今日も、俺は斜め前の席でノートを取る華奢な肩を見つめる。
 その肩から、艶やかな栗色の髪がさらりと流れ落ちた。
 髪を耳にかけ直す、細い指。シャンプーの甘い香りが、ほんの微かに俺の鼻に届いた。
 うぐぐぐうっ。テンション上昇が抑えきれない。握っていたシャーペンの先がノートの上でポキリと折れた。
 高校入学から2ヶ月が過ぎた昨日、初めての席替えをした。いきなりこんな幸運があるだろうか、入学初日に一目で心を奪われた彼女——美園 怜とこんな近い席になるなんて!?
 
 と、コロコロと不意に斜め前から白いものが俺の足元へと転がり落ちた。
 消しゴムだ。
 マジか。
 紛れもなく、彼女の消しゴムだ……!
 咄嗟に身を屈めて拾い上げた。
 消しゴムの行方を追って斜め後ろを向いた彼女は、俺と目が合うと少し恥ずかしげに微笑んだ。

「ごめん、落としちゃった」
「……いえ」
 あーー、可愛くて死ぬ。
 震える指で、消しゴムを差し出す。
 細く白く、先がほんのりピンク色をした綺麗な指と、一瞬だけ触れ合った。

 …………わあー。
 わあーーーー!!!

「ありがと」
 桜色の唇がふわりと動き、彼女は柔らかく微笑んですいと前を向いた。
 彼女に触れた俺の指先から全身に、ビリビリと熱い衝撃が駆け巡る。脳が沸騰する。心臓が持たない。ガチ恋、ヤバい。

 夢現のまま、授業終了のベルが鳴る。
 わらわらと女子たちがランチバッグを手に美園さんの席に集まった。
「怜、お昼一緒食べよー」
 怜。れい。こんなに美しく響く名前がこの世にあるだろうか? 思わず指を組み、天を仰ぐ。
「葉山ー、何祈ってんだよ? いつもアホだなー飯食おーぜ」
 いつメンの平野に雑に声をかけられ、はっと我に返った。
 ああ、こんなアホな俺の想いが叶う可能性って、果たしてあるんだろうか……?


 放課後、掃除当番の俺はゴミ袋を提げて校舎裏のゴミ捨て場へ向かった。
 ふと顔を上げると、髪を靡かせ校舎の角を曲がっていく背中が見えた
 美園さん……? 
 何となく、その背を追う。
 彼女はゴミ集積所を通り過ぎ、校舎裏の奥まった林の手前で立ち止まった。
 俺は花壇の陰へ慌てて屈み、彼女の様子を伺った。
 と、一人の男子が小走りに彼女に近づいていく。
 佐野だ。同じクラスの、サッカー部のイケメン。
 思わず首を引っ込め、一層小さく縮こまった姿勢で二人の声だけを必死に聴き取った。

「あ、あの……ごめんね、呼び出して」
「ん、別にいいけど、何?」
「あの……わ、私、熱心にサッカー練習してる佐野くんの様子いつも見てて、あの……
 すっ、好きです!
 私と付き合ってもらえないかな?」

「……んー、俺好きな人いるからさ。ごめん」

「……
 私、諦めないから」

 美園さんの声が、微かに震えている。
 裏庭を走り抜けていく彼女の足音。

 素っ気ないにも程がある。
 佐野。許さねえ。
 俺は花壇の陰で縮こまったままギリギリと奥歯を噛み締めた。





 その日から、美園さんは明るい笑顔を一切見せなくなった。
 昼休みも、友達と一緒にランチを食べなくなった。
「ごめん。読みたい本あって、図書室行くから」
 弱々しく微笑むと、ひとりで教室を出て行く。俯いて廊下を遠くなる背中をこっそり3日見送り、俺はとうとう耐えられなくなった。

