その週の水曜。
 月曜にとうとう佐野にOKをもらった美園さんは、今日も生き生きと眩しい笑みで登校した。まさに瀕死状態から水を得て生き返った花のようだ。以前にもまして姫オーラが全開である。
「怜、おはよー。いや今朝も眩しいわ」
「幸せを隠さないからこの子は。ゲンキンだねえ全く」
「えーうそ、そんな出ちゃってる?」
「あーもう出まくっててまずいレベルだよそれ」
「ねーそういえばさ、駅の近くにパンケーキ美味しいカフェ最近できたじゃん? 今日あそこ行ってみない?」
「あ、ごめんー。佐野くんが今日部活オフの日だから♡」
「へーへー。じゃあたしらで行こっか」

 弾けるようなその声音だけで、キラキラとした空気が溢れてくる。恋ってすげえな……。
 と独りごちた俺の手元のスマホがLINE着信を知らせた。画面を見ると佐野だ。
『朝練終わった。もー帰りたいわ』
 クラス内ではあまり絡まないことにしよう、という取り決めをした。美園さんに変に疑われるような行動は極力控えるべきだし、佐野と俺の距離が急に近くなるのは誰が見ても違和感満点だ。ということで、これは直に会話できない分のメッセージらしい。佐野、筆マメだ。
『何言ってんだよ、美園さんウキウキでお待ちかねだから』
『…………はあー』
『あんな可愛い子が彼女でため息とかバチ当たるって』
『は? 1ミリも俺の好みじゃねーんだから仕方ねえだろ!』
 そんなやり取りを終えてから1分ほどでガラッと佐野が教室に入ってきた。今の会話などなかったようないつものスカし顔で。
「佐野くん、おはよ」
 すかさず美園さんが恥じらい気味の笑みで走り寄る。可愛い。可愛すぎる。
「ん、はよ」
 彼女へ向けた佐野のスマイルが……クソほどキラキラ王子だ。さっきのため息はどこ行ったよ? 俳優とか目指したらいいんじゃないかマジで。
「今日、部活オフだよね?」
「うん」
 ぐあー。一言ずつの会話がなんでこんなに甘いんだ。クラスの奴らもこの王子&姫の圧倒的お似合いカップルには誰一人文句を言わず静かに見守るのみだ。

 ——この甘い空気が偽りだとは、誰一人気づかない。
 それを知ってるのは、彼と俺だけだ。

 佐野の曇りない笑みを見つめながら、気づけば俺はそんな気持ちになっていた。


 三時間目、体育。
 女子と別々の授業になると男子どもはしょうもない会話で盛り上がる。
「佐野ー、クラスの姫を彼女にした気分はどうよ」
「マジムカつくわ、とっとと別れろ」
「信じらんねえ……美園さんが佐野となんて超ショック……俺めっちゃ狙ってたのに……」
 周囲のそんな言葉に、佐野はわかりやすい爽やかスマイルで答える。
「まあ落ち着け。とりあえず彼女は俺が幸せにしてやる」
「ぐあーー殺す!!」
「小林、とりあえずお前に勝ち目はねえから。佐野とお前が互角なのは身体能力くらいなんだし」
「があーーますます殺す!!!」
「ほらお前ら、授業始まるから静かにしろー。前回から引き続きバスケの試合やるぞー、テキトーにチーム作れ」
 体育教官がそう声がけをした。佐野は何気に移動すると俺の横に立つ。
「一緒のチームでやんぞ」
「……え?」
 そう呟く声に、俺は隣の佐野の顔を見上げた。
「女子のいない時間、めっちゃ貴重だろ」
 むすっと無愛想な顔で、佐野はチラリと俺を見た。一瞬目が合うと、ふいと横を向く。
「お前、試合中いっつも周囲のスピードから弾き出されてんじゃんか。あぶなっかしーんだよ」
「……」

 うぐぐ……
 俺の情けない様子、思い切り見られてた……
 いやまあそれは仕方ない。ほんとに情けないんだから。
 でも、それを佐野は……

 不意に、胸の奥によくわからない感触と味のものが微かに湧き出す。
 変なくすぐったさと……甘さ? それとも苦さ……??
 なぞの感覚にしきりに首を傾げる俺を見て、佐野がおかしそうにクスッと笑った。

