《3話:まだ、好きじゃない(と思いたかった)》
◯3話冒頭:漁港・50軒を超える出店が軒を連ねた朝市【翌日(5月下旬、土曜日)・早朝】
凪智と海がせっせと出店を準備中。
海「凪智、今日も裏で干物でもしておくか?」
海がおつりを机の上に出しながら、凪智を見る。作業をしていた凪智、首を振る。
凪智「今日は、接客やる」
海「お? どうした? 珍しいな」
凪智「……ちょっと」
海「ふぅん……好きな子でも来るのか」
凪智は「……!」と声にならない反応をして、ぷいっと顔を背ける。
海「くくっ、かわいいやつめ」
海は優しい顔をしながら、揶揄うように凪智の頭をなでる。
◯漁港・朝市【同日(土曜日)・数時間後の朝】
普段は静かな漁港に出店が並び、朝市目当ての客で賑わう。父・菫と弟の蒼と一緒に、歩き回る翠。
しばらく歩いていると、毎週土曜は必ず菫が向かう、凪智の父・海の出店に行き着く。いつもとは違い、凪智もいる。
翠(あれ……。アイツ、自分の父親の出店でバイトしてたのかよ)
そんな視線の先にいる凪智は、学校で見せるようなキラキラ笑顔。
翠(こうやって並んでるの見ると……似てるような気がする。てか、あそこだけ華がありすぎねぇ?)
朝市目当てに観光客が訪れるのもあって、凪智や海の周りには若い女性たちがいる。特に凪智はきゃっきゃ囲まれ、出店で買ったであろう商品をいくつか手渡されていた。
翠(じゃあ、これ……渡す必要ないか)
凪智を見る翠の手には、ランチトートバッグ。
翠(アイツでかいからすぐ腹すかせそうって思っただけで……。別にただのおにぎりだし。俺が食べればいいか)
きゅっと手に力が入る、翠。
菫「翠はどうする? 僕と蒼は潮田さんとこ行くけど」
急に、菫に話しかけられる。翠はハッとする。一瞬だけ悩むも「行く」と返事して、ついていく。
◯鮮魚や干物まで並ぶ、潮田家の出店【同日・朝・続き】
凪智が笑顔を振り撒きながら、他の客に接客中。海が菫に気づき、豪快に手を振る。
海「おはよう。皆、いらっしゃい」
菫「おはよう」
蒼「おじちゃん、おはよぉ」
蒼はすっかり海に懐いているようで、手を振る。
翠はなかなか顔を上げられない。挨拶しないわけにはいかないので「おはようございます」とだけ言って、すぐにそっぽを向く。
翠(き、きまずい……)
親たちは少し肩をすくめるも、普通に話し始める。
菫「今日は何がおすすめ?」
海「そりゃもちろん、獲れたてのアジ。今朝、俺が獲ってきたからな!」
ドヤ顔をする海。おっとりした菫は「じゃあ、それにしようかな」と、ふふっと笑う。和やかな雰囲気。
凪智はチラチラ翠の方に視線を送り、気にしている。海はほほん……と、勘が働き、ちらっと翠の方を一瞥。
海「それと──あとは……凪智が作った干物かな」
翠は海の口から「凪智」の名前が出て、ピクッとする。
顔を上げたら、接客を終えた凪智が翠の方を見る。近づいてくる。
菫「凪智くんが作ったんだ?」
凪智「はい」
海「凪智は魚捌くの得意でな。時間があったら、せっせと俺の手伝いしてくれるんだよ」
菫「凄いね。うちの翠も料理得意だけど、魚だけは捌くの苦手なんだよ」
海「そうなん?」
菫「そう。魚と目が合うのが怖いって。ホント可愛いでしょ」
凪智も「かわいい」とポソっと呟く。
翠「ちょっ、父さんなんて事言うんだよ!」
菫「あ、これ秘密だった?」
翠「秘密に決まってるだろ! 恥ずい!」
ギャーギャー文句を言うと、凪智が目尻を緩める。
凪智「じゃあ、ミド先輩が食べたい魚はこれから全部、俺に任せてください」
まっすぐな目をした凪智の言葉に、翠の喉が鳴る。
心臓もトクンと跳ねる。
翠(なんだよそれ……! つーか、俺の心臓もすぐトクン言うな!)
