ハレー彗星が落ちる夜に――とは一体いつのことを指しているのだろうか。研究職である月人が読むことができなかった本を、果たして昴が読むことができるのか。何も分からないまま昴は自室に戻ってその本を開いてみることにした。
机の上に深緑の本を置き、意を決して表紙を開いてみる。
クリーム色に変色した紙には何も書かれていなかった。それは次のページに進んでも一緒で、結局最後までページをめくってみても結果は同じだった。
何も書かれていない本をなぜ昴の母親は残したのか。しかも、意味深な言葉まで残して。
月人の言った通り、彗星が落ちることはない。かつて、彗星が地球にぶつかるだとか、毒ガスが広まり地球が滅ぶだとか、いろんな彗星にまつわる噂が持ち上がったことはあった。だけど、それらは全て所詮噂に過ぎず、どれも本当にはならなかった。
月人の妻であった母も、天体については詳しく、そのことだってもちろん知っていたはずだった。
――なら、どうしてあえて『彗星が落ちる』なんていう表現にしたのか。
昴は母親が残した言葉の意味を考えながら、ふと窓の外を見る。
太陽の光が燦爛と輝き、外は茹だるような暑さをしていることだろう。
今頃心愛やクラスメイトたちはこの暑い中、授業を受けているのだと思うと、涼しい部屋でのんびりしている自分が少しだけ恥ずかしくなる。
昴は謎が解けそうにない本を閉じると、もう一度ベッドの中にダイブした。そしてそっと目を閉じて夜まで寝てしまおうと考える。
瞼の裏に見えるのは無数に光る星々だった。いつか見た満天の星空の景色を昴は眠るときによく思い出す。その無数の光を目の奥で観測しながら、徐々に眠りに落ちていくのだ。そうすると、不安も辛さも全て水に流してしまえるような気がするから。
だから今日もいつもと同じように星空を思い出す。
そうして、眠りに落ちた。
その時、昴は夢の中で心愛に似た女の子を見た。心愛よりも幼い顔に、黒いロングヘアとキラキラに輝く瞳。太陽のように明るく、月のように静かに笑った彼女は、誰かに向かって手招きをしている。
その誰かはどうやら昴のようで、昴は自分の意思とは関係なく手を振り返していた。女の子はそれが嬉しかったのか、昴の方に駆け寄ってきた。
「今日は何して遊ぶの?」と、頬を赤ながら女の子は昴に尋ねる。昴はどうやって返事をするべきか一瞬悩んだが、夢の中の自分は「それじゃあ、かけっこしようよ」とスラスラと答えていた。
昴の答えに女の子は嬉しそうに頷いた。そして、二人はかけっこを始めた。どれだけ走っても体が疲れたように感じないのは、ここが夢の中だからか――と、考えて昴はようやくここが夢であることを自覚した。それと同時に昴の体は宙に浮き、女の子ともう一人の自分を空から眺めることになった。
昴が乗り移っていたのは女の子と同じ背丈をした少女だった。鮮やかな赤色の着物を着ており、心愛に似た女の子と一緒に遊んで笑っている。
これは誰の夢なのだろうか、と考えていると、夢の場面が切り替わる。
そこは街灯もない真っ暗な世界だった。家人は寝静まり、先ほどの少女だけがこっそりと起きて家から抜け出していた。
少女は走ってとある場所まで行くと、そこで待っていた女の子に手を振った。女の子は少女に向かって何かを話しかけたが、昴の耳には届かなかった。
昴はふと空を見上げた。三日月が浮かび、街灯の光に邪魔されずに光り輝く星々が揺らめいていた。そして、その空には昴が今まさに毎晩観測しているハレー彗星がはっきりと見ることができた。
――彗星?
