一瞬、時が止まった。
 すぐ近くで聞こえていたはずの、先輩たちの楽しそうな話し声も、すべてが遠くなる。

 カップル垢? 僕と、翔琉が?

 頭の中で、翔琉の言葉が何度も木霊する。それは、あまりにも残酷で、ずっと隠してきた柔らかい心の部分を素手で鷲掴みにされるような、とんでもない提案だった。

 だって、僕は、ずっと――。

 「いや、絶対バズるって! 俺には見える、未来が!」

 僕の混乱なんてお構いなしに、翔琉は一人で興奮してぶんぶんと腕を振り回している。その瞳は、新しいオモチャを見つけた子供みたいに、無邪気にキラキラと輝いていた。

 「考えてみろよ、トモ。先輩たちのアカウントがなんであんなに人気あるか分かるか? それはな、“尊い”からだよ! 男同士のカップルっていう希少価値! そこに“アオハル”っていう最強の調味料が加わってんだ! 俺らもその波に乗るしかねえ!」

 「……でも、僕たちはカップルじゃないし」

 やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほどか細くて、情けなかった。

 そうだ、僕たちはただの幼馴染。それ以上でも、それ以下でもない。なのに、そんな残酷な“ごっこ遊び”に、どうして僕が付き合わなくちゃいけないんだ。

 「はあ? 別に本物じゃなくてもよくね? YouTuberだってビジネスカップルとかいるじゃん。お前と俺が仲良いのは事実なんだし、問題ナッシング!」

 翔琉は、僕の葛藤なんて微塵も感じていない様子で、カラッと笑い飛ばす。
 その屈託のなさが、今は何よりも鋭い刃物となって僕の胸を抉った。

 「俺が天才的なプロデュース能力で、それっぽく見せるから! トモはさ、そこにいるだけでいいんだよ。俺が撮る写真の中に、ただいてくれれば、それでいい」

 本物じゃなくても、いい。

 その言葉が、ずん、と重たい楔みたいに僕の心に打ち込まれた。そうだ、翔琉にとっては、本物である必要なんてないんだ。

 偽物でも、ヤラセでも、“ごっこ遊び”でもいい。それが、翔琉の隣にいられる口実になるのなら。その他大勢のクラスメイトじゃない、特別な距離にいられる、たった一つのチャンスになるのなら――。

 この提案を受け入れたら、僕の本当の気持ちは、SNS映えのための“ネタ”にされてしまう。それは、自分の心を殺すのと同じだ。

 でも、断ったら?

 断ったら、翔琉はきっと他の誰かを探すだろう。そして、僕たちの間には、今よりももっと厚くて冷たい壁ができてしまうかもしれない。

 それだけは、嫌だ。

 「……うん」

 気づいたら、僕は頷いていた。
 たった一言。その一言に、僕の覚悟と、諦めと、ほんの少しの惨めな期待、そのすべてを詰め込んで。

 「まじ!? よっしゃ! さすが俺の相棒!」

 翔琉は満面の笑みで僕の肩をバシ-バシ叩く。痛い。でも、それ以上に、彼の隣にいられるっていう事実が、僕の心を麻痺させていた。

 その様子を少し離れた場所から見ていた先輩たちが、ひそひそと話しているのが視界の端に入った。

 「おいおい…ちぃ、いいのか、あれ」

 大海先輩が、やれやれといった風に首を振る。

 「んふふ、面白そうじゃん。いいんじゃない?」

 ちぃ先輩は、くすくすと楽しそうに笑っていた。

 「よし、じゃあ善は急げだ! 早速一枚撮ろうぜ! プロフィール用のやつ!」 

 翔琉はそう言うと、最新型のスマホを取り出し、僕の腕をぐいっと引っ張った。

 「え、ちょ、今から?」
 「当たり前だろ! 鉄は熱いうちに打て、カップルはアオハルなうちに撮れって言うだろ!」
 「……言わないよ」

 そんな僕のツッコミは、完全にスルーされた。

 「行くぞトモ! もっと“エモい”場所、探す!」

 悪戯っぽく片目を瞑ると、僕の腕をぐいっと掴む。

 有無を言わさず引っ張られて連れてこられたのは、西日が差し込む階段の踊り場だった。オレンジ色の光が床に長い四角を描いている。

 僕たち以外誰もいなくて、しんとしていた。心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 「よし、ここで撮ろうぜ!」
 翔琉は僕を壁際に立たせると、少し離れた場所からスマホを構えた。