菫「凪智くんってば、プロポーズみたいなこと言うね」
凪智「あ──」
翠「父さん! 何言ってんだよ! 変なこと言うなって!」
菫「えぇ、でも」
翠「でもじゃねーから。潮田も困るだろ、んなこと言われたら。社交辞令に決まってるだろ」
菫「そっかぁ、ごめんね」
凪智「いえ、大丈夫です」
凪智は少しだけ、寂しそうな感じの目をする。
翠はそれに気づいて「うぐっ」となる。仕方なく「おまえ……いつ、休憩?」と聞く。
凪智「休憩……ですか?」
翠「こ、これやる。例の件、協力してくれて、ありがとな。……お前デケェからすぐ腹減りそうだし、休憩に食べろよ」
翠は手に持っていたランチトートを突き出す。
菫はあらま、という顔。海もおやおやという感じ。蒼だけ我関せず、「お魚~!」とキラキラ出店の魚を眺めてる(魚好き)
凪智「……これ、俺のために?」
翠「違ぇし。余ったから、礼がわりにやるだけだ」
凪智「でも……嬉しいです」
翠「俺、のど渇いたからもう行く。……父さん。俺、他のとこ行くから」
翠は恥ずかしくて顔を赤くしながら、皆から背を向ける。歩き出す。
親たちは顔を見合わせる。
海「凪智、腹減ってんならどっかで食べてきてもいいぞ〜」
凪智「……! わかった!」
エプロンを取る凪智。
菫は「いいねぇ、青春だ」、海は「俺たちも、あんな時代があったんだよな」と、しみじみ。
◯朝市から少し離れた場所にある、自販機前【同日・続き・朝】
りんごジュースの紙パックを買って自販機から取り出したところで、翠はクラスの女子・佐倉と遭遇。佐倉はクラスでも中心的な存在。※ギャル
佐倉「あっ、ミドじゃん~! おはよー。え、りんごジュース? かわい~」
翠「……朝からうるせぇな」
佐倉「ひどっ。……てかさ、ここで会ったのも運命じゃん?」
佐倉がぐいっと翠に近づく。翠は面倒くさそうに、避けようとする。
翠「運命?」
佐倉「そ。だからさー、今付き合ってる人いないなら、私と付き合ってくんない?」
翠「は? 何、急に。意味わかんね」
佐倉「いいじゃん。私、おっぱいでかいよ?」
佐倉は胸が強調されたピッチリしたTシャツと短パン姿。女性らしい体のラインがくっきり。だが、翠は佐倉を見てもすんとしたまま、態度は変わらない。
翠「いや、胸とか別にどうでもいいんだけど」
佐倉「はぁ? 何、おっぱいじゃないなら……お尻? ミドってお尻好きなんだ?」
翠「尻も別に」
佐倉「えぇ? じゃあ、何ならいいのよー! もしかしてさ、女に興味ないとか言わないよね? 枯れてる? 男が好きとか?」
佐倉はまた翠に近づく。一瞬だけ、たじろぐ翠。
翠「……なわけねぇだろ」
佐倉「え、ウケる。何、いまの間。てかその顔、絶対なんかあるじゃん」
翠「俺、喉渇いたからいくわ」
翠はすぐにその場から逃げる。手には未開封のりんごジュースのパックを握りしめて。
佐倉「うわ、逃げやがった。……ミドー! 私はいつでもオーケーだから、考えといてよねー!」
※ その現場を凪智は目撃。
◯漁港・波止場・人気のない場所【同日・続き・朝】
翠は座り込んで、海を眺めながらりんごジュースにストローを刺す。
翠「……俺、まだ枯れてねぇし」
そう言いながらストローを咥えようとしたとき。
凪智「何がですか?」
背後から凪智に声を掛けられて、翠はびっくりする。
振り向けば、凪智が渡したミニトートを持って立つ。
翠「な……なんで」
凪智「父さんが食べてきていいって言ったんで」
翠「そうかよ」
凪智「はい」
しばし、沈黙。凪智は翠の隣に腰を下ろす。
ストローでジュースを飲む翠。
凪智「ミド先輩、女の人の胸もお尻も興味ないんですね」
翠はりんごジュースをふき出す。
翠「……なんでお前」
凪智「聞くつもりはなかったんですけど」
翠「忘れろ」
凪智「忘れません。俺としては、有難いんで。俺も同じだから」
翠は「……そうかよ」と言いながら、もう一度、りんごジュースを飲む。
横目で見た凪智は、いつもは無表情なのに、嬉しそうに口元を緩めておにぎりを取り出す。
包みをそっと開けて、こちらを見る。
凪智「写真……撮ってもいいですか?」
翠「写真?」
凪智「……ミド先輩が作ってくれたから」
凪智の声は甘く、優しい表情。
翠(俺が作ったもんだからって……そんなに嬉しいもん……?)
翠「……それはお前にあげたんだし、好きにしろよ」
凪智「ありがとうございます」
凪智はスマホを取り出して、一枚撮る。じっと見つめる凪智を見ても、翠は面映くなる。
満足して、ようやくおにぎりを口に運ぶ凪智。
翠(図体でけぇし、俺よりイケメンだってのにな。女子より可愛く見えるのってなんだよ……頭バグってんのかな)
翠は「あーあ」と言いながら、空を見上げた。
翠(また作ってやりてぇなって思うとか、たぶん、重症だ)
◯体育の授業のために着替えてグラウンドに向かう途中・校舎外【翌週・月曜日】
翠と桐野が体操服で中庭を歩く。体操服を着た佐倉が翠を見つけて、駆け寄ってくる。
佐倉「ミド! ねぇ、考えてくれた?」
腕を組んできて、胸をぐいぐい押し付けてくる。桐野は「うわ、狙ってんな」と呟く。
翠「お前、離れろよ。てか、あれ本気だったん……?」
佐倉「ひどっ! 本気だし!」
むすっとする佐倉。
翠「えぇ……」
佐倉「うわ、その反応普通に傷つくんですけどー!」
翠「あー、悪い」
佐倉「……ミドって、押しに弱そうだから、いけるかなって思ってたのになー」
翠「は?」
佐倉「世話焼きおかんだから、ぐいぐい行ったら、可哀そうに……って同情でも付き合ってくれないかなーって思ってたんだけどなー」
ちらっと佐倉は見てくる。上目遣い。だが、翠は全く興味がない。むしろ面倒。
翠(……俺、実はチョロくはないのか?)
