心愛は学校に入ると真っ先に屋上に向かって歩いた。屋上に繋がる階段は誰も通らないからか埃が溜まっていた。
「屋上には本当は出れないんだけど、この間鍵が壊れてるの見つけてさ」
普段は南京錠で施錠されている屋上に続く扉が、今は都合よく鍵が壊れ誰でも行けるようになっていた。
「私が壊したんじゃないよ。気がついたら壊れてたの。それに、教えてくれたのは中根さんって女の子だったし」
よく一緒にいたクラスメイトの名前を出しながら心愛はたわいもない話を続ける。昴はただその話を聞くことしかできず、ろくな返事はできなかった。
「君と話すなら、やっぱり空が近いほうがいいなって思ってたからちょうど良さそうだなって」
そう言いながら心愛は屋上への扉を開ける。誰も開けることのないその扉はギギギっと鈍く鋭い音を立てる。
扉を開けるとそこから太陽の光が二人を包み込んだ。暑いくらいの日差しの下に立ち、ようやく心愛は口を閉ざして昴の方を振り返る。
「ねぇ、君は気づいた? 私がまともじゃないって」
「気づいたっていうか……その、まともじゃないって……」
自分の中にある違和感をうまく言語化することができず昴は口ごもる。すると心愛は空を見上げた。どこまでも澄んで青い空にもくもくとした夏らしい入道雲が空に浮かんでいる。
心愛はスッと人差し指を空に向かって突き出した。突然の行動に昴は驚いてわずかに目を見開く。
「ねぇ、折り返し地点に立ったんだって。ハレー彗星も、私も」
唐突な発言に昴の頭はついてこない。心愛が何を昴に伝えたいのかが分からなかった。
「つまり、ハレー彗星は昨日が一番地球に近かったってこと。ここからハレー彗星は地球から遠ざかっていくの」
空を見上げても眩しい太陽が視界に入るだけで、その向こうにあるハレー彗星の輝きは見ることはできない。だけど、星が見えないだけでそこにあるように、ハレー彗星もきっとそこにあり続けているのだろう。
「私も、同じ――ハレー彗星と同じように、あとは消えていくだけ」
昴は引き寄せられるように心愛の方を向いた。心愛は今にも泣きそうな表情を浮かべながら懸命に笑顔を保っていた。
彼女の言っていることが理解できなかった。いや、理解したくなかったのだ。
「何、言ってるんだよ……同じって、意味わかんないだろっ! 九ノ瀬はハレー彗星と同じなわけない。だって、お前は人間じゃんないか」
「意味わかんなくてもしょうがないよ。だけど、現実は変わらない。私とハレー彗星は同じなの。私はハレー彗星で、空に浮かぶあのハレー彗星は私。だから、同じで、消えていくの」
「だから! それがわけわかんないって言ってんだろ! 人間であるお前が、どうして! あの宇宙にあるハレー彗星と同じになるんだよ!」
静かに、小さな子供を諭すように話す心愛に、昴はイラついた気持ちのまま声を荒げる。心愛の言っていることをわかってあげたいと思うのに、それを理解することは、つまり昴にとって恐ろしい事実を受け入れることに他ならなかった。そんなこと、動揺している今の昴の心では保ちそうになかった。
心愛は感情のまま話す昴に近づくと、一瞬悩んだあと、その肩に手を触れた。触れた瞬間、昴の体がびくりと震える。
「ごめんね、私が君のことを困らせちゃった。私のことを知らなかった君が……君なら私のことを覚えていてくれるかもって思ったんだ」
九ノ瀬心愛がこの地球で意識を取り戻した時、心愛は今回もまた目が覚めてしまったと絶望していた。それでも、心愛が人と関わろうとしたのは遠い昔の約束を果たすためだった。それだけのはずだったのに、心愛は昴と一緒に過ごすうちにもっと彼のそばにいたいと願い始めた。
世界は残酷で、心愛の願いに反して彗星は地球から離れていく。そして、また心愛は一人になるのだ。
「私は七十六年ごとに地球で目を覚まして、約一月の間、人の営みを観察して過ごす。そして、今回も同じだった。」
心愛は吸い込まれるような青空をその目に映す。昴は心愛の言っていることを理解したくなくて何度も首を横に振る。そんな昴の様子を心愛は悲しそうに見つめていることに昴は気が付かなかった。
