心愛との天体観測を終えた次の日のこと。朝一のバスでそれぞれの自宅に帰り、昴は当然のように学校を休んだ。朝まで天体観測をした時はいつもこうしていた。出席率などを担任のオオグマ先生に心配され、三者面談でも父親と一緒に釘を刺されたこともあったが、それでも昴の杜撰さは治らなかった。
優先順位が違うというのか、昴はあまり勉学に重きを置いていなかった。父親の月人も昴が何をしているのかとか、将来どうしたいのかとには興味がないようだった。オオグマ先生との面談の時にそれなりに強く注意をされていたが曖昧に笑うだけの月人にオオグマ先生の方が深いため息を漏らしたほどだった。
昴は帰宅後にすぐにシャワーを浴びると、そのまま自室のベッドに寝転がった。あらかじめ冷房を入れておいたおかげで部屋の温度は快適だった。
――付き合ってる、でいいんだよな?
勢いに任せて心愛に告白した昴だったが、その返事ははっきりとしたものではなかった。
心愛は「私を忘れないって約束できるなら」と昴にはよく分からない条件を出してきた。あの時は深く意味も考えずに心愛の言葉に応えなければいけないという思いで返事をしたが、一体あの言葉の意味はなんだったんだろうか。
私を忘れないで――ということは心愛は誰かに忘れられた経験でもあるのだろうか。
ベッドに転がりながらあれこれと考えるが、それらに意味があるのかは分からなかった。想像してもそれ以上にはならず、答えは見つかりそうになかった。それでも彼女のことを考えてしまうのは、昨夜の心愛の様子がいつもと違い、選択を誤ればいなくなってしまいそうな儚さがあったからだ。
心愛のことを危ういと感じたのは昨夜が初めてではなかった。改めて彼女との日々を思い返してみると、心愛はたまに遠くを見つめたり、昴を試すような話をすることがあった。それに星の知識は豊富なのに、一般常識については欠落したようにわかっていない点も不思議だった。
不思議に思う点や不可解な点はたくさんあったが、昴はそれらについて追求しようという気持ちはなかった。
昴が家族のことを知られたくないからと突き放したように、深掘りされたくない話は誰にだってあるだろうから。それに、心愛に伝えた、どんなことがあっても彼女が好きだという気持ちに変わりはない。
過去に何があって、この先の未来に何が待ち受けているのかは分からない。それが今の自分たちに目を向けない理由にはならないから。
そんなことを考えながらベッドの上で体勢を変えた時、家の扉が開く音がした。
昴はハッとして体を起こすと、少しだけ体を緊張で硬くさせる。
辺鄙な場所にある昴の家にわざわざ泥棒が来るとは思えない。だけど万が一を考えて昴は静かにベッドから降りて自室の扉に耳を近づける。スタスタと誰かが廊下を歩く音が聞こえたかと思うと、その人物は真っ直ぐにリビングの方へと向かったようだった。
昴は音を立てないように扉を開けると誰かと同じようにリビングに向かった。僅かに開いたままの扉からは光が漏れていた。おそらくキッチンの電気をつけたのだろう。
迷いながらも昴はリビングに続く扉を勢いよく開けた。そしてキッチンを覗くとそこにはくたびれた白いシャツに着古した黒いズボンを履いた無精髭を生やす男が立っていた。身長は昴よりも高く、痩せ細っているのもあってもやしのような体格だった。
男は突然現れた昴に驚いた様子は見せず、ただ「いたのか」と無気力につぶやいた。
昴は男が自分のよく見知った人であることがわかり内心ほっと息を吐く。
目の前で冷蔵庫を開けて物色を始めた男は昴の父親――星宮月人だった。
「帰ってくるなら一言連絡くらい入れろよ、父さん」
「連絡……あぁ、スマホは研究室に忘れてきたな」
昴の小言に月人は数秒考えた後、悪気なく答える。そして再び冷蔵庫の中を漁り始める。昴は自由気ままに行動する父親に「なんのための携帯だよ」と小さく漏らしながら月人の体を軽く押して冷蔵庫の前からどかす。
「探してるのはこれだろ」と言って瓶に入った蜂蜜酒を渡す。月人はぼんやりとしたまま昴から瓶を受け取ると礼も言わずにグラスに注ぎ始める。透明の澄んだ蜂蜜色の液体がグラスいっぱいに注がれると月人はそれを一気に飲み干した。そしてまたグラスに蜂蜜酒を注いで、グラスを傾ける。
月人は昴が物心ついた時にはすでに蜂蜜酒を好んで飲んでいた。昔は行事ごとや記念日などに合わせて蜂蜜酒を買ってきては楽しんでいたが、今ではこうやってたまにふらっと帰ってきた時に乱暴に飲むことが増えた。まるで忘れたい何かがあるように。
「なんで帰ってきたんだよ」と昴が月人から蜂蜜酒の瓶を奪い取りながらぶっきらぼうに尋ねる。月人はどこかを見つめながら一瞬考え込む。
「特に理由はないな。強いていうなら、お前がちゃんとしてるかの確認か」
ちゃんとしている、というのはつまり、昴が生きているかどうかということだ。月人は母親が亡くなってから昴への興味を失い、育児はほぼ放棄しているような状態だった。ほとんどの時間を星や天体のために使い、家に帰ってくるのも気まぐれだった。
