あの日、僕が部室を飛び出してから、翔琉との間には厚くて透明な、見えない壁ができてしまった。
教室では隣の席のはずなのに、そこには地球と月くらいの、絶望的な距離がある。月曜日の朝、教室に入ると、翔琉はもう席に座っていた。いつもみたいに「よっ」て片手を上げるでもなく、ただ窓の外を眺めている。その背中が、やけに大きく見えた。
「……翔琉、あのさ」
僕が声をかけようとした瞬間、翔琉の周りにクラスの友達がどっと集まってきた。「カケル、昨日ゲーセンいなかったじゃん!」なんて騒がしい声に、僕の声はかき消される。翔琉は「あー、ちょっとな」なんて言いながら、いつもの“陽キャスマイル”を浮かべて、僕の方なんて一度も見なかった。
昼休みも、翔琉はすぐに席を立って、友達の輪の中へ消えていく。僕は何度か、その輪に近づこうとした。でも、僕に気づいた翔琉は、ふいっと顔を背けて別のやつと話し始めたり、タイミング悪く誰かに呼ばれて廊下に出て行ってしまったり。まるで、僕だけを避けるように。
そんなことが数日続いて、僕の心はすっかりささくれていた。話しかけるタイミングも、謝るきっかけも見つけられないまま、僕たちの“カップル垢”の更新は、ぴたりと止まっていた。
金曜日の放課後、僕は一人で写真部の部室にいた。翔琉は今日も来ない。重たい心をどうにかしたくて、僕はじいちゃんのカメラを構えた。でも、ファインダーを覗いても、世界はただの灰色にしか見えない。
「……だめだな」
ため息をついてカメラを下ろす。いつもそうだ。じいちゃんのカメラを手にしても、僕が本当に撮りたいものは、いつだってファインダーの向こう側にはない。
すると、いつの間にか、ちぃ先輩が僕の隣に立っていた。
「あれ、今日もトモくん一人?」
「……ちぃ先輩」
「ま、一人になりたい気持ちは分かるけどね。俺も大海と喧嘩した時とか、よく一人で海見てるし」
猫みたいに気まぐれな笑顔で、先輩はあっけらかんと言う。その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「え……ちぃ先輩たちって、喧嘩することなんてあるんですか?」
僕にとって、二人は完璧なカップルそのものだったから。
「そりゃするよー。てか、しょっちゅう? 基本的に好きなものが違いすぎるんだよね、俺たち」
ちぃ先輩はそう言うと、窓の外に視線をやった。その先には、サッカー部で練習している大海先輩の姿がある。
「でもさ、違うから面白いんじゃん。自分が見てる世界と、相手が見てる世界が違うから、一緒にいて飽きない。……まあ、たまにそれで爆発するんだけど」
いたずらっぽく笑う先輩の横顔は、すごく綺麗で、少しだけ大人に見えた。
「たまにはさ、誰かのためじゃなくて、自分のために何か撮ってみたら? 気分転換に、いつも行かないような場所に行ってみるとかさ。いつもの景色も、違う場所から見たら、全然違う色に見えたりするもんよ」
そう言って、ちぃ先輩は僕の背中をぽん、と軽く叩いた。
その言葉に、少しだけ心が軽くなった気がした。
週末、僕はじいちゃんのカメラを首から下げて、あてもなく街を歩いていた。レンズを覗けば、何か変わるかもしれない。そんな、ほとんど祈りに近い気持ちで。
駅前の、いつもは素通りするだけの雑貨屋が並ぶ通り。色とりどりの商品が並ぶショーウィンドウをぼんやり眺めていると、ふと、人の輪から少し外れた場所に、とんでもなく可愛い女の子がいるのが目に入った。
ふわふわのスカート、レースのついたブラウス。僕の知らない世界の、お人形さんみたいだ。
でも、その子の周りには、大学生くらいの男二人がしつこく絡んでいる。どう見ても、嫌がっているのに。
うわ、最悪だ。
そう思ったけど、僕にできることなんて何もない。見て見ぬふりをして、通り過ぎるのが正解だ。分かってる。分かっているのに、なぜか足がその場に縫い付けられたみたいに動かなかった。
もう少しだけ、ほんの少しだけ近づいてみる。
その子の顔が見えた瞬間、僕の心臓は、どくん、と大きく跳ねて、思考が完全に停止した。
「……え?」
嘘でしょ。
その、完璧なメイクが施された、非の打ち所がないくらい可愛い顔。
見間違えるはずがない。
「……歩、くん?」
写真部に嵐のように現れた、あざと可愛い後輩、小鳥遊 歩。
彼が、そこにいた。信じられないくらい完璧な、女の子の姿で。
「ねー、この後ヒマでしょ? 俺らと遊ぼうよ」
「ちょっとだけ! いいじゃん!」
男たちの声が、だんだん大きくなる。歩くんは困ったように眉を下げて、僕の方を一瞬だけ、ほんの一瞬だけ見たような気がした。その瞳は、助けを求めているようにも、面白がっているようにも見えて……。
どうしよう。
僕が、何か、しなくちゃ。
でも、僕なんかが間に入って、どうにかなるんだろうか。
僕が何もできずに固まっていると、歩くんはふぅ、と一つ小さな溜息をついた。そして、次の瞬間。
さっきまでの困った顔が嘘みたいに、完璧な「ぶりっ子スマイル」を男たちに向けた。
「えー、でもぉ、あゆ、これから好きぴとデートなんでぇ♡」
その声の甘さに、僕の背筋がぞわっとする。
そして、その言葉の意味を理解する前に、歩くんの細い指が、まっすぐに僕の方を指差した。