何かが引っかかった時、夢は急速に回り出す。ぐるぐると景色が変わっていく。昴の視界には少女と黒髪の女の子の楽しい日々が、まるで映画のように流れていく。
そしてある時で止まると黒髪の女の子は涙を流していた。目の前には少女が立っていたのに、少女には女の子が見えていないようだった。
「……忘れないって、言ったのに」
女の子は少女の前で蹲ると大きな声をあげて泣き出す。小さい子供の癇癪のように、火がついた炎みたいに泣き喚く。しかし、少女だけでなく近くを通る人たちにも女の子は見えていないようで、誰もがその横を知らんぷりして通り過ぎていく。
少女はしばらくその場に立ち尽くした後、遠くで家族が彼女のことを呼んだのか、声のするほうにかけていった。泣いている女の子の横を、何事もないように通り過ぎる。その瞬間の女の子の絶望した顔は、昴の記憶の中に強く刻まれた。
昴は思わず女の子に手を伸ばそうとしたが、体が後ろに思いっきり引っ張られるように女の子から引き離され始めた。突然のことに困惑する昴を置いていくように、意識が浮上するのがわかる。きっと昴は夢から醒めようとしているのだ。
――まだ、まだだめだ! あの子に伝えなきゃ!
そう考えて一体何を伝えたかったのか分からないまま昴はその夢から追い出される。最後に女の子が小さく唇を震わせた。その声はすでに昴には届いていなかったが、昴には何を言ったのかはっきりとわかった。
『もう、一人は嫌だよ』――彼女は確かにそう言った。
女の子の悲しみと絶望が昴の胸の奥を的確に突き刺した。
その瞬間、世界は暗転し、昴はハッと目を覚ました。
冷房の効いた部屋にも関わらず、身体中嫌な汗をかいており、昴は持久走を行った後のように息を切らしていた。ゆっくりと体を起こしながら昴は今し方見た夢のことを考える。
夢にしてはリアルで、女の子の感情がダイレクトに昴の心に届いた。彼女の心の悲鳴が、まだ耳に残っているようだった。
――九ノ瀬に似たあの女の子は一体誰だったんだろうか? それに、あれは本当に夢なのか?
辺りはすっかり暗くなっていた。シンとした部屋で昴はもんもんと悩み続ける。
とりあえず水でも飲むか、とベッドから降りた時、勉強机の上に置いてあった本が僅かに光っているような気がした。昴はなんだろうと思い机に近づいて本を手に取る。
『ほうき星が見えた日に私はとても可愛い女の子と出会いました』
無造作に開かれた本には先ほどまではなかった文字が浮かび上がっていた。その文字はかすかに光を放っており、弱々しくもはっきりと存在を主張している。
「どういうことだよ……さっきまで何も書いてなかったはずだろ」
本を持ち上げて他のページも見てみるが、書いてあるのはそのページだけのようだった。まるで先ほど見ていた夢にリンクするかのような内容に昴は少しだけ寒気を覚える。こんな偶然があるものなのだろうか。
昴は少し迷った後、その本を持って部屋を出る。月人にこのことを確認しようと思ったのだ。
だけど、月人はすでに家を出てしまったようで家には誰もいなかった。月人はいくらかのお金をリビングの机に置いて帰ったみたいで、無造作に数枚のお札が転がっていた。
せめて一言でも声をかけてくれればいいのに、と普段思わないようなことを心の中で呟く。家族の愛情を今更求めたりしないが、心愛と一緒に過ごすうちに人並みの愛情に飢えている自分に気がついてしまったようだ。そして彼女のおかげか、月人ともう少し歩み寄れるのではないかと、思ってしまう。
昴は手の中に残った本を見つめて小さくため息を吐く。
本は先ほどのような輝きは無くなっており、静かに昴の手の中に収まっていた。もう一度本を開いて先ほどの文章を読もうとしたが、本のどこにも文字は刻まれていなかった。
「意味がわからない……どういうことだよ、この本…………」
意味不明な本に若干イラつきながら昴はその本のことをこれ以上考えることをやめる。その代わりに自室に戻り、今日のハレー彗星の観測記録をつけることにする。