翠(押しに弱いんかなって思ってたけど、佐倉には何にも感じねぇわ。でも、じゃあ……なんで、潮田には)
翠が黙りこくっていると、佐倉が「うわ、白けたぁ。なんか他のこと考えてるしぃ」と言う。
翠「ん?」
ようやく佐倉を見る翠。佐倉はため息をひとつする。
佐倉「もういいわ。ミドってつまんなーい」
佐倉は本気じゃなかったかのように、変わり身の早さを見せ、他の男子の群れの方へ行く。
桐野「ミド、お前すげぇな」
翠「……何が」
桐野「胸押し付けられて、顔色一つ変わんねぇとか」
翠「だって、アレって脂肪の塊だろ?」
桐野「お前……もしや、もう大人の階段上ってたんか」
その時、ガシャーンとガラスか何かの割れる音がする。音がした方を向けば、すぐ近くに理科室。
姿は見えないが、そこから「あ……ご、ごめん」という動揺したような凪智の声と、女子たちの「潮田くん、大丈夫?」「怪我してない?」という声がはっきり聞こえる。
※凪智には桐野が言った「大人の階段」が耳に届いていた。ショックで物を落とすという失態中。
翠(……潮田、理科室で何してんだよ)
凪智「痛っ」
その瞬間、翠は窓に向かっていた。
◯理科室の外・グラウンド側の窓【同日・体育の授業前】
開けられた窓から中を覗くと、凪智が割れたビーカーを拾おうとして、指を怪我している。※ まだ理科室にいる人数は多くない
翠「おい、凪智! 何してんだよ、馬鹿!」
思わず、名前を呼んでしまう。
翠(……あれ、いま、俺)
凪智が「え……」と顔を上げ、翠の方を見る。
怪我しているはずなのに、その目は『名前呼び…』と希望に満ちる。耳と尻尾登場。
翠「あ、いまのは……父さんと蒼が凪智くんって呼ぶからで……じゃねぇ! 怪我したなら、早く保健室行け!」
凪智に向けてピシッと言い放つ翠。そして、すぐ近くに居た子の方を向く。
翠「ねぇ、そこの君、ここ開けてくれるか?」
後輩女子「あ、はい」
翠「他の子も怪我したらあぶねぇから、俺が片付けるわ」
掃き出し窓を開けてもらい、翠は靴を脱いで中に入る。すぐに箒と塵取りを持ってこようとしていた子から「さんきゅ」と、受け取る。
凪智は「俺も……」と来るけど、指先から血が出ている。
翠「馬鹿。早く止血しろ。大丈夫だから。気にすんな」
凪智は女子から渡されたティッシュで止血する。
翠(……だめだ、もう。名前も呼んじまうし、こいつの世話、焼きたくてたまんねぇ感じになってるわ、俺)
自分の気持ちに戸惑いながら、翠は片付けを始めた。
翠(たぶん……このままだと、もう後戻りできねぇ気がする)
◯翠の教室【同日・昼休み】
自分の席でスマホで特売チラシを眺めていた翠。
桐野「ミド、彼氏来たぞ」
急に桐野から言われて、翠は「はぁ?」と動揺。声が大きくなる。
桐野「嘘、嘘、ごめんって~。怒んなよ」
翠「うぜぇ」
桐野「ほら、四限の前のミドかっこよかったからさぁ~。あれで、あの場にいた1年女子は何人か、ミドに惚れたよな」
翠「なわけねぇだろ」
桐野「いや、ある。ってか、彼氏じゃなくてさ、潮田来てるぞ」
廊下を見ると、凪智が指にばんそうこうをして立っていた。手には売店で何か買ってきたであろう、ビニール袋もある。
翠は凪智の方に向かう。
翠「お前……俺の教室には来るなってあれほど──」
凪智「嬉しかったから、お礼を持ってきました」
翠「んなの……放課後でもいいだろ」
凪智「今日は部活なので」
翠「あ、そうだったな」
翠(毎日一緒にいたわけでもないし、昼休みに一緒に食べるのは作戦実行日だけ。……そうなんだけどな。なんかいつも一緒にいたような気がして……変な感じがする)
翠は凪智から袋を受け取る。中を見ると、翠の好きなお菓子だらけ。
翠「……お前、なんでこれ」
凪智「蒼くんがこの前、ミド先輩の好きなものも教えてくれたんで」
翠「……蒼、余計なこと言いやがって」
凪智「迷惑でしたか?」
翠「いや……まぁ、ありがとな」
凪智「はい」
嬉しそうに目を細める凪智。少し前まで無表情だった凪智の本当に嬉しそうな顔に、翠の心臓が跳ねる。
翠(うわ、ダメだ。やっぱり……こいつ、かわいくねぇか? まじで……俺、こいつの笑顔にもう勝てる気しねぇ)
自然と顔を赤く染めてしまう翠。
○翠の自宅・台所【同日・夜七時前】
夕飯のアジの甘酢あんかけと豆腐とわかめの味噌汁、切り干し大根の煮物などあれこれ食事を用意していると、蒼が「兄ちゃん」とやってくる。
翠「ん? どした?」
蒼「凪智くんから電話」
翠「え?」
蒼から差し出されたのは翠のスマホ。画面には《潮田凪智》と表示されている。スマホを受け取る翠。
翠「ありがとな。ちょっと電話出てくるから、夕飯もう少ししてからでもいいか?」
蒼「うん、大丈夫」
翠「分かった、ちょっと待っててな」
翠は蒼の頭をひと撫でして、廊下に行く。
翠「もしもし、どした?」
凪智『ミド先輩。部活終わったんですけど、家の前まで行ってもいいですか?』
※凪智は自分の家の前。