 ピーッと、教官の笛が鳴った。
「よーし、4チームに分かれたかー? じゃまず小林のチームと佐野のチームで試合すっか。小林チームは黄色、佐野チームは赤のビブスつけろー」
 バラバラと、黄と赤のビブスをつけた五人ずつがコートに出た。
 小林と佐野がコート中央に立つ。教官がバスケットボールを投げ上げ、二人がボールを目掛け勢いよくジャンプした。
 ボールを取ったのは小林のチームだ。長身のひとりが歯切れ良くドリブルしながらコートを走る。味方メンバーのディフェンスも容易に手が出ない。
 そのままランニングシュートを決められそうになるが、ボールはゴールのリングに弾かれ、すかさず味方チームの一人が上手くリバウンドを取った。相手ゴールへ向かうべく敵の間を掻いくぐろうとするが阻まれる。囲んだ敵メンバーの体の隙間から、いきなりボールが俺に向かって勢いよく飛んできた。オロオロと立っていた俺にこの急展開はきつい。肝心なシーンで手も足もガチガチに硬直するという最悪の癖が出た。
 その瞬間、切るような風が俺の前を掠めた。佐野だ。
 彼は俺の代わりにボールを受けると、鮮やかなドリブルで走り出す。
「葉山、スリーポイントライン行け!」
 佐野の声が俺に響く。は!? 聞き返す間もなく言われるままに俺はコートを全力で走った。スリーポイントとは、コートからだいぶ離れた地点から打つシュートだ。練習中、俺が遠距離からのシュートを何度か決めた様子を、佐野は見ていたようだ。スリーポイントラインまで走った俺に、佐野からボールがスパッと見事にパスされる。
「気楽に、力抜いてけ!」
 気楽に。力を抜いて。
 俺が試合中完全に忘れてしまうことを、佐野はたった一瞬で思い出させた。
 ふうっと一つ息をして、ゴールをまっすぐ見る。そのまま軽くジャンプし、ふわりとボールを放った。
 ぽすりと、軽い音がした。
 ボールは、バスケットゴールのど真ん中に落ちていった。

 わっと、歓声が上がる。
「葉山、すげえな!!?」
「スリーポイントとかまじ!!?」
 はっと引き戻された俺に、佐野が駆け寄った。
「やるじゃん」
 俺の肩をぐっと引き寄せ、ニッと大きく笑った佐野の笑顔が、瞼にこれでもかと焼きついた。

 試合の結果は、小林チームに負けた。バスケ部員が二人も混じっていちゃ簡単には勝てない。
「ウェーイ。ざまみろ佐野〜〜」
 小林がアホっぽい動きで佐野を馬鹿にしている。佐野はそれを見てうひゃひゃっと笑った。
 無造作に汗を拭いながら赤いビブスを取るその逆三角形の背中を、俺はただ黙って見つめた。







 学校から帰宅し、夕食を済ませた夜9時半。
 机でスマホを眺めていた俺の自室に雑なノックの音が響く。
「にーちゃんはいるよー」
 そんな声と同時にガチャっと雑にドアが開いた。
「おい花梨《かりん》、返事待ってから入れっていつもいってんじゃんか」
「入る前に入るって言ったんだしいーじゃん」
 花梨はだるそうにそう言うと部屋のクッションにどさりと座る。まさに中学2年ど真ん中といった言動だ。花梨は持っていたマグカップをローテーブルに置いて頬杖をつくと前置きもなく切り出した。
「あのさ。にいちゃん、佐野 圭吾《けいご》って人知ってる?」
「——は!?」
 俺は思わず手にしていたスマホをガタッと取り落とす。スマホの角が足の親指を直撃して思わずうめいた。
「ぐおっ」 
「何動揺してんの。いつも面白いね」
「動揺とかしてねえし面白くねえし!……ってか、佐野がどうしたんだよ? 俺と同クラだけど」
「え、まじ!?」
 今度は花梨が目を見開く。
「その人、最近彼女できたとか、話聞いてない? 美園怜って一見すごい美少女」
「……お前、なんでそんなことまで知ってんだ?」
「いや、その美園の妹と仲良いんだよ、塾で知り合ったんだけどさ。彼女が自分の姉のこと見掛け倒しのメンヘラだってしょっちゅうぼやいてて相談乗ってやってんの。そのメンヘラ姉がにいちゃんと同じ高校らしくて、しかも最近めっちゃイケメンな彼氏できて騒いでるっていうから、そういうの知ってるかなあと思って」

