カシャッ、と乾いたシャッター音が、放課後の静寂を心地よく切り裂く。
写真部の部室…といっても、実態は使われていない教室の片隅を間借りしているだけのもので、フィルムの現像が出来るような設備があるわけでもなく、そこまで熱心な活動をしている部員がいるわけでもない、幽霊部員だらけのゆるい部活だった。一応、とばかりに棚には歴代の部員が残したであろう古いアルバムやファイルがぎっしり詰まっていて、古紙と埃の匂いがする。
窓から差し込む西日が、空気中に舞う無数の小さな埃をキラキラと照らし出して、なんだかスノードームの中にいるみたいだ。僕、古閑燈にとって、そこは世界で一番落ち着ける場所だった。
ファインダーの向こう側、僕だけの四角い世界の中では、すべてが特別に見える。亡くなったじいちゃんの形見でもあるこのカメラは、僕にとって世界と繋がるための唯一の窓だ。現実の世界では、人の気持ちなんてちっとも分からないし、自分の気持ちですら見失いそうになる。だけど、この四角く切り取られた世界の中なら、ほんの少しだけ、そこに写る人の本当の感情が見えるような気がするんだ。だから僕は、今日もレンズを覗く。
今、僕のレンズが捉えているのは、写真部部長の朝比奈大海先輩と、その恋人である月島千帆先輩――通称ちぃ先輩の後ろ姿だ。
「ちぃ、もうちょい右。そう、光が髪に透ける感じ、めっちゃいい」
「んー? たいが、まだー? 退屈で死んじゃうー」
大海先輩が構えるのは、バイト代を貯めて買ったというデジタルカメラだ。そのレンズの先で、ちぃ先輩が猫みたいにくすぐったそうな声をあげる。その声色だけで、先輩が心から退屈しているわけではないことが、手に取るように分かった。
案の定、大海先輩は「はいはい」なんて言いながら苦笑してカメラを下ろすと、ちぃ先輩のふわふわなミルクティー色の髪に、慈しむようにそっと触れた。指先で毛束をすくい上げ、くるくると弄ぶ。その仕草があまりにも自然で、優しくて、僕の心臓がきゅっと小さく音を立てた。
ちぃ先輩は「んふふ」と綻ぶように笑うと、大海先輩の腕にこてん、と頭を預ける。西日が二人の輪郭を淡い金色に縁取り、まるで一枚の映画のポスターみたいだった。
うわ、近い。
どきん、と心臓が鳴った。僕が撮っているわけでもないのに。
二人は、部内公認どころか、校内でも有名なカップルだ。 『#たいがとちぃの江ノ島DIARY』 そう名付けられた二人のSNSアカウントは、フォロワー数万人。大海先輩が撮る何気ない江の島の風景写真に、ちぃ先輩がイラストを描き加えた投稿は、どれも“エモい”って言葉がゲシュタルト崩壊するくらい評判で、僕もこっそりフォローしている一人だ。
ファインダー越しの二人は、ありふれた放課後の一コマのはずなのに、どうしようもなく甘い空気を纏っている。触れそうで触れない指先、お互いだけにしか向けない柔らかな眼差し。そのすべてが、僕の知らない「アオハル」っていうやつを体現しているみたいだった。
僕には、縁のない世界。
もし、青春ができるならしてみたい。そう思うことはある。でも、きっと僕には無理だ。だって、僕がその「アオハル」を過ごしたい相手は、もうずっと昔から決まっているから。
そう思って、そっとシャッターから指を離した、その時だった。
「いいなあ、青春……」
背後から聞こえた、熱のこもった溜息。
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。振り向かなくても分かる。この声の主は、世界で一人しかいない。
「よっ、トモ。まーた世界の終わりみたいな顔してんなー」
そこに立っていたのは、太陽をそのまま人間にしたみたいな男、橘翔琉。
明るい茶髪、少し着崩した制服、人懐っこい八重歯。クラスの中心で、いつも誰かに囲まれて笑っている、僕とは正反対の――幼馴染。
「……別に、そんな顔してない」
「そーお? ま、写真撮ってる時のトモはいつもそんな感じよなー」
カラッと笑う翔琉が隣に並ぶ。ふと、その耳で光るシルバーのピアスに目が留まった。あんなの、つけてたっけ。いつからだろう。僕の知らない間に、翔琉の世界はどんどん色鮮やかになっていく。誰の影響なんだろう。クラスの誰か? それとも、僕の知らない女の子とか…? たった一つの小さなアクセサリーが、僕たちの間に透明な壁を作ったみたいで、たまらなく寂しかった。