翠「ん? いいけど、どうしたんだよ」
凪智『家の鍵……忘れました』
翠「え?」
凪智『今日……父さん、会合で家あけてるの忘れてて……。帰り遅いんです』
翠「お前な……。あー、いま飯作ってるところだから、もう一つ用意しておく。お前もうちで食べろ」
凪智『いいんですか?』
翠「いいんですかって、うちに来たくて連絡したんじゃねーの?」
凪智『そ……うです』
翠「気を付けて来いよ」
翠(うわ。俺ってこんな声、出るのかよ)
翠は自分で思っていたよりも柔らかな声が出て、自分のことなのに動揺。凪智も電話の向こうで息を呑む。でもすぐに。
凪智『はい! ありがとうございます』
元気な声に、思わず翠は笑みを浮かべた。
翠(ほんと……かわいいやつ。追加で他にもなんか用意してやろ。腹空かせてるだろ)
◯翠の自宅・玄関【同日・夜7時過ぎ】
家族総出で凪智を出迎える。
上がり框に立つ菫と蒼。翠は土間に降りて、引き戸を開けている。
翠「ほら、入れよ」
凪智「すみません」
蒼「わーい、なちくんだ~」
菫「いらっしゃい」
◯翠の自宅・居間【同日・続き】
居間に向かうと、凪智はすぐに翠の母・藍の小さな仏壇に気づく。
凪智「ミド先輩のお母さんに、ご挨拶しても良いですか」
翠「あ、あぁ。……うん」
翠は凪智がすぐにそう言うとは思わず、瞠目。
荷物を置いて、凪智は仏壇前で手を合わす。
翠(……なんだよ、それ。ちゃんと、母さんに挨拶してくれるなんて。……なんか、すげぇ、嬉しい)
菫「凪智くん、いい子だね」
翠の隣で、凪智を見ながら目を細める菫。蒼は「僕もママに挨拶する」と凪智の隣で手を合わす。
翠の胸はじんとして、凪智から目が離せない。
◯同場所・翠の自宅・居間【同日・続き】
居間には客用の食器類も出して、4人分の食事が並ぶ。凪智は翠の隣に座る。
蒼「なちくん、好き嫌いある?」
凪智「ないよ。ミド先輩が作ったものなら、何でも食べられる自信ある」
蒼「だってー。にいちゃん、モテモテだぁ」
翠「うるせぇ。早よ、食べろ。冷めんぞ」
食事を皆で始める。和気あいあいとした、家族の団欒。凪智は何度も「美味しいです」と言う。
しばらくして、食事も終わりに近づいた時、蒼が「ねぇねぇ」と凪智に声をかける。
蒼「なちくん、おとまりしてけば?」
凪智「えっ」
翠「蒼、お前、勝手に決めんな」
蒼「だって、にいちゃんうれしそうだし」
菫「ほんとね、翠がこんなに嬉しそうなの、久々に見た。……凪智くんさえよければ、どう? お布団はあるし、海には僕から連絡入れるから」
菫がお茶を手に持って、にっこり笑う。
凪智「それじゃあ……よろしくお願いします」
礼儀正しく、凪智は深々と頭を下げた。
◯翠の部屋【同日・就寝前・11時過ぎ】
翠が部屋で翌日の予習をしていると、コンコンと扉がノックされる。現れたのは湯上りの凪智。※凪智は部活終わりなので汚れや臭いを気にして、1番最後にお風呂。
凪智「……お風呂、ありがとうございました」
翠「別にいいよ。てか、お前さ……やべぇな。ほんとガタイ良すぎだろ」
凪智は翠の服ではつんつるてん状態で、翠はくくっと笑ってしまう。
凪智「……ミド先輩の匂いがして、俺はいまそれどころじゃないです」
翠「お前な……そういうこと言うな」
凪智「すみません」
翠「てか……寝るの、そこに布団敷いたけど、ここでいいか?」
部屋の真ん中に、来客用の布団を敷いてある。
凪智「……同じ部屋でいいんですか?」
凪智は目をぱちくり。
翠「他の部屋でもいいけど、掃除行き届いてねーんだわ。だめか?」
凪智「いや……ミド先輩がいいなら、俺は」
翠「いいよ、寝るだけだろ」
凪智「そう……ですね」
翠(何をそんな歯切れ悪く……。って、待て。これって朝まで二人っきりってことか? ……寝るだけって言ったの、俺だよな。俺が言ったんだよな⁉︎)
翠は今更、現状把握してあたふたし始める。
翠(そもそも、コイツは俺のことが好きなんだよな⁉︎ だからあんな反応を……!)
そんな翠を見て、凪智が「あ」と何かを察知。落ち着かせようと、口を開く。
凪智「ミド先輩の部屋、落ち着きます」
翠「いや、お前、まだ来て数分だろ」
凪智「でも……匂いが好きです。よく寝られそうです」
翠「お前……犬かよ」
凪智「わん」
真顔で言う凪智。でも、それすらもがもうあまりに可愛く見えてしまって、翠は悶絶。口を押さえる。
翠「……だめだ、死ぬ」
凪智「え? ミド先輩、何がありましたか」
不安そうに見つめてくる凪智。翠は「あははっ」と笑ってしまう。
翠(あー、もう……認めるしかないよな。これは。……理屈じゃねぇってことか。そっか)
凪智「大丈夫ですか?」
翠「大丈夫じゃねぇ。でも、お前が寝たら大丈夫になる」
凪智「じゃあ寝ます」
凪智はいそいそと布団に入り始める。
そんなところも可愛いと思いながら、翠も机の上を片づけて、ベッドに移動。
布団の中に入って、シーリングライトを消す。
翠(父さんたちに申し訳ねぇな。反対してるってのにさ)