ハレー彗星が観測できるようになって半月ほどが過ぎている。ハレー彗星は今日も変わらず煌めく星空の合間に輝く。
昴は窓側に置いてあった望遠鏡を覗き込み、ハレー彗星をより間近に観測する。
それを見た瞬間、一瞬の頭痛がしたかと思ったら、すぐに治った。頭を抱え込みたくなるような激痛に顔を顰めるが、原因も何もわからなかった。
昴は昨日の心愛との天体観測の疲れかと思い、今日の観察は簡単に行うだけにとどめることにした。
早く休んで、明日学校で心愛に会えることを楽しみに思いながら、昴は空を見上げた。
机の上に深緑の本を置き、意を決して表紙を開いてみる。
クリーム色に変色した紙には何も書かれていなかった。それは次のページに進んでも一緒で、結局最後までページをめくってみても結果は同じだった。
何も書かれていない本をなぜ昴の母親は残したのか。しかも、意味深な言葉まで残して。
月人の言った通り、彗星が落ちることはない。かつて、彗星が地球にぶつかるだとか、毒ガスが広まり地球が滅ぶだとか、いろんな彗星にまつわる噂が持ち上がったことはあった。だけど、それらは全て所詮噂に過ぎず、どれも本当にはならなかった。
月人の妻であった母も、天体については詳しく、そのことだってもちろん知っていたはずだった。
――なら、どうしてあえて『彗星が落ちる』なんていう表現にしたのか。
昴は母親が残した言葉の意味を考えながら、ふと窓の外を見る。
太陽の光が燦爛と輝き、外は茹だるような暑さをしていることだろう。
今頃心愛やクラスメイトたちはこの暑い中、授業を受けているのだと思うと、涼しい部屋でのんびりしている自分が少しだけ恥ずかしくなる。
昴は謎が解けそうにない本を閉じると、もう一度ベッドの中にダイブした。そしてそっと目を閉じて夜まで寝てしまおうと考える。
瞼の裏に見えるのは無数に光る星々だった。いつか見た満天の星空の景色を昴は眠るときによく思い出す。その無数の光を目の奥で観測しながら、徐々に眠りに落ちていくのだ。そうすると、不安も辛さも全て水に流してしまえるような気がするから。
だから今日もいつもと同じように星空を思い出す。
そうして、眠りに落ちた。
その時、昴は夢の中で心愛に似た女の子を見た。心愛よりも幼い顔に、黒いロングヘアとキラキラに輝く瞳。太陽のように明るく、月のように静かに笑った彼女は、誰かに向かって手招きをしている。
その誰かはどうやら昴のようで、昴は自分の意思とは関係なく手を振り返していた。女の子はそれが嬉しかったのか、昴の方に駆け寄ってきた。
「今日は何して遊ぶの?」と、頬を赤ながら女の子は昴に尋ねる。昴はどうやって返事をするべきか一瞬悩んだが、夢の中の自分は「それじゃあ、かけっこしようよ」とスラスラと答えていた。
昴の答えに女の子は嬉しそうに頷いた。そして、二人はかけっこを始めた。どれだけ走っても体が疲れたように感じないのは、ここが夢の中だからか――と、考えて昴はようやくここが夢であることを自覚した。それと同時に昴の体は宙に浮き、女の子ともう一人の自分を空から眺めることになった。
昴が乗り移っていたのは女の子と同じ背丈をした少女だった。鮮やかな赤色の着物を着ており、心愛に似た女の子と一緒に遊んで笑っている。
これは誰の夢なのだろうか、と考えていると、夢の場面が切り替わる。
そこは街灯もない真っ暗な世界だった。家人は寝静まり、先ほどの少女だけがこっそりと起きて家から抜け出していた。
少女は走ってとある場所まで行くと、そこで待っていた女の子に手を振った。女の子は少女に向かって何かを話しかけたが、昴の耳には届かなかった。
昴はふと空を見上げた。三日月が浮かび、街灯の光に邪魔されずに光り輝く星々が揺らめいていた。そして、その空には昴が今まさに毎晩観測しているハレー彗星がはっきりと見ることができた。
――彗星?