 昼休みで騒がしい廊下の人波に紛れながら、図書室に向かう彼女を追った。図書室のドアの手前で、思い切って呼び止めた。
「美園さん」
 彼女は、驚いたように振り向いて強張ったように笑む。
「え、葉山くん……あの、何?」
「えっと、ちょっと、話したいんだけど。一緒に来てくれる?」
「……」
 ドギマギと緊張しまくった俺の言葉に、彼女は戸惑いつつも曖昧に頷いた。

 校舎を出て、彼女が佐野に告った校舎の裏庭まで来ると、俺は美園さんを振り返った。
「あのさ。
 その……げっ、元気出してほしくて」
 彼女は、はっとしたように少し青ざめた。
「……もしかして……
 葉山くん、知ってたの……?」
「うん。ごめん。
 あの日、ゴミ捨てでちょうどここ通りかかってさ……うっかり聴いちゃったというか」
「……」

 彼女は俯き、唇を噛む。
 ぽろっと、新たな雫が綺麗な顎を流れ落ちた。
 俺はますますあわあわと慌てる。
「あっ、あのさ!
 俺、あいつに……佐野に、一回ちゃんと言ってやるから! あんな冷たい言い方ないだろって!
 んで、もう一回ちゃんと考えろ!って、言ってみるよ」
 美園さんの潤んだ瞳が、じっと俺を見つめた。
「……え……?」
「俺が言ったところであいつが変わるかどうかはわからない。なんも効果なかったらごめんだけど……でも、とにかく何か言ってやらないと、俺も気が済まないっつうかさ。
 タイミング見計らって、あいつと話すから。ちょっと待ってて」

 彼女の大きな瞳が、一層じわりと大きく潤んだ。
「葉山くん、優しいね……
 その気持ち、めちゃくちゃ嬉しい。……ありがとう」

 彼女は、とうとうその場にしゃがみ込んで泣き出してしまった。
 俺は頭をボリボリとかきむしりながら、彼女の涙が収まるのを待った。





 その1週間後、水曜日。
 昼休みになると同時に、俺は意を決して佐野に声をかけた。
「佐野、あのさ」
 佐野は、少し驚いたように俺を見た。
「なに?」
「えっと……ちょっと話あんだけど。放課後時間ある?」
「あー、部活今日はオフだし、暇だけど」 
「じゃ、裏庭来て」
「……わかった」
「佐野ー、サッカー部のマネさん来てんぞー」
「あー今いく」
 佐野はガタリと立ち、席を離れていく。とりあえず約束は無事取り付けた。詰めていた息がふうっと小さく漏れた。
 ふと気づけば、何となく周囲の空気が微妙だ。陰キャが佐野を呼び出してる! 何で?という空気感だ。俺がぐるっと周囲を見るとギャラリーの視線が何気に散っていく。しかしそんなものに構ってはいられなかった。


 放課後。裏庭へ行くと、佐野は既に来ていて校舎の壁にもたれ、スマホをいじっていた。
 俺に気づき、顔を上げる。
「なに、話って」
 いつになく真面目な目がこちらを見た。
 俺は拳を握り、意を決して口を開いた。
「あのさ。
 佐野、美園さんに告られて、あっさり振ったよな?
 彼女、めっちゃ落ち込んでるんだよ。席が近いから、彼女の凹みっぷりが全部見えちゃって、俺まで辛くなる。
 せめて何か、彼女に言ってやれることとかねえの?……あんな想ってくれてる子に、応えてやりたくなんねえのかよ?」

「……そんな話?」
 佐野の顔が、みるみる歪んだ。
「は?」
「俺に告る、とかじゃねえの?」
「……は?」

 佐野はいきなり顔を両手で覆い、地面にがくりと膝をついた。
「っざけんなよ!! 
 どんだけ俺が心臓バクバクさせてたと思ってんだ、今日の半日返せ!!」
「……あの??」
 項垂れた顔をぐっと上げ、がばりと立ち上がった佐野は今度は俺に詰め寄る。
「あーこうなったらもう言うわ。
 俺、お前のこと好きだから。マジで。付き合ってほしい」