常夜灯をじっと眺める翠。
翠(……コイツのこと、好きになっちゃダメだって思うのに)
翠は寝返りを打つ。
その気配に気づいた凪智は、おずおずと口を開く。
凪智「あの、ミド先輩」
翠「明日も学校だろ、早く寝ろ」
凪智「ひとつだけ」
翠「何だよ」
凪智「……今日、名前呼んでくれたの、嬉しかったです。ありがとうございました」
翠「は? あれか? 理科室の」
凪智「はい。それと、怪我も、すぐ気づいてくれて……ミド先輩のこと、もっと好きになりました」
翠「……そうかよ」
胸がキュッとして、翠は胸元を押さえる。
翠(あーもう、ほんと無理だ。俺もこいつが好きだわ、もう)
凪智「当たり前みたいに俺のこと気にかけてくれたの……嬉しかったです」
翠「分かったから……もう寝ろ」
凪智「はい」
翠(凪智……って、俺が呼び始めたら、こいつはどんな反応すんのかな。その都度、目をキラキラさせてきそうだな)
そう思いながら、もう後には退けないところにいるのだと、しっかり理解し、腹を括る翠。
翠(……いくらでも、呼んでやりてぇな。喜ばせて、やりてぇ)
翠は目を閉じる。
今度からちゃんと凪智って呼ぼうと考えながら、翠は静かに眠りについた。
──水瀬 翠、17歳。人生初の恋を、認めた日だった。
◯3話冒頭:漁港・50軒を超える出店が軒を連ねた朝市【翌日(5月下旬、土曜日)・早朝】
凪智と海がせっせと出店を準備中。
海「凪智、今日も裏で干物でもしておくか?」
海がおつりを机の上に出しながら、凪智を見る。作業をしていた凪智、首を振る。
凪智「今日は、接客やる」
海「お? どうした? 珍しいな」
凪智「……ちょっと」
海「ふぅん……好きな子でも来るのか」
凪智は「……!」と声にならない反応をして、ぷいっと顔を背ける。
海「くくっ、かわいいやつめ」
海は優しい顔をしながら、揶揄うように凪智の頭をなでる。
◯漁港・朝市【同日(土曜日)・数時間後の朝】
普段は静かな漁港に出店が並び、朝市目当ての客で賑わう。父・菫と弟の蒼と一緒に、歩き回る翠。
しばらく歩いていると、毎週土曜は必ず菫が向かう、凪智の父・海の出店に行き着く。いつもとは違い、凪智もいる。
翠(あれ……。アイツ、自分の父親の出店でバイトしてたのかよ)
そんな視線の先にいる凪智は、学校で見せるようなキラキラ笑顔。
翠(こうやって並んでるの見ると……似てるような気がする。てか、あそこだけ華がありすぎねぇ?)
朝市目当てに観光客が訪れるのもあって、凪智や海の周りには若い女性たちがいる。特に凪智はきゃっきゃ囲まれ、出店で買ったであろう商品をいくつか手渡されていた。
翠(じゃあ、これ……渡す必要ないか)
凪智を見る翠の手には、ランチトートバッグ。
翠(アイツでかいからすぐ腹すかせそうって思っただけで……。別にただのおにぎりだし。俺が食べればいいか)
きゅっと手に力が入る、翠。
菫「翠はどうする? 僕と蒼は潮田さんとこ行くけど」
急に、菫に話しかけられる。翠はハッとする。一瞬だけ悩むも「行く」と返事して、ついていく。
◯鮮魚や干物まで並ぶ、潮田家の出店【同日・朝・続き】
凪智が笑顔を振り撒きながら、他の客に接客中。海が菫に気づき、豪快に手を振る。
海「おはよう。皆、いらっしゃい」
菫「おはよう」
蒼「おじちゃん、おはよぉ」
蒼はすっかり海に懐いているようで、手を振る。
翠はなかなか顔を上げられない。挨拶しないわけにはいかないので「おはようございます」とだけ言って、すぐにそっぽを向く。
翠(き、きまずい……)
親たちは少し肩をすくめるも、普通に話し始める。
菫「今日は何がおすすめ?」
海「そりゃもちろん、獲れたてのアジ。今朝、俺が獲ってきたからな!」
ドヤ顔をする海。おっとりした菫は「じゃあ、それにしようかな」と、ふふっと笑う。和やかな雰囲気。
凪智はチラチラ翠の方に視線を送り、気にしている。海はほほん……と、勘が働き、ちらっと翠の方を一瞥。
海「それと──あとは……凪智が作った干物かな」
翠は海の口から「凪智」の名前が出て、ピクッとする。
顔を上げたら、接客を終えた凪智が翠の方を見る。近づいてくる。
菫「凪智くんが作ったんだ?」
凪智「はい」
海「凪智は魚捌くの得意でな。時間があったら、せっせと俺の手伝いしてくれるんだよ」
菫「凄いね。うちの翠も料理得意だけど、魚だけは捌くの苦手なんだよ」
海「そうなん?」
菫「そう。魚と目が合うのが怖いって。ホント可愛いでしょ」
凪智も「かわいい」とポソっと呟く。
翠「ちょっ、父さんなんて事言うんだよ!」
菫「あ、これ秘密だった?」
翠「秘密に決まってるだろ! 恥ずい!」
ギャーギャー文句を言うと、凪智が目尻を緩める。
凪智「じゃあ、ミド先輩が食べたい魚はこれから全部、俺に任せてください」
まっすぐな目をした凪智の言葉に、翠の喉が鳴る。
心臓もトクンと跳ねる。
翠(なんだよそれ……! つーか、俺の心臓もすぐトクン言うな!)