何かが引っかかった時、夢は急速に回り出す。ぐるぐると景色が変わっていく。昴の視界には少女と黒髪の女の子の楽しい日々が、まるで映画のように流れていく。
そしてある時で止まると黒髪の女の子は涙を流していた。目の前には少女が立っていたのに、少女には女の子が見えていないようだった。
「……忘れないって、言ったのに」
女の子は少女の前で蹲ると大きな声をあげて泣き出す。小さい子供の癇癪のように、火がついた炎みたいに泣き喚く。しかし、少女だけでなく近くを通る人たちにも女の子は見えていないようで、誰もがその横を知らんぷりして通り過ぎていく。
少女はしばらくその場に立ち尽くした後、遠くで家族が彼女のことを呼んだのか、声のするほうにかけていった。泣いている女の子の横を、何事もないように通り過ぎる。その瞬間の女の子の絶望した顔は、昴の記憶の中に強く刻まれた。
昴は思わず女の子に手を伸ばそうとしたが、体が後ろに思いっきり引っ張られるように女の子から引き離され始めた。突然のことに困惑する昴を置いていくように、意識が浮上するのがわかる。きっと昴は夢から醒めようとしているのだ。
――まだ、まだだめだ! あの子に伝えなきゃ!
そう考えて一体何を伝えたかったのか分からないまま昴はその夢から追い出される。最後に女の子が小さく唇を震わせた。その声はすでに昴には届いていなかったが、昴には何を言ったのかはっきりとわかった。
『もう、一人は嫌だよ』――彼女は確かにそう言った。
女の子の悲しみと絶望が昴の胸の奥を的確に突き刺した。
その瞬間、世界は暗転し、昴はハッと目を覚ました。
冷房の効いた部屋にも関わらず、身体中嫌な汗をかいており、昴は持久走を行った後のように息を切らしていた。ゆっくりと体を起こしながら昴は今し方見た夢のことを考える。
夢にしてはリアルで、女の子の感情がダイレクトに昴の心に届いた。彼女の心の悲鳴が、まだ耳に残っているようだった。
――九ノ瀬に似たあの女の子は一体誰だったんだろうか? それに、あれは本当に夢なのか?
辺りはすっかり暗くなっていた。シンとした部屋で昴はもんもんと悩み続ける。
とりあえず水でも飲むか、とベッドから降りた時、勉強机の上に置いてあった本が僅かに光っているような気がした。昴はなんだろうと思い机に近づいて本を手に取る。
『ほうき星が見えた日に私はとても可愛い女の子と出会いました』
無造作に開かれた本には先ほどまではなかった文字が浮かび上がっていた。その文字はかすかに光を放っており、弱々しくもはっきりと存在を主張している。
「どういうことだよ……さっきまで何も書いてなかったはずだろ」
本を持ち上げて他のページも見てみるが、書いてあるのはそのページだけのようだった。まるで先ほど見ていた夢にリンクするかのような内容に昴は少しだけ寒気を覚える。こんな偶然があるものなのだろうか。
昴は少し迷った後、その本を持って部屋を出る。月人にこのことを確認しようと思ったのだ。
だけど、月人はすでに家を出てしまったようで家には誰もいなかった。月人はいくらかのお金をリビングの机に置いて帰ったみたいで、無造作に数枚のお札が転がっていた。
せめて一言でも声をかけてくれればいいのに、と普段思わないようなことを心の中で呟く。家族の愛情を今更求めたりしないが、心愛と一緒に過ごすうちに人並みの愛情に飢えている自分に気がついてしまったようだ。そして彼女のおかげか、月人ともう少し歩み寄れるのではないかと、思ってしまう。
昴は手の中に残った本を見つめて小さくため息を吐く。
本は先ほどのような輝きは無くなっており、静かに昴の手の中に収まっていた。もう一度本を開いて先ほどの文章を読もうとしたが、本のどこにも文字は刻まれていなかった。
「意味がわからない……どういうことだよ、この本…………」
意味不明な本に若干イラつきながら昴はその本のことをこれ以上考えることをやめる。その代わりに自室に戻り、今日のハレー彗星の観測記録をつけることにする。
ハレー彗星が観測できるようになって半月ほどが過ぎている。ハレー彗星は今日も変わらず煌めく星空の合間に輝く。
昴は窓側に置いてあった望遠鏡を覗き込み、ハレー彗星をより間近に観測する。
それを見た瞬間、一瞬の頭痛がしたかと思ったら、すぐに治った。頭を抱え込みたくなるような激痛に顔を顰めるが、原因も何もわからなかった。
昴は昨日の心愛との天体観測の疲れかと思い、今日の観察は簡単に行うだけにとどめることにした。
早く休んで、明日学校で心愛に会えることを楽しみに思いながら、昴は空を見上げた。



