玄関先で思わず抱き締めた佐野は、ここまで必死に維持してきた何かを手放したかのように黙ったまま、俺の腕の中で佇んでいる。
 その肩を一度離し、俺は彼の瞳を覗き込んだ。
「部屋行って話そう。上がってもいいか?」
 彼は俺を見つめ返し、浅く微笑んで頷いた。

 久しぶりに入った彼の部屋は、雑然と散らかっていた。
 今日俺が来なければ、美園さんがここにくる予定だったのだと思い出す。
 ここまでの佐野の苦しみが想像され、また胸がぎりぎりと痛む。

「——美園さんと話して、約束を全部解除してもらったって……一体何がどうなったんだ……?」
 佐野が、投げ出されたクッションを徐に拾ってローテーブルに座る。俺も足元のクッションを元の位置に戻しながら向かい側に座った。
「昨日の夜、俺がLINE送ったやつ、読んだか?」
「……ああ、そうだ。もう読んでもいいんだった」
 そう呟きながら、少しほぐれた表情でベッドにあった自分のスマホに手を伸ばし、佐野は俺のメッセージを静かに読む。
「……そっか……妹さんが、知らせてくれたのか」
「うん。で、どうにかしてお前と話さなきゃと思ってここまで自転車飛ばしてきた。そしたら、家の前で美園さんに会ったんだ。
 彼女の顔見た瞬間、佐野に聞くより美園さんに直接聞いたほうが絶対いいと思った。だからそのまま彼女に話し合いを持ちかけた」
「話し合いって……どこで、どんなふうに?……彼女、バックにヤバいのついてただろ。俺たちの計画のことでブチ切れてたはずだし。危ない目に遭ったりしなかったのか?」
「はは、ヤバさが突き抜けててびっくりした。いかがわしい系の店連れてかれて、背後にでかい男が二人いてニヤついてた」
「えっ……」
 佐野の顔が一気に青ざめ、凄まじい形相に強張った。
「まっ、まさか……約束解除する代わりに、お前がなんかされたとか……!!?」
「いや、そんなヤバい展開にはなってないって。かかってくるなら護身術を使う、って伝えたんだ。そしたら青ざめてドン引きしてた」
「……は? 護身術??」
「うん。警察官の父親から教え込まれてたんだよな。平和を守るには強くなきゃダメだ!って感じで。ほんとその通りだった。
 そのこと知って、美園さんもビビってた。そんなこんなで、彼女に約束解除を取り付けてきた」

「……お父さん、警察官か……
 そっか……」
 佐野は、ようやく表情の強張りを緩め、どこか弱々しく微笑んだ。

「お前に、助けてもらったんだな、俺。
 ありがとな」
「……いや。
 今まで、俺は何一つ、知りもしないで……」

 沈み込んだ空気を破るように、佐野は小さく自嘲する。
「はは……しかしさ、ここまでメチャクチャになるなんてな……。
 夏前には、このミッション何がなんでもやり遂げてやるぜ!なんて調子こいてたのが、こんなみっともねー結末とか。我ながら寒いわ。
 コンプリートしたらお前と付き合える条件付きなんて、人生一度っきりのチャンスだったのに」

 その言葉に、俺の心臓が思わぬ強さでどくんと打った。

「——……な、なんだよ、人生一度って……大袈裟だろ」
「はあ? 大袈裟? どこが大袈裟だよ舐めてんのか?」
 佐野は何だか急に変なテンションになってギロっと俺を睨む。
「俺にとっては絶対ものにしたいビッグチャンスだったんだ!! ぜってえ希望のない相手が恋人になってくれるかもなんて、千載一遇でしかないじゃんか。
 ……まあお前からしたら、ミッション達成ならずでヤバい契約から解放されてほっとしてるんだろうけどな」

 佐野は、再びふっと小さく笑い、どこかさっぱりしたように顔を上げて俺を見つめた。
「——まあ、仕方ねえな。こうなっちゃったんだからさ」

「……」

「これまでいろいろあったけど、マジで楽しかった。
 夏の初めにお前と過ごせた時間、絶対に忘れない」


「——……」

 気づけば、俺の膝の上で、拳がこれでもかと固くなる。
 奥歯がぎりぎりと音を立てそうなのを必死に飲み込み、俺は何とか返す言葉を探す。

「俺も……
 俺も……楽しかった」

「うん」

「楽しかったし……苦しかった」

「…………」

「美園さんとお前が祭りでいい感じにしてるの見てアホみたいにザワザワしたし、お前にデリバリー断られて無茶苦茶に腹が立ったし、昨夜はお前が心配で心臓が暴走して死ぬかと思った」

「……葉山?」
 佐野が、不思議そうな顔で俺を見る。けれど、ここまできたらもう止められない。

「さっき、お前が俺を守るために美園さんの完璧な彼氏をやり続けてくれていたんだと知って……この先何十年も、歳食って爺さんになって彼女と死別するまで、それをやり遂げるつもりだったのか? は? 嘘だろ?って呆れた。
 こんだけ散々俺を振り回しといて……こんなにもコンプリートしといて……ここにきて秒であっさり引き下がるとか……は!? ふざけんな!!って言いたいのはこっちだから!!!」

 テーブルにガタリと両手をつき、俺は向かい側の佐野へ身を乗り出す。
「俺の中からお前がいなくなったら、俺はまるで何かの抜け殻みたいにぐずぐずになっちゃうんだってのを、俺はつい昨日まで嫌ってほど味わわされた。
 だ……だから……っ」

 顔がこれでもかというほど熱くなる。
 で……ここから、俺は一体何て言うつもりなんだ……?

 その時、向かい側から佐野が静かに身を乗り出した。

「つまり……
 お前が最初に俺を学校裏に呼び出した日の、俺の告白——OKしてくれるってこと?」

 そうか——うん、そうだ。
 いっそあの日まで、逆戻りしてしまえばいいんだ。
 卒業まで待つからとこいつが言って、俺が頭を抱えた、あの日の答え。
 真っ直ぐに俺を見つめる彼の眼差しに、俺は、はっきりと頷いた。

 テーブルの上に身を乗り出し合ったせいで睨めっこモードになった佐野の顔が、いきなりふにゃりと歪んだ。
「……これ、まじか?
 俺、死んだとかじゃねえよな?」
「なんでそうなるんだよ」
 ふっと思わず小さく笑った俺の顎を、佐野の指がぐっと捉えた。

「——夢じゃないって、証明してくれ」

 滴るように熱を含んだ眼差しに、そっと引き寄せられる。
 今度こそ、逃げられない。 


 マジか。
 あんな無茶苦茶な告白の答えが、まさかの"Yes"だったなんて。

 まさかの、なんかじゃない。
 正真正銘の"Yes"だったんだ。

 唇が離れ、間近で見つめ合った瞬間、あのエンドレスサークルを仕掛けた悪戯好きな女神がニッと微笑んだ気がした。



                    〈了〉