菫「凪智くんってば、プロポーズみたいなこと言うね」
凪智「あ──」
翠「父さん! 何言ってんだよ! 変なこと言うなって!」
菫「えぇ、でも」
翠「でもじゃねーから。潮田も困るだろ、んなこと言われたら。社交辞令に決まってるだろ」
菫「そっかぁ、ごめんね」
凪智「いえ、大丈夫です」
凪智は少しだけ、寂しそうな感じの目をする。
翠はそれに気づいて「うぐっ」となる。仕方なく「おまえ……いつ、休憩?」と聞く。
凪智「休憩……ですか?」
翠「こ、これやる。例の件、協力してくれて、ありがとな。……お前デケェからすぐ腹減りそうだし、休憩に食べろよ」
翠は手に持っていたランチトートを突き出す。
菫はあらま、という顔。海もおやおやという感じ。蒼だけ我関せず、「お魚~!」とキラキラ出店の魚を眺めてる(魚好き)
凪智「……これ、俺のために?」
翠「違ぇし。余ったから、礼がわりにやるだけだ」
凪智「でも……嬉しいです」
翠「俺、のど渇いたからもう行く。……父さん。俺、他のとこ行くから」
翠は恥ずかしくて顔を赤くしながら、皆から背を向ける。歩き出す。
親たちは顔を見合わせる。
海「凪智、腹減ってんならどっかで食べてきてもいいぞ〜」
凪智「……! わかった!」
エプロンを取る凪智。
菫は「いいねぇ、青春だ」、海は「俺たちも、あんな時代があったんだよな」と、しみじみ。
◯朝市から少し離れた場所にある、自販機前【同日・続き・朝】
りんごジュースの紙パックを買って自販機から取り出したところで、翠はクラスの女子・佐倉と遭遇。佐倉はクラスでも中心的な存在。※ギャル
佐倉「あっ、ミドじゃん~! おはよー。え、りんごジュース? かわい~」
翠「……朝からうるせぇな」
佐倉「ひどっ。……てかさ、ここで会ったのも運命じゃん?」
佐倉がぐいっと翠に近づく。翠は面倒くさそうに、避けようとする。
翠「運命?」
佐倉「そ。だからさー、今付き合ってる人いないなら、私と付き合ってくんない?」
翠「は? 何、急に。意味わかんね」
佐倉「いいじゃん。私、おっぱいでかいよ?」
佐倉は胸が強調されたピッチリしたTシャツと短パン姿。女性らしい体のラインがくっきり。だが、翠は佐倉を見てもすんとしたまま、態度は変わらない。
翠「いや、胸とか別にどうでもいいんだけど」
佐倉「はぁ? 何、おっぱいじゃないなら……お尻? ミドってお尻好きなんだ?」
翠「尻も別に」
佐倉「えぇ? じゃあ、何ならいいのよー! もしかしてさ、女に興味ないとか言わないよね? 枯れてる? 男が好きとか?」
佐倉はまた翠に近づく。一瞬だけ、たじろぐ翠。
翠「……なわけねぇだろ」
佐倉「え、ウケる。何、いまの間。てかその顔、絶対なんかあるじゃん」
翠「俺、喉渇いたからいくわ」
翠はすぐにその場から逃げる。手には未開封のりんごジュースのパックを握りしめて。
佐倉「うわ、逃げやがった。……ミドー! 私はいつでもオーケーだから、考えといてよねー!」
※ その現場を凪智は目撃。
◯漁港・波止場・人気のない場所【同日・続き・朝】
翠は座り込んで、海を眺めながらりんごジュースにストローを刺す。
翠「……俺、まだ枯れてねぇし」
そう言いながらストローを咥えようとしたとき。
凪智「何がですか?」
背後から凪智に声を掛けられて、翠はびっくりする。
振り向けば、凪智が渡したミニトートを持って立つ。
翠「な……なんで」
凪智「父さんが食べてきていいって言ったんで」
翠「そうかよ」
凪智「はい」
しばし、沈黙。凪智は翠の隣に腰を下ろす。
ストローでジュースを飲む翠。
凪智「ミド先輩、女の人の胸もお尻も興味ないんですね」
翠はりんごジュースをふき出す。
翠「……なんでお前」
凪智「聞くつもりはなかったんですけど」
翠「忘れろ」
凪智「忘れません。俺としては、有難いんで。俺も同じだから」
翠は「……そうかよ」と言いながら、もう一度、りんごジュースを飲む。
横目で見た凪智は、いつもは無表情なのに、嬉しそうに口元を緩めておにぎりを取り出す。
包みをそっと開けて、こちらを見る。
凪智「写真……撮ってもいいですか?」
翠「写真?」
凪智「……ミド先輩が作ってくれたから」
凪智の声は甘く、優しい表情。
翠(俺が作ったもんだからって……そんなに嬉しいもん……?)
翠「……それはお前にあげたんだし、好きにしろよ」
凪智「ありがとうございます」
凪智はスマホを取り出して、一枚撮る。じっと見つめる凪智を見ても、翠は面映くなる。
満足して、ようやくおにぎりを口に運ぶ凪智。
翠(図体でけぇし、俺よりイケメンだってのにな。女子より可愛く見えるのってなんだよ……頭バグってんのかな)
翠は「あーあ」と言いながら、空を見上げた。
翠(また作ってやりてぇなって思うとか、たぶん、重症だ)
◯体育の授業のために着替えてグラウンドに向かう途中・校舎外【翌週・月曜日】
翠と桐野が体操服で中庭を歩く。体操服を着た佐倉が翠を見つけて、駆け寄ってくる。
佐倉「ミド! ねぇ、考えてくれた?」
腕を組んできて、胸をぐいぐい押し付けてくる。桐野は「うわ、狙ってんな」と呟く。
翠「お前、離れろよ。てか、あれ本気だったん……?」
佐倉「ひどっ! 本気だし!」
むすっとする佐倉。
翠「えぇ……」
佐倉「うわ、その反応普通に傷つくんですけどー!」
翠「あー、悪い」
佐倉「……ミドって、押しに弱そうだから、いけるかなって思ってたのになー」
翠「は?」
佐倉「世話焼きおかんだから、ぐいぐい行ったら、可哀そうに……って同情でも付き合ってくれないかなーって思ってたんだけどなー」
ちらっと佐倉は見てくる。上目遣い。だが、翠は全く興味がない。むしろ面倒。
翠(……俺、実はチョロくはないのか?)