「……」

 おい。
 今、なんつった? 
 メンヘラ?? 
 美園さんが、見掛け倒しの……?
 まさか、そんな。
「あー、えっと。もしかして美園さんの妹さんは綺麗なお姉さんに嫉妬してるのかな? それともただちょっと口が悪いだけとか? だってあの美園さんが見掛け倒しのメンヘラって……」
「いやあ。話聞いてるとマジでやばいよ、その人」
「や、やばいって……例えばどんな……」
「とにかく彼氏に対する執着と束縛が凄まじいっぽい。中学時代に付き合ってた男子が次々追い詰められ、長期欠席するケースもあったらしくて。猛烈に嫉妬深いし思い通りにならないと泣くし怒り狂うししつこく恨むし、どーにも手がつけられないんだけど顔は姫だからみんなビシッと切れない。学校の裏庭で彼氏さんがメンヘラ姉に見つからないよう隠れながらこっそり泣いてるの見たこともある……とか言ってたよ。妹としてあまりの申し訳なさに胸が痛んだって。怖いねえ」

「…………」

 ……まじか……
 まじなのか。
 いつも間近で見ている身内が語っているんだから、変な噂やデマとかじゃなく、これは多分紛れもない事実だ。
 そう言われてみれば——確かに。
 佐野に振られて以降激しく落ち込み、友達との交流さえも絶って図書室に閉じこもった美園さんの様子が脳に蘇る。
 別人のようになってしまったあの姿と今の花梨の言葉が、恐ろしいほどにぴたりと重なった。
 そのメンヘラ地獄に、佐野は思い切り飛び込んだ——つまり、そういうことか?

「……佐野、まずいぞ……」
「え、もしかして仲良しとか? そのイケメンとにいちゃんが?……容姿的にも階層的にもまず接点ゼロっぽい気がするんだけど。どういうきっかけで仲良しなわけ?」
「べっべつに仲良しとか全然そういうんじゃねーから! ま、まあちょっとだけ心配というか……」
「一応言っといてあげたほうがいいかもよ。メンヘラの網にかかったら簡単には逃げ出せない可能性大だけどねえ。またなんか面白い話あったら聞かせてー」
 花梨はニマニマそんなことを言うとバタンと部屋を出ていった。

 変に勘のいい花梨の部屋のドアが閉まる音を確認してから、スマホを手に取る。
 ……どうしよう。
 なんて知らせればいいだろう。
 はあっとため息が漏れたと同時にスマホの呼出音が鳴る。佐野だ。急いで通話ボタンを押した。
『疲れた』
 やたら重い声が耳に届く。
「……佐野、なんかあったのか? 今日美園さんと帰ったんだよな?」
『なんかさ、カフェのテーブル座ると同時に変なアプリ入れさせられた』
「……」
『互いの居場所がスマホ画面で分かる位置情報アプリ。
 ね、入れよ♡って当然のように言うから、え……って言おうとしたんだけど、「ダメ? 嫌なの? だって付き合ってるんだし、困ること全然ないでしょ? なんか都合悪いの?」ってきゅるんと微笑まれた。……ちょっと怖くね?
 ただテキトーに喋ったり何となく一緒にいるだけならフツーに可愛いし別に問題ねえんだけど……なんかヤバい匂いがすんだよな。家帰ってきてから気分的なダルさがヤバい』

 やっぱり。
 掌に滲み出す変な汗を握り込み、俺はさっきの花梨の話を切り出す。

「……佐野……実はさ、さっき妹からちょっと聞いたんだけど、美園さんってちょっと、というかかなりメンヘラタイプらしい……」
『は??』
「美園さん、彼氏に対する束縛とか嫉妬とかがだいぶすごいって……美園さんの妹とうちの妹が、同じ塾で仲いいらしいんだよ。さすがに身内情報は間違いないだろ……」

『へえ』
 思ったより軽い返事に、俺は意表を突かれる。

「佐野、大丈夫か?」
『別に大丈夫だろ。
 うまくやり切れば、お前と付き合えんだし。
 まあ幸せは簡単に手に入んねーってことでいいんじゃね?』

 かくっと、身体のどこかから力が抜けた。
 代わりに、ふっと変な笑いが出る。

「…………マジでどんだけポジティブだよ」
『お前が後ろ向き過ぎんだよ』


 大丈夫……なんだろう。きっと。
 こいつがこう言うんだから。

 電話越しに、俺たちは同時に小さく笑い合った。