「私の存在は、誰の記憶にも残らないまま、何度も何度も、繰り返すの。そして、繰り返すたびに、私の心は少しずつ削れていく……」
「そんな、非科学的なこと、どうやって信じればいいんだよ……九ノ瀬がハレー彗星だって? こうやって話して、触れて、一緒に過ごしてきたのに。そんなの信じられるわけないだろ……!」
昴は現実を受け入れたくなくて何度も心愛の言葉を否定する。だけど、否定すればするほど頭クリアになり、これまでの心愛の不可解な言動や態度に納得していく。
世間一般的な常識を知らない彼女は、文字通りそれらを知らなかったのだ。心愛が知っている常識は七十六年前のことで、今とはずいぶん様子が違ったことだろう。それでも心愛の行動の違和感を深く追及しなかったのは、おそらく彼女は周囲の自分の存在を肯定的に認知させる力があるからなのだろう。
「スバルがどうして私のことを知らなかったのか、私には分からなかった。私はいつだって、みんなに受け入れてもらえて、いつでも忘れ去られていく。それが当たり前だったのに、君はそんな私の当たり前の外側にいたんだ」
あの日、覚えた違和感は、昴の勘違いではなかった。自分だけが彼女を覚えていなかったのではない。自分だけがおかしかったのではない。
――昴だけが、正しかったのだ。
その結論に至った時、昴は顔を覆いながらその場に崩れ落ちた。
「ごめんね、もっと早くに言うべきだった。もっと早くに君に打ち明けていれば……あの日、一緒に天体観測に出かけた時に伝えていたら、君をこんなに傷つけることもなかったのに……」
申し訳なさそうに謝る心愛に昴はかける言葉が思いつかなかった。
今更何を言ってももう遅い。
そうやって昴の中にある怒りや悲しみを想いのままぶつけることも簡単だったが、昴は深呼吸することでグッと我慢する。なぜならば、真実を告げられて辛いのは昴の方のはずなのに、昴以上に傷ついた顔で今にも泣きそうにしている心愛を見てしまったからだ。そんな彼女に気がついた昴では、もう何も言えなかった。
昴はようやく彼女の言葉の意味を理解した。
あの夜、昴に「ごめん」と謝った意味。
何度も昴に忘れないでと言ったこと。
忘れないで、と約束をしたこと。
心愛のことを、おそらく昴も忘れてしまうのだろう。
地球から離れていくハレー彗星に引きずられるように、昴の記憶の中からも九ノ瀬心愛という人物の記憶が抜き出されていくのだ。
瑞稀が心愛を見ても気が付かなかったように、昴もいつか瑞稀と同じ側に立つのだ。心愛とすれ違っても、彼女に気が付かず、彼女のことを一ミリだって思い出さないのだ。
そして置いていかれる彼女は、一人で苦しむのだろう。だからこそ、「忘れないで」という約束なのだ。
絶対に果たせないとわかっていても、心愛はその約束に縋ることしかできなかった。
「……なんで、心愛なんだよ」
やっと絞り出した言葉は、どこか彼女を責めているようにも聞こえた。
そのことに気がついて昴は思わず口を塞いで顔をあげる。
心愛は泣きそうに笑いながら、静かに頷いた。
覚悟を決めた彼女の様子に、昴の目尻に涙がたまる。彼女の表情が、嘘じゃないと物語っている。そのことが、昴の胸を苦しめた。
「……考える時間が欲しい。今は、まだ何も言えない」
「そう、だよね……うん、わかった。ねぇ、スバル。私はどんな答えを出したとしても、君の決断を尊重するよ」
心愛は最後に目に焼き付けるように昴のことを見つめると、踵を返して屋上から立ち去ろうとした。
「でもね、もしも、それでも私のことを好きでいてくれたら。それだけで、私は嬉しいかな」
顔だけ昴の方を向いて、無理やり作った笑顔が痛ましかった。同時に、惚れた女性にそんな顔しかさせてあげられない自分を呪いたくもなった。
結局昴は最後まで心愛に何かを言うことはできなかった。心愛も昴の心の内を察したのか、何も言わずに屋上から出ていった。