「……」
 待て。意味がわからない。
 どういう展開だこれ?
「ちょ、落ち着け。
 俺だぞ? 可愛いとかいう要素の微塵もない陰キャだぞ? なんでそうなる……」
「可愛いし!! 意味不明にアホなとことか悶えるし! さっきも昼メシ前に指組んでなんか意味不明に天を仰いで祈ったりとか……マジそういうとこだから!! 自覚しろテメエ!」
 ええー……
 あのシーンはお前用じゃないし。美園さんへの祈りだしっ!! ってかなんで俺がこんなイケメンに告られなきゃならんのか。とりあえず事態を整理させてほしい。
「……ちょっと考えさせてほしいんだけど」

 佐野は陰鬱な顔を一転させ、輝く笑みを溢した。
「え……マジ? 
 考えてくれんの!?」

「……」
「ってことは『可能性あり』ってことだよな!?   
 マジか……超幸せで死にそう……
 待ってるから。卒業までには、返事聞かせてくれ」
 彼の発する熱は真剣そのもので、その眼差しと弾ける笑顔を俺は避けきることができなかった。
「…………」
「約束な。前言撤回とか受け付けねーから。じゃっ!!」
 佐野は輝く王子スマイルをバシッと俺に投げつけると、さすがのフットワークで裏庭から軽やかに消えた。


 参った。
 好きな人の好きな人の好きな人が、俺。
 ヤバいエンドレスサークルが出来上がってしまった。







 帰宅した俺は、自室の机で頭を抱えた。
 どうなってんだ。どうしたらいいんだ!?
 俺は佐野と美園さんを何とかうまく引き合わせるべく立ち回るつもりでいたのに……つまり俺、美園さんの恋敵ど真ん中ってことじゃねーか!?
 それに、何十年経ったって、佐野の告白にOKとかとりあえずあり得ない。俺は細マッチョイケメンには1ミリもそそられないんだから仕方ない。

「うう……まじ助けてくれ……」
 机に突っ伏した俺の目の前で、スマホが不意に鳴る。
 画面を見れば、佐野からのLINEだ。クラスライン経由か?……ほとんど発言してないってのに、どこまで遡って掘り出したんだ!?
『今度の土曜、時間あるか? 部活用のスパイク新しいの買いに行くからとりあえず付き合え』
 ええーー……怖い。イケメンの押しの強さ怖い。
 いや。ここまで来てしまったら、もうプルプル怯えてる場合じゃない。なんとかこの暴走サッカー王子と話をしなければ。……これはむしろそのいい機会じゃないか。
 散々考えた末、俺は返信を打ち込む。
「わかった。
 買い物に付き合うかわりに、俺の話もちゃんと聞いてほしい。会った時に話す」
 送った瞬間、既読がつく。画面を見つめて俺の返信をじっと待っていたのだろうか。
 少し間を置いて、佐野の返信が届いた。
『俺の強引な誘いとかキョヒんなくていーのかよ』

 おい。強引だってわかってんじゃねーか。と打ち込みたいがグッと堪え、自分の今の気持ちを言葉にすべくポツポツとキーを押した。
「いや。俺も佐野に話したいことがあるから。本気の相談だからな。ふざけ半分に聞いたりするなよ」

 送信し、画面を見つめるが、返信はなかなか来ない。
「にいちゃん、ごはんー! ちょっとくらい母さん手伝えばー?」
 階下から妹が呼ぶ。スマホを置こうかと思った瞬間、着信音が鳴った。

『葉山の話なら、なんでもちゃんと聞く。
 お前がふざけたこと言っても真面目に聞く気あるから』


「…………」

 佐野、もしかして、ガチなのか。
 なんで、俺なんかに。
 一体全体、俺のどこがそんなに……

 謎すぎる。

 なんて返したらいいんだろう?


 返事を考えあぐねていると、妹の苛立ち紛れの声が再び響いた。

「にいちゃん!! ご飯いらないの!?」
「あーわかったって! 今行く!」

 まとまらない思考を一旦ストップし、俺はスマホを置いて机から立ち上がった。