翠(押しに弱いんかなって思ってたけど、佐倉には何にも感じねぇわ。でも、じゃあ……なんで、潮田には)
翠が黙りこくっていると、佐倉が「うわ、白けたぁ。なんか他のこと考えてるしぃ」と言う。
翠「ん?」
ようやく佐倉を見る翠。佐倉はため息をひとつする。
佐倉「もういいわ。ミドってつまんなーい」
佐倉は本気じゃなかったかのように、変わり身の早さを見せ、他の男子の群れの方へ行く。
桐野「ミド、お前すげぇな」
翠「……何が」
桐野「胸押し付けられて、顔色一つ変わんねぇとか」
翠「だって、アレって脂肪の塊だろ?」
桐野「お前……もしや、もう大人の階段上ってたんか」
その時、ガシャーンとガラスか何かの割れる音がする。音がした方を向けば、すぐ近くに理科室。
姿は見えないが、そこから「あ……ご、ごめん」という動揺したような凪智の声と、女子たちの「潮田くん、大丈夫?」「怪我してない?」という声がはっきり聞こえる。
※凪智には桐野が言った「大人の階段」が耳に届いていた。ショックで物を落とすという失態中。
翠(……潮田、理科室で何してんだよ)
凪智「痛っ」
その瞬間、翠は窓に向かっていた。
◯理科室の外・グラウンド側の窓【同日・体育の授業前】
開けられた窓から中を覗くと、凪智が割れたビーカーを拾おうとして、指を怪我している。※ まだ理科室にいる人数は多くない
翠「おい、凪智! 何してんだよ、馬鹿!」
思わず、名前を呼んでしまう。
翠(……あれ、いま、俺)
凪智が「え……」と顔を上げ、翠の方を見る。
怪我しているはずなのに、その目は『名前呼び…』と希望に満ちる。耳と尻尾登場。
翠「あ、いまのは……父さんと蒼が凪智くんって呼ぶからで……じゃねぇ! 怪我したなら、早く保健室行け!」
凪智に向けてピシッと言い放つ翠。そして、すぐ近くに居た子の方を向く。
翠「ねぇ、そこの君、ここ開けてくれるか?」
後輩女子「あ、はい」
翠「他の子も怪我したらあぶねぇから、俺が片付けるわ」
掃き出し窓を開けてもらい、翠は靴を脱いで中に入る。すぐに箒と塵取りを持ってこようとしていた子から「さんきゅ」と、受け取る。
凪智は「俺も……」と来るけど、指先から血が出ている。
翠「馬鹿。早く止血しろ。大丈夫だから。気にすんな」
凪智は女子から渡されたティッシュで止血する。
翠(……だめだ、もう。名前も呼んじまうし、こいつの世話、焼きたくてたまんねぇ感じになってるわ、俺)
自分の気持ちに戸惑いながら、翠は片付けを始めた。
翠(たぶん……このままだと、もう後戻りできねぇ気がする)
◯翠の教室【同日・昼休み】
自分の席でスマホで特売チラシを眺めていた翠。
桐野「ミド、彼氏来たぞ」
急に桐野から言われて、翠は「はぁ?」と動揺。声が大きくなる。
桐野「嘘、嘘、ごめんって~。怒んなよ」
翠「うぜぇ」
桐野「ほら、四限の前のミドかっこよかったからさぁ~。あれで、あの場にいた1年女子は何人か、ミドに惚れたよな」
翠「なわけねぇだろ」
桐野「いや、ある。ってか、彼氏じゃなくてさ、潮田来てるぞ」
廊下を見ると、凪智が指にばんそうこうをして立っていた。手には売店で何か買ってきたであろう、ビニール袋もある。
翠は凪智の方に向かう。
翠「お前……俺の教室には来るなってあれほど──」
凪智「嬉しかったから、お礼を持ってきました」
翠「んなの……放課後でもいいだろ」
凪智「今日は部活なので」
翠「あ、そうだったな」
翠(毎日一緒にいたわけでもないし、昼休みに一緒に食べるのは作戦実行日だけ。……そうなんだけどな。なんかいつも一緒にいたような気がして……変な感じがする)
翠は凪智から袋を受け取る。中を見ると、翠の好きなお菓子だらけ。
翠「……お前、なんでこれ」
凪智「蒼くんがこの前、ミド先輩の好きなものも教えてくれたんで」
翠「……蒼、余計なこと言いやがって」
凪智「迷惑でしたか?」
翠「いや……まぁ、ありがとな」
凪智「はい」
嬉しそうに目を細める凪智。少し前まで無表情だった凪智の本当に嬉しそうな顔に、翠の心臓が跳ねる。
翠(うわ、ダメだ。やっぱり……こいつ、かわいくねぇか? まじで……俺、こいつの笑顔にもう勝てる気しねぇ)
自然と顔を赤く染めてしまう翠。
○翠の自宅・台所【同日・夜七時前】
夕飯のアジの甘酢あんかけと豆腐とわかめの味噌汁、切り干し大根の煮物などあれこれ食事を用意していると、蒼が「兄ちゃん」とやってくる。
翠「ん? どした?」
蒼「凪智くんから電話」
翠「え?」
蒼から差し出されたのは翠のスマホ。画面には《潮田凪智》と表示されている。スマホを受け取る翠。
翠「ありがとな。ちょっと電話出てくるから、夕飯もう少ししてからでもいいか?」
蒼「うん、大丈夫」
翠「分かった、ちょっと待っててな」
翠は蒼の頭をひと撫でして、廊下に行く。
翠「もしもし、どした?」
凪智『ミド先輩。部活終わったんですけど、家の前まで行ってもいいですか?』
※凪智は自分の家の前。
翠「ん? いいけど、どうしたんだよ」
凪智『家の鍵……忘れました』
翠「え?」
凪智『今日……父さん、会合で家あけてるの忘れてて……。帰り遅いんです』
翠「お前な……。あー、いま飯作ってるところだから、もう一つ用意しておく。お前もうちで食べろ」
凪智『いいんですか?』