照りつける太陽の日差しが、憎たらしいほど眩しかった。
「屋上には本当は出れないんだけど、この間鍵が壊れてるの見つけてさ」
普段は南京錠で施錠されている屋上に続く扉が、今は都合よく鍵が壊れ誰でも行けるようになっていた。
「私が壊したんじゃないよ。気がついたら壊れてたの。それに、教えてくれたのは中根さんって女の子だったし」
よく一緒にいたクラスメイトの名前を出しながら心愛はたわいもない話を続ける。昴はただその話を聞くことしかできず、ろくな返事はできなかった。
「君と話すなら、やっぱり空が近いほうがいいなって思ってたからちょうど良さそうだなって」
そう言いながら心愛は屋上への扉を開ける。誰も開けることのないその扉はギギギっと鈍く鋭い音を立てる。
扉を開けるとそこから太陽の光が二人を包み込んだ。暑いくらいの日差しの下に立ち、ようやく心愛は口を閉ざして昴の方を振り返る。
「ねぇ、君は気づいた? 私がまともじゃないって」
「気づいたっていうか……その、まともじゃないって……」
自分の中にある違和感をうまく言語化することができず昴は口ごもる。すると心愛は空を見上げた。どこまでも澄んで青い空にもくもくとした夏らしい入道雲が空に浮かんでいる。
心愛はスッと人差し指を空に向かって突き出した。突然の行動に昴は驚いてわずかに目を見開く。
「ねぇ、折り返し地点に立ったんだって。ハレー彗星も、私も」
唐突な発言に昴の頭はついてこない。心愛が何を昴に伝えたいのかが分からなかった。
「つまり、ハレー彗星は昨日が一番地球に近かったってこと。ここからハレー彗星は地球から遠ざかっていくの」
空を見上げても眩しい太陽が視界に入るだけで、その向こうにあるハレー彗星の輝きは見ることはできない。だけど、星が見えないだけでそこにあるように、ハレー彗星もきっとそこにあり続けているのだろう。
「私も、同じ――ハレー彗星と同じように、あとは消えていくだけ」
昴は引き寄せられるように心愛の方を向いた。心愛は今にも泣きそうな表情を浮かべながら懸命に笑顔を保っていた。
彼女の言っていることが理解できなかった。いや、理解したくなかったのだ。
「何、言ってるんだよ……同じって、意味わかんないだろっ! 九ノ瀬はハレー彗星と同じなわけない。だって、お前は人間じゃんないか」
「意味わかんなくてもしょうがないよ。だけど、現実は変わらない。私とハレー彗星は同じなの。私はハレー彗星で、空に浮かぶあのハレー彗星は私。だから、同じで、消えていくの」
「だから! それがわけわかんないって言ってんだろ! 人間であるお前が、どうして! あの宇宙にあるハレー彗星と同じになるんだよ!」
静かに、小さな子供を諭すように話す心愛に、昴はイラついた気持ちのまま声を荒げる。心愛の言っていることをわかってあげたいと思うのに、それを理解することは、つまり昴にとって恐ろしい事実を受け入れることに他ならなかった。そんなこと、動揺している今の昴の心では保ちそうになかった。
心愛は感情のまま話す昴に近づくと、一瞬悩んだあと、その肩に手を触れた。触れた瞬間、昴の体がびくりと震える。
「ごめんね、私が君のことを困らせちゃった。私のことを知らなかった君が……君なら私のことを覚えていてくれるかもって思ったんだ」
九ノ瀬心愛がこの地球で意識を取り戻した時、心愛は今回もまた目が覚めてしまったと絶望していた。それでも、心愛が人と関わろうとしたのは遠い昔の約束を果たすためだった。それだけのはずだったのに、心愛は昴と一緒に過ごすうちにもっと彼のそばにいたいと願い始めた。
世界は残酷で、心愛の願いに反して彗星は地球から離れていく。そして、また心愛は一人になるのだ。
「私は七十六年ごとに地球で目を覚まして、約一月の間、人の営みを観察して過ごす。そして、今回も同じだった。」
心愛は吸い込まれるような青空をその目に映す。昴は心愛の言っていることを理解したくなくて何度も首を横に振る。そんな昴の様子を心愛は悲しそうに見つめていることに昴は気が付かなかった。
