙を、そっと開いている様な感覚に近い。

 昴が震える手で本を握りしめていると、次に浮かび上がった文章を読んで息を呑む。


『これを読んでくれているあなたへ』


 本が――過去が、未来に話しかけていた。


『私の全てを伝えます。一人ぼっちの彼女を、どうか救ってください』

 過去の願いが昴に届いた時、昴の意識はふっと夜空に溶ける様に奪われていった。

 彼女と出会ったのは私がまだ小学生の時でした。

 田舎に住んでいた私は、近くの大きな老樹に登って天体観測をするのが好きで、よく一人で遊びに来ていました。

 その日も、家族に一言断ってそこに来て、樹に登ろうとして気がつきました。

 いつも私が座る場所に、知らない女の子が座っていることに。

 その女の子は、夜を溶かし込んだような艶のある黒髪を風に靡かせながら、瞳には宇宙を宿しながら空を見つめていました。あまりにも儚く、美しいその姿に私の心はたちまち奪われたのを覚えています。声をかけたら消えてしまうのではないかと思うくらい存在が希薄で、そうすることが躊躇われるほどでした。

 だけど、私がじっと見ていると、彼女はその視線に気がついたのか私の方を見てくれました。

「こんばんは! 君はだぁれ? 私はねココアって言うの」

 ふんわりと花が咲くように笑った。彼女が私を見つけてくれた時、私は神様に選ばれたんだと本気で考えました。

 それから私とココアはいつも一緒に過ごしました。ココアがどこからきて、いつからこの村にいたのか。誰にも聞いてもわかりませんでしたが、それも気にならないほど私はココアのことが好きでした。

 鈴が鳴るように笑う彼女も、露天で買ったご飯を目を輝かせながら食べる彼女も。

 いろんな表情を見せる彼女が、私の中で特別になるのに時間はかかりませんでした。


 ずっと、こんな毎日が続けばいい、そう思っていました。そう思っていたのに――。


 その日も、いつもと同じように家族にココアと遊びに行くと声をかけたのです。すると、帰ってきた答えは「その子は誰だい? 新しいお友達かい?」


 呆然としました。何を言ってるんだと思いました。だけど、みんな本気だったんです。みんなの記憶にココアはいなくなってしまったのです。

 私ははやる気持ちを抑えながら、彼女といつも会う老樹の下まで急ぎました。


 彼女はいつも通り木の上に登って、澄み渡る空をじっと見つめていました。


 名前を、呼ぼうとしたんです。だけど、名前が、わからなくて、私は――。



 名前が――出てこなかった。



「やっぱり、君も同じなんだね」

 耳元で囁かれた声にハッと意識を現実に戻すと、彼女は私を見て悲しそうに笑っていました。その笑顔があまりにも切なくて、私は咄嗟に嘘をついてしまったのです。

「大丈夫よ。私はあなたのこと、忘れないから。だから、そんな寂しく笑わないで」

 きっと彼女は嘘だとわかっていたことでしょう。私の嘘が真実にならないことを知っていたことでしょう。

 それでも、彼女は嬉しそうに笑いました。

「信じてる。きっと、君が私を覚えていてくれることを」

 二人の少女の出会いと別れを、昴は『私』のそばで見ていた。昴はこの後に何が起きるのかを知っている。だからこそ、この二人の約束に胸を締め付けられた。

 あの日見た夢はきっと『私』の記憶だったのだろう。いずれ忘れてしまう運命は変えることができない、そう伝えたい様だった。

 それと同じくらい、その運命を変えてほしいと切なる願いが昴の胸に流れ込んでくる。


 『彼女』を忘れたくなかった『私』。

 『私』に一縷の希望を託した『彼女』。


 二人の想いは、交わることはなかった。まるで流星と地上、永遠に交わらない軌道を巡る存在のように。その関係は、ハレー彗星が地球から離れることで終わりを告げた――。