翔琉は、僕がさっきまで見ていた先輩たちにちらりと視線をやると、面白そうに口の端を上げた。
「たいが先輩たち、今日もやってんなあ」
軽口を叩きながら、慣れた手つきでスマホを取り出す。そして、僕に見せつけるように、とあるSNSのアカウントを開いた。
翔琉は、僕がさっきまで見ていた先輩たちに視線をやり、スマホを取り出した。慣れた手つきで先輩たちのアカウントを開き、それを見せつけてくる。
「見てみろよトモ。『お二人は私の生きる希望です!』だって。やばくね? ただ江ノ電の近くで手繋いでる写真だぞ? なのにこの“いいね”の数! 俺らなんて、男子高校生っていう最強のブランドを手にしながら、毎日友達とダベって、コンビニでアイス食って、帰ってゲームする……それだけ。俺の高校生活、このままでいいのかな……。このままじゃ、“真の青春”を味わえない卒業しちまう……」
クラスの人気者で、いつもスマホをいじって「エモい」瞬間を探している翔琉。そんな彼が、ふと見せた素の表情。作られた笑顔の裏にある、ほんの少しの寂しさを、僕は知っている。昔から、ずっと隣で見てきたから。 本当は、僕だって君と一緒にいるだけで、毎日が特別なのに。そんなこと、言えるはずもない。
「よう、翔琉。また邪魔しに来たのか」
僕たちの会話に気づいた大海先輩が、呆れたように笑う。
「かけるーん、やっほー」
ちぃ先輩がひらひらと手を振った。
翔琉は、僕の肩にぐいっと腕を回しながら、ニッと八重歯を見せて笑う。
「ちわーっす。先輩たちのアオハルっぷりを見に来ました!今日もラブラブっすね」
「うるせーな。お前らこそ、いっつも一緒じゃん」
大海先輩の言葉に、ちぃ先輩が「ねー。かけるんとトモくんもカップルみたい」と追い打ちをかけるように茶化した。
「そ…それだ!」
ちぃ先輩の何気ない一言に、翔琉が雷に打たれたみたいに叫んだ。僕の心臓が、どくん、と大きく跳ねる。
さっきまでスマホの画面を眺めて羨ましがっていた瞳が、今はとんでもない熱量でキラキラと輝き、まっすぐに僕を射抜く。
「なあトモ!」
「……なに?」
「俺たちも、“カップル垢”やんねえ?」
写真部の部室…といっても、実態は使われていない教室の片隅を間借りしているだけのもので、フィルムの現像が出来るような設備があるわけでもなく、そこまで熱心な活動をしている部員がいるわけでもない、幽霊部員だらけのゆるい部活だった。一応、とばかりに棚には歴代の部員が残したであろう古いアルバムやファイルがぎっしり詰まっていて、古紙と埃の匂いがする。
窓から差し込む西日が、空気中に舞う無数の小さな埃をキラキラと照らし出して、なんだかスノードームの中にいるみたいだ。僕、古閑燈にとって、そこは世界で一番落ち着ける場所だった。
ファインダーの向こう側、僕だけの四角い世界の中では、すべてが特別に見える。亡くなったじいちゃんの形見でもあるこのカメラは、僕にとって世界と繋がるための唯一の窓だ。現実の世界では、人の気持ちなんてちっとも分からないし、自分の気持ちですら見失いそうになる。だけど、この四角く切り取られた世界の中なら、ほんの少しだけ、そこに写る人の本当の感情が見えるような気がするんだ。だから僕は、今日もレンズを覗く。
今、僕のレンズが捉えているのは、写真部部長の朝比奈大海先輩と、その恋人である月島千帆先輩――通称ちぃ先輩の後ろ姿だ。
「ちぃ、もうちょい右。そう、光が髪に透ける感じ、めっちゃいい」
「んー? たいが、まだー? 退屈で死んじゃうー」
大海先輩が構えるのは、バイト代を貯めて買ったというデジタルカメラだ。そのレンズの先で、ちぃ先輩が猫みたいにくすぐったそうな声をあげる。その声色だけで、先輩が心から退屈しているわけではないことが、手に取るように分かった。
案の定、大海先輩は「はいはい」なんて言いながら苦笑してカメラを下ろすと、ちぃ先輩のふわふわなミルクティー色の髪に、慈しむようにそっと触れた。指先で毛束をすくい上げ、くるくると弄ぶ。その仕草があまりにも自然で、優しくて、僕の心臓がきゅっと小さく音を立てた。
ちぃ先輩は「んふふ」と綻ぶように笑うと、大海先輩の腕にこてん、と頭を預ける。西日が二人の輪郭を淡い金色に縁取り、まるで一枚の映画のポスターみたいだった。