「私の存在は、誰の記憶にも残らないまま、何度も何度も、繰り返すの。そして、繰り返すたびに、私の心は少しずつ削れていく……」
「そんな、非科学的なこと、どうやって信じればいいんだよ……九ノ瀬がハレー彗星だって? こうやって話して、触れて、一緒に過ごしてきたのに。そんなの信じられるわけないだろ……!」
昴は現実を受け入れたくなくて何度も心愛の言葉を否定する。だけど、否定すればするほど頭クリアになり、これまでの心愛の不可解な言動や態度に納得していく。
世間一般的な常識を知らない彼女は、文字通りそれらを知らなかったのだ。心愛が知っている常識は七十六年前のことで、今とはずいぶん様子が違ったことだろう。それでも心愛の行動の違和感を深く追及しなかったのは、おそらく彼女は周囲の自分の存在を肯定的に認知させる力があるからなのだろう。
「スバルがどうして私のことを知らなかったのか、私には分からなかった。私はいつだって、みんなに受け入れてもらえて、いつでも忘れ去られていく。それが当たり前だったのに、君はそんな私の当たり前の外側にいたんだ」
あの日、覚えた違和感は、昴の勘違いではなかった。自分だけが彼女を覚えていなかったのではない。自分だけがおかしかったのではない。
――昴だけが、正しかったのだ。
その結論に至った時、昴は顔を覆いながらその場に崩れ落ちた。
「ごめんね、もっと早くに言うべきだった。もっと早くに君に打ち明けていれば……あの日、一緒に天体観測に出かけた時に伝えていたら、君をこんなに傷つけることもなかったのに……」
申し訳なさそうに謝る心愛に昴はかける言葉が思いつかなかった。
今更何を言ってももう遅い。
そうやって昴の中にある怒りや悲しみを想いのままぶつけることも簡単だったが、昴は深呼吸することでグッと我慢する。なぜならば、真実を告げられて辛いのは昴の方のはずなのに、昴以上に傷ついた顔で今にも泣きそうにしている心愛を見てしまったからだ。そんな彼女に気がついた昴では、もう何も言えなかった。
昴はようやく彼女の言葉の意味を理解した。
あの夜、昴に「ごめん」と謝った意味。
何度も昴に忘れないでと言ったこと。
忘れないで、と約束をしたこと。
心愛のことを、おそらく昴も忘れてしまうのだろう。
地球から離れていくハレー彗星に引きずられるように、昴の記憶の中からも九ノ瀬心愛という人物の記憶が抜き出されていくのだ。
瑞稀が心愛を見ても気が付かなかったように、昴もいつか瑞稀と同じ側に立つのだ。心愛とすれ違っても、彼女に気が付かず、彼女のことを一ミリだって思い出さないのだ。
そして置いていかれる彼女は、一人で苦しむのだろう。だからこそ、「忘れないで」という約束なのだ。
絶対に果たせないとわかっていても、心愛はその約束に縋ることしかできなかった。
「……なんで、心愛なんだよ」
やっと絞り出した言葉は、どこか彼女を責めているようにも聞こえた。
そのことに気がついて昴は思わず口を塞いで顔をあげる。
心愛は泣きそうに笑いながら、静かに頷いた。
覚悟を決めた彼女の様子に、昴の目尻に涙がたまる。彼女の表情が、嘘じゃないと物語っている。そのことが、昴の胸を苦しめた。
「……考える時間が欲しい。今は、まだ何も言えない」
「そう、だよね……うん、わかった。ねぇ、スバル。私はどんな答えを出したとしても、君の決断を尊重するよ」
心愛は最後に目に焼き付けるように昴のことを見つめると、踵を返して屋上から立ち去ろうとした。
「でもね、もしも、それでも私のことを好きでいてくれたら。それだけで、私は嬉しいかな」
顔だけ昴の方を向いて、無理やり作った笑顔が痛ましかった。同時に、惚れた女性にそんな顔しかさせてあげられない自分を呪いたくもなった。
結局昴は最後まで心愛に何かを言うことはできなかった。心愛も昴の心の内を察したのか、何も言わずに屋上から出ていった。
照りつける太陽の日差しが、憎たらしいほど眩しかった。