「あ、いた! とーもくんっ♡」
教室では隣の席のはずなのに、そこには地球と月くらいの、絶望的な距離がある。月曜日の朝、教室に入ると、翔琉はもう席に座っていた。いつもみたいに「よっ」て片手を上げるでもなく、ただ窓の外を眺めている。その背中が、やけに大きく見えた。
「……翔琉、あのさ」
僕が声をかけようとした瞬間、翔琉の周りにクラスの友達がどっと集まってきた。「カケル、昨日ゲーセンいなかったじゃん!」なんて騒がしい声に、僕の声はかき消される。翔琉は「あー、ちょっとな」なんて言いながら、いつもの“陽キャスマイル”を浮かべて、僕の方なんて一度も見なかった。
昼休みも、翔琉はすぐに席を立って、友達の輪の中へ消えていく。僕は何度か、その輪に近づこうとした。でも、僕に気づいた翔琉は、ふいっと顔を背けて別のやつと話し始めたり、タイミング悪く誰かに呼ばれて廊下に出て行ってしまったり。まるで、僕だけを避けるように。
そんなことが数日続いて、僕の心はすっかりささくれていた。話しかけるタイミングも、謝るきっかけも見つけられないまま、僕たちの“カップル垢”の更新は、ぴたりと止まっていた。
金曜日の放課後、僕は一人で写真部の部室にいた。翔琉は今日も来ない。重たい心をどうにかしたくて、僕はじいちゃんのカメラを構えた。でも、ファインダーを覗いても、世界はただの灰色にしか見えない。
「……だめだな」
ため息をついてカメラを下ろす。いつもそうだ。じいちゃんのカメラを手にしても、僕が本当に撮りたいものは、いつだってファインダーの向こう側にはない。
すると、いつの間にか、ちぃ先輩が僕の隣に立っていた。
「あれ、今日もトモくん一人?」
「……ちぃ先輩」
「ま、一人になりたい気持ちは分かるけどね。俺も大海と喧嘩した時とか、よく一人で海見てるし」
猫みたいに気まぐれな笑顔で、先輩はあっけらかんと言う。その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「え……ちぃ先輩たちって、喧嘩することなんてあるんですか?」
僕にとって、二人は完璧なカップルそのものだったから。
「そりゃするよー。てか、しょっちゅう? 基本的に好きなものが違いすぎるんだよね、俺たち」
ちぃ先輩はそう言うと、窓の外に視線をやった。その先には、サッカー部で練習している大海先輩の姿がある。
「でもさ、違うから面白いんじゃん。自分が見てる世界と、相手が見てる世界が違うから、一緒にいて飽きない。……まあ、たまにそれで爆発するんだけど」
いたずらっぽく笑う先輩の横顔は、すごく綺麗で、少しだけ大人に見えた。
「たまにはさ、誰かのためじゃなくて、自分のために何か撮ってみたら? 気分転換に、いつも行かないような場所に行ってみるとかさ。いつもの景色も、違う場所から見たら、全然違う色に見えたりするもんよ」
そう言って、ちぃ先輩は僕の背中をぽん、と軽く叩いた。
その言葉に、少しだけ心が軽くなった気がした。
週末、僕はじいちゃんのカメラを首から下げて、あてもなく街を歩いていた。レンズを覗けば、何か変わるかもしれない。そんな、ほとんど祈りに近い気持ちで。
駅前の、いつもは素通りするだけの雑貨屋が並ぶ通り。色とりどりの商品が並ぶショーウィンドウをぼんやり眺めていると、ふと、人の輪から少し外れた場所に、とんでもなく可愛い女の子がいるのが目に入った。
ふわふわのスカート、レースのついたブラウス。僕の知らない世界の、お人形さんみたいだ。
でも、その子の周りには、大学生くらいの男二人がしつこく絡んでいる。どう見ても、嫌がっているのに。
うわ、最悪だ。
そう思ったけど、僕にできることなんて何もない。見て見ぬふりをして、通り過ぎるのが正解だ。分かってる。分かっているのに、なぜか足がその場に縫い付けられたみたいに動かなかった。
もう少しだけ、ほんの少しだけ近づいてみる。
その子の顔が見えた瞬間、僕の心臓は、どくん、と大きく跳ねて、思考が完全に停止した。
「……え?」
嘘でしょ。
その、完璧なメイクが施された、非の打ち所がないくらい可愛い顔。
見間違えるはずがない。
「……歩、くん?」
写真部に嵐のように現れた、あざと可愛い後輩、小鳥遊 歩。
彼が、そこにいた。信じられないくらい完璧な、女の子の姿で。
「ねー、この後ヒマでしょ? 俺らと遊ぼうよ」
「ちょっとだけ! いいじゃん!」
男たちの声が、だんだん大きくなる。歩くんは困ったように眉を下げて、僕の方を一瞬だけ、ほんの一瞬だけ見たような気がした。その瞳は、助けを求めているようにも、面白がっているようにも見えて……。
どうしよう。
僕が、何か、しなくちゃ。
でも、僕なんかが間に入って、どうにかなるんだろうか。
僕が何もできずに固まっていると、歩くんはふぅ、と一つ小さな溜息をついた。そして、次の瞬間。
さっきまでの困った顔が嘘みたいに、完璧な「ぶりっ子スマイル」を男たちに向けた。
「えー、でもぉ、あゆ、これから好きぴとデートなんでぇ♡」
その声の甘さに、僕の背筋がぞわっとする。
そして、その言葉の意味を理解する前に、歩くんの細い指が、まっすぐに僕の方を指差した。
「あ、いた! とーもくんっ♡」