 「よーし、トモ、笑って! もっとこう、恋人を見るみたいな、とろけるような甘い笑顔で!」
 「……む、無理」

 無理だ。

 レンズの向こう側、翔琉の真剣な眼差しに見つめられると、全身がぎぎぎ、と音を立てて固まっていく。二人きりになったことで、さっきよりもずっと、翔琉の存在を意識してしまう。心臓はうるさいくらいにドクドク鳴っているし、顔は絶対に真っ赤になっている。笑うなんて、とんでもない。

 「えー、トモ、顔こわばりすぎ! ロボットかよ!」
 「……だって、恥ずかしい」
 「はあ? 何がだよ。俺たち、風呂だって一緒に入った仲だろ?」

 昔の話を、そんな簡単に持ち出さないでほしい。
 僕にとっては、全部が特別で、大切で、鍵のかかった宝箱にしまってあるような思い出なのに。

 「ほら、もっとこう…肩とか組んじゃう? 彼女役はトモな!」
 「……なんで僕が」
 「だってトモのが可愛いじゃん?」

 無自覚に放たれた言葉が、僕の心臓を貫く。

 分かってる。翔琉にそんな意図はない。ただの事実として、僕の方が華奢で、背が低いから言っているだけだ。
 でも、その一言で、僕の心はぐちゃぐちゃにかき乱されてしまう。

 翔琉は僕の返事も待たずに、ぐっと距離を詰めて僕の肩に腕を回した。

 「ほら、トモ、もっとこっち寄れって。んで、俺のほう見ろよ」

 近すぎる。シャンプーと、さっきの柑橘系の香水が混じった匂いが、僕の思考を麻痺させる。翔琉の体温が、制服越しにじわりと伝わってきて、心臓が今にも破裂しそうだった。

 言われるがままに翔琉の方を向く。でも、その顔を直視することなんて、到底できっこない。僕は必死に視線を逸らして、翔琉の肩越しにある壁のシミをただ見つめた。

 カシャッ。
 無情にも、スマホのシャッター音が鳴る。

 「……んー、やっぱダメだなあ。トモ、目線そっちじゃねえって。恋人同士なんだから、もっとこう…熱っぽく見つめ合う感じ!」
 「む、無理だよ……」
 「なんでだよ! 練習、練習!」

 翔琉はそう言うと、僕の顎にそっと指をかけた。そして、強制的に顔を上に向かせる。

 「ひっ……!」

 思わず、息を呑んだ。
 至近距離で、翔琉の瞳が僕を捉える。その茶色い瞳の奥に、驚きと羞恥で真っ赤になった、情けない僕の顔が映っている。
 もう、限界だった。

 「ご、ごめん、やっぱり無理……!」

 僕はパッと翔琉の腕を振り払うと、数歩後ろに飛び退いた。心臓がバクバクと暴れ回って、息が苦しい。

 「あーもう! なんでだよ!」

 翔琉は、心底もどかしそうに、わしわしと自分の髪をかき乱した。その顔には、苛立ちと失望の色が浮かんでいる。

 僕のせいだ。僕が、ちゃんとできないから。翔琉を、がっかりさせてる。
 その事実が、ずん、と重く僕の胸にのしかかった。
 結局、僕たちはそれっぽい写真を一枚も撮れないまま、時間だけが過ぎていった。

 キンコンカンコン、と部活の終わりを告げるチャイムが、僕たちの間の気まずい沈黙を破るように鳴り響いた。

 「あーもう、時間切れかよ! 今日は解散!」
 翔琉はそう言うと、やけくそみたいに荷物を鞄に詰め込み始めた。その背中から「うまくいかねえ」っていうオーラがもわもわと立ち上っている。

 僕のせいだ。僕が、もっとうまくやれたら。
 ずん、と心が重くなる。