母親が亡くなったばかりの頃は、昴も不安定でそんな父親に罵詈雑言を吐いたこともあったが、今では諦めの気持ちが先に勝ってしまい、何もいう気になれなかった。生活するための金は定期的に渡してくれるから、それでいいかという気持ちだった。
だから、昴が月人とこうやって顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。どれだけ時間が経っても、月人が母親が生きていた頃のように戻ることはなかった。
「そうかよ。なら、見ての通り、俺はちゃんとしてる」
「……学校にはちゃんと行ってるのか」
「行ってるよ……たまに休むけど」
まるで親のようなことを言う月人に昴は眉間に皺を寄せながら答える。それに対しても月人は興味なさそうに頷くだけだった。
何をしに帰ってきたんだ、と改めて心の中で呟きながら自室に戻ろうと踵を返す。
「ハレー彗星の記録をつけているか」
背中越しに月人が昴にそう投げかけた。昴は月人にそんなことを聞かれると思っていなくで、驚きながら足を止めた。
「もしも、困ったことがあれば、これを使え」
月人は硬直する昴の手に一冊の本を手渡した。なんだこれは、という意味を込めて月人の方を振り返ると、彼は昴が遠ざけた蜂蜜酒の瓶にもう一度手を伸ばしているところだった。
「それは、お前の母親が残したものだ」
月人の言葉に昴は大きく目を見開き、手の中の本を見つめる。その本にはタイトルとかはなく、日記帳のようだった。深緑の表紙には金色で線が引かれている。中を開いて確認しようとした時、月人がまた口を開いた。
「ハレー彗星が落ちる夜に読んでほしい、と生前彼女は言っていた。それが誰に向けての言葉なのかはもう分からない。それに、中には何も書かれておらず、私では読むことも解読もできなかった」
コポコポとグラスに注がれる音が響く。月人は蜂蜜酒を注ぎ終えると昴の方を見た。昴も体を少しだけ月人の方に向け、手の中の本と交互に見つめる。
「ハレー彗星が落ちることはない。それでも、彼女はそう言い残した……その意味も、彼女が誰に読んで欲しかったのか。なにを、誰に伝えたかったのかは分からないが、お前も読んでみるといい」
そういうと月人は蜂蜜酒が注がれたグラスを片手に昴の横を通って自室に向かって行った。昴は意味不明な言葉を残して去っていった月人の背中を見つめることしかできなかった。
昴は手の中に残った母親の遺物をただ見つめることしかできなかった。
優先順位が違うというのか、昴はあまり勉学に重きを置いていなかった。父親の月人も昴が何をしているのかとか、将来どうしたいのかとには興味がないようだった。オオグマ先生との面談の時にそれなりに強く注意をされていたが曖昧に笑うだけの月人にオオグマ先生の方が深いため息を漏らしたほどだった。
昴は帰宅後にすぐにシャワーを浴びると、そのまま自室のベッドに寝転がった。あらかじめ冷房を入れておいたおかげで部屋の温度は快適だった。
――付き合ってる、でいいんだよな?
勢いに任せて心愛に告白した昴だったが、その返事ははっきりとしたものではなかった。
心愛は「私を忘れないって約束できるなら」と昴にはよく分からない条件を出してきた。あの時は深く意味も考えずに心愛の言葉に応えなければいけないという思いで返事をしたが、一体あの言葉の意味はなんだったんだろうか。
私を忘れないで――ということは心愛は誰かに忘れられた経験でもあるのだろうか。
ベッドに転がりながらあれこれと考えるが、それらに意味があるのかは分からなかった。想像してもそれ以上にはならず、答えは見つかりそうになかった。それでも彼女のことを考えてしまうのは、昨夜の心愛の様子がいつもと違い、選択を誤ればいなくなってしまいそうな儚さがあったからだ。
心愛のことを危ういと感じたのは昨夜が初めてではなかった。改めて彼女との日々を思い返してみると、心愛はたまに遠くを見つめたり、昴を試すような話をすることがあった。それに星の知識は豊富なのに、一般常識については欠落したようにわかっていない点も不思議だった。
不思議に思う点や不可解な点はたくさんあったが、昴はそれらについて追求しようという気持ちはなかった。
昴が家族のことを知られたくないからと突き放したように、深掘りされたくない話は誰にだってあるだろうから。それに、心愛に伝えた、どんなことがあっても彼女が好きだという気持ちに変わりはない。
過去に何があって、この先の未来に何が待ち受けているのかは分からない。それが今の自分たちに目を向けない理由にはならないから。
そんなことを考えながらベッドの上で体勢を変えた時、家の扉が開く音がした。
昴はハッとして体を起こすと、少しだけ体を緊張で硬くさせる。