うわ、近い。
どきん、と心臓が鳴った。僕が撮っているわけでもないのに。
二人は、部内公認どころか、校内でも有名なカップルだ。 『#たいがとちぃの江ノ島DIARY』 そう名付けられた二人のSNSアカウントは、フォロワー数万人。大海先輩が撮る何気ない江の島の風景写真に、ちぃ先輩がイラストを描き加えた投稿は、どれも“エモい”って言葉がゲシュタルト崩壊するくらい評判で、僕もこっそりフォローしている一人だ。
ファインダー越しの二人は、ありふれた放課後の一コマのはずなのに、どうしようもなく甘い空気を纏っている。触れそうで触れない指先、お互いだけにしか向けない柔らかな眼差し。そのすべてが、僕の知らない「アオハル」っていうやつを体現しているみたいだった。
僕には、縁のない世界。
もし、青春ができるならしてみたい。そう思うことはある。でも、きっと僕には無理だ。だって、僕がその「アオハル」を過ごしたい相手は、もうずっと昔から決まっているから。
そう思って、そっとシャッターから指を離した、その時だった。
「いいなあ、青春……」
背後から聞こえた、熱のこもった溜息。
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。振り向かなくても分かる。この声の主は、世界で一人しかいない。
「よっ、トモ。まーた世界の終わりみたいな顔してんなー」
そこに立っていたのは、太陽をそのまま人間にしたみたいな男、橘翔琉。
明るい茶髪、少し着崩した制服、人懐っこい八重歯。クラスの中心で、いつも誰かに囲まれて笑っている、僕とは正反対の――幼馴染。
「……別に、そんな顔してない」
「そーお? ま、写真撮ってる時のトモはいつもそんな感じよなー」
カラッと笑う翔琉が隣に並ぶ。ふと、その耳で光るシルバーのピアスに目が留まった。あんなの、つけてたっけ。いつからだろう。僕の知らない間に、翔琉の世界はどんどん色鮮やかになっていく。誰の影響なんだろう。クラスの誰か? それとも、僕の知らない女の子とか…? たった一つの小さなアクセサリーが、僕たちの間に透明な壁を作ったみたいで、たまらなく寂しかった。
翔琉は、僕がさっきまで見ていた先輩たちにちらりと視線をやると、面白そうに口の端を上げた。
「たいが先輩たち、今日もやってんなあ」
軽口を叩きながら、慣れた手つきでスマホを取り出す。そして、僕に見せつけるように、とあるSNSのアカウントを開いた。
翔琉は、僕がさっきまで見ていた先輩たちに視線をやり、スマホを取り出した。慣れた手つきで先輩たちのアカウントを開き、それを見せつけてくる。
「見てみろよトモ。『お二人は私の生きる希望です!』だって。やばくね? ただ江ノ電の近くで手繋いでる写真だぞ? なのにこの“いいね”の数! 俺らなんて、男子高校生っていう最強のブランドを手にしながら、毎日友達とダベって、コンビニでアイス食って、帰ってゲームする……それだけ。俺の高校生活、このままでいいのかな……。このままじゃ、“真の青春”を味わえない卒業しちまう……」
クラスの人気者で、いつもスマホをいじって「エモい」瞬間を探している翔琉。そんな彼が、ふと見せた素の表情。作られた笑顔の裏にある、ほんの少しの寂しさを、僕は知っている。昔から、ずっと隣で見てきたから。 本当は、僕だって君と一緒にいるだけで、毎日が特別なのに。そんなこと、言えるはずもない。
「よう、翔琉。また邪魔しに来たのか」
僕たちの会話に気づいた大海先輩が、呆れたように笑う。
「かけるーん、やっほー」
ちぃ先輩がひらひらと手を振った。
翔琉は、僕の肩にぐいっと腕を回しながら、ニッと八重歯を見せて笑う。
「ちわーっす。先輩たちのアオハルっぷりを見に来ました!今日もラブラブっすね」
「うるせーな。お前らこそ、いっつも一緒じゃん」
大海先輩の言葉に、ちぃ先輩が「ねー。かけるんとトモくんもカップルみたい」と追い打ちをかけるように茶化した。
「そ…それだ!」
ちぃ先輩の何気ない一言に、翔琉が雷に打たれたみたいに叫んだ。僕の心臓が、どくん、と大きく跳ねる。
さっきまでスマホの画面を眺めて羨ましがっていた瞳が、今はとんでもない熱量でキラキラと輝き、まっすぐに僕を射抜く。
「なあトモ!」
「……なに?」
「俺たちも、“カップル垢”やんねえ?」