辺鄙な場所にある昴の家にわざわざ泥棒が来るとは思えない。だけど万が一を考えて昴は静かにベッドから降りて自室の扉に耳を近づける。スタスタと誰かが廊下を歩く音が聞こえたかと思うと、その人物は真っ直ぐにリビングの方へと向かったようだった。
昴は音を立てないように扉を開けると誰かと同じようにリビングに向かった。僅かに開いたままの扉からは光が漏れていた。おそらくキッチンの電気をつけたのだろう。
迷いながらも昴はリビングに続く扉を勢いよく開けた。そしてキッチンを覗くとそこにはくたびれた白いシャツに着古した黒いズボンを履いた無精髭を生やす男が立っていた。身長は昴よりも高く、痩せ細っているのもあってもやしのような体格だった。
男は突然現れた昴に驚いた様子は見せず、ただ「いたのか」と無気力につぶやいた。
昴は男が自分のよく見知った人であることがわかり内心ほっと息を吐く。
目の前で冷蔵庫を開けて物色を始めた男は昴の父親――星宮月人だった。
「帰ってくるなら一言連絡くらい入れろよ、父さん」
「連絡……あぁ、スマホは研究室に忘れてきたな」
昴の小言に月人は数秒考えた後、悪気なく答える。そして再び冷蔵庫の中を漁り始める。昴は自由気ままに行動する父親に「なんのための携帯だよ」と小さく漏らしながら月人の体を軽く押して冷蔵庫の前からどかす。
「探してるのはこれだろ」と言って瓶に入った蜂蜜酒を渡す。月人はぼんやりとしたまま昴から瓶を受け取ると礼も言わずにグラスに注ぎ始める。透明の澄んだ蜂蜜色の液体がグラスいっぱいに注がれると月人はそれを一気に飲み干した。そしてまたグラスに蜂蜜酒を注いで、グラスを傾ける。
月人は昴が物心ついた時にはすでに蜂蜜酒を好んで飲んでいた。昔は行事ごとや記念日などに合わせて蜂蜜酒を買ってきては楽しんでいたが、今ではこうやってたまにふらっと帰ってきた時に乱暴に飲むことが増えた。まるで忘れたい何かがあるように。
「なんで帰ってきたんだよ」と昴が月人から蜂蜜酒の瓶を奪い取りながらぶっきらぼうに尋ねる。月人はどこかを見つめながら一瞬考え込む。
「特に理由はないな。強いていうなら、お前がちゃんとしてるかの確認か」
ちゃんとしている、というのはつまり、昴が生きているかどうかということだ。月人は母親が亡くなってから昴への興味を失い、育児はほぼ放棄しているような状態だった。ほとんどの時間を星や天体のために使い、家に帰ってくるのも気まぐれだった。
母親が亡くなったばかりの頃は、昴も不安定でそんな父親に罵詈雑言を吐いたこともあったが、今では諦めの気持ちが先に勝ってしまい、何もいう気になれなかった。生活するための金は定期的に渡してくれるから、それでいいかという気持ちだった。
だから、昴が月人とこうやって顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。どれだけ時間が経っても、月人が母親が生きていた頃のように戻ることはなかった。
「そうかよ。なら、見ての通り、俺はちゃんとしてる」
「……学校にはちゃんと行ってるのか」
「行ってるよ……たまに休むけど」
まるで親のようなことを言う月人に昴は眉間に皺を寄せながら答える。それに対しても月人は興味なさそうに頷くだけだった。
何をしに帰ってきたんだ、と改めて心の中で呟きながら自室に戻ろうと踵を返す。
「ハレー彗星の記録をつけているか」
背中越しに月人が昴にそう投げかけた。昴は月人にそんなことを聞かれると思っていなくで、驚きながら足を止めた。
「もしも、困ったことがあれば、これを使え」
月人は硬直する昴の手に一冊の本を手渡した。なんだこれは、という意味を込めて月人の方を振り返ると、彼は昴が遠ざけた蜂蜜酒の瓶にもう一度手を伸ばしているところだった。
「それは、お前の母親が残したものだ」
月人の言葉に昴は大きく目を見開き、手の中の本を見つめる。その本にはタイトルとかはなく、日記帳のようだった。深緑の表紙には金色で線が引かれている。中を開いて確認しようとした時、月人がまた口を開いた。
「ハレー彗星が落ちる夜に読んでほしい、と生前彼女は言っていた。それが誰に向けての言葉なのかはもう分からない。それに、中には何も書かれておらず、私では読むことも解読もできなかった」
コポコポとグラスに注がれる音が響く。月人は蜂蜜酒を注ぎ終えると昴の方を見た。昴も体を少しだけ月人の方に向け、手の中の本と交互に見つめる。
「ハレー彗星が落ちることはない。それでも、彼女はそう言い残した……その意味も、彼女が誰に読んで欲しかったのか。なにを、誰に伝えたかったのかは分からないが、お前も読んでみるといい」
そういうと月人は蜂蜜酒が注がれたグラスを片手に昴の横を通って自室に向かって行った。昴は意味不明な言葉を残して去っていった月人の背中を見つめることしかできなかった。
昴は手の中に残った母親の遺物をただ見つめることしかできなかった。