翠「いいんですかって、うちに来たくて連絡したんじゃねーの?」
凪智『そ……うです』
翠「気を付けて来いよ」
翠(うわ。俺ってこんな声、出るのかよ)
翠は自分で思っていたよりも柔らかな声が出て、自分のことなのに動揺。凪智も電話の向こうで息を呑む。でもすぐに。
凪智『はい! ありがとうございます』
元気な声に、思わず翠は笑みを浮かべた。
翠(ほんと……かわいいやつ。追加で他にもなんか用意してやろ。腹空かせてるだろ)
◯翠の自宅・玄関【同日・夜7時過ぎ】
家族総出で凪智を出迎える。
上がり框に立つ菫と蒼。翠は土間に降りて、引き戸を開けている。
翠「ほら、入れよ」
凪智「すみません」
蒼「わーい、なちくんだ~」
菫「いらっしゃい」
◯翠の自宅・居間【同日・続き】
居間に向かうと、凪智はすぐに翠の母・藍の小さな仏壇に気づく。
凪智「ミド先輩のお母さんに、ご挨拶しても良いですか」
翠「あ、あぁ。……うん」
翠は凪智がすぐにそう言うとは思わず、瞠目。
荷物を置いて、凪智は仏壇前で手を合わす。
翠(……なんだよ、それ。ちゃんと、母さんに挨拶してくれるなんて。……なんか、すげぇ、嬉しい)
菫「凪智くん、いい子だね」
翠の隣で、凪智を見ながら目を細める菫。蒼は「僕もママに挨拶する」と凪智の隣で手を合わす。
翠の胸はじんとして、凪智から目が離せない。
◯同場所・翠の自宅・居間【同日・続き】
居間には客用の食器類も出して、4人分の食事が並ぶ。凪智は翠の隣に座る。
蒼「なちくん、好き嫌いある?」
凪智「ないよ。ミド先輩が作ったものなら、何でも食べられる自信ある」
蒼「だってー。にいちゃん、モテモテだぁ」
翠「うるせぇ。早よ、食べろ。冷めんぞ」
食事を皆で始める。和気あいあいとした、家族の団欒。凪智は何度も「美味しいです」と言う。
しばらくして、食事も終わりに近づいた時、蒼が「ねぇねぇ」と凪智に声をかける。
蒼「なちくん、おとまりしてけば?」
凪智「えっ」
翠「蒼、お前、勝手に決めんな」
蒼「だって、にいちゃんうれしそうだし」
菫「ほんとね、翠がこんなに嬉しそうなの、久々に見た。……凪智くんさえよければ、どう? お布団はあるし、海には僕から連絡入れるから」
菫がお茶を手に持って、にっこり笑う。
凪智「それじゃあ……よろしくお願いします」
礼儀正しく、凪智は深々と頭を下げた。
◯翠の部屋【同日・就寝前・11時過ぎ】
翠が部屋で翌日の予習をしていると、コンコンと扉がノックされる。現れたのは湯上りの凪智。※凪智は部活終わりなので汚れや臭いを気にして、1番最後にお風呂。
凪智「……お風呂、ありがとうございました」
翠「別にいいよ。てか、お前さ……やべぇな。ほんとガタイ良すぎだろ」
凪智は翠の服ではつんつるてん状態で、翠はくくっと笑ってしまう。
凪智「……ミド先輩の匂いがして、俺はいまそれどころじゃないです」
翠「お前な……そういうこと言うな」
凪智「すみません」
翠「てか……寝るの、そこに布団敷いたけど、ここでいいか?」
部屋の真ん中に、来客用の布団を敷いてある。
凪智「……同じ部屋でいいんですか?」
凪智は目をぱちくり。
翠「他の部屋でもいいけど、掃除行き届いてねーんだわ。だめか?」
凪智「いや……ミド先輩がいいなら、俺は」
翠「いいよ、寝るだけだろ」
凪智「そう……ですね」
翠(何をそんな歯切れ悪く……。って、待て。これって朝まで二人っきりってことか? ……寝るだけって言ったの、俺だよな。俺が言ったんだよな⁉︎)
翠は今更、現状把握してあたふたし始める。
翠(そもそも、コイツは俺のことが好きなんだよな⁉︎ だからあんな反応を……!)
そんな翠を見て、凪智が「あ」と何かを察知。落ち着かせようと、口を開く。
凪智「ミド先輩の部屋、落ち着きます」
翠「いや、お前、まだ来て数分だろ」
凪智「でも……匂いが好きです。よく寝られそうです」
翠「お前……犬かよ」
凪智「わん」
真顔で言う凪智。でも、それすらもがもうあまりに可愛く見えてしまって、翠は悶絶。口を押さえる。
翠「……だめだ、死ぬ」
凪智「え? ミド先輩、何がありましたか」
不安そうに見つめてくる凪智。翠は「あははっ」と笑ってしまう。
翠(あー、もう……認めるしかないよな。これは。……理屈じゃねぇってことか。そっか)
凪智「大丈夫ですか?」
翠「大丈夫じゃねぇ。でも、お前が寝たら大丈夫になる」
凪智「じゃあ寝ます」
凪智はいそいそと布団に入り始める。
そんなところも可愛いと思いながら、翠も机の上を片づけて、ベッドに移動。
布団の中に入って、シーリングライトを消す。
翠(父さんたちに申し訳ねぇな。反対してるってのにさ)
常夜灯をじっと眺める翠。
翠(……コイツのこと、好きになっちゃダメだって思うのに)
翠は寝返りを打つ。
その気配に気づいた凪智は、おずおずと口を開く。
凪智「あの、ミド先輩」
翠「明日も学校だろ、早く寝ろ」
凪智「ひとつだけ」
翠「何だよ」
凪智「……今日、名前呼んでくれたの、嬉しかったです。ありがとうございました」
翠「は? あれか? 理科室の」
凪智「はい。それと、怪我も、すぐ気づいてくれて……ミド先輩のこと、もっと好きになりました」
翠「……そうかよ」
胸がキュッとして、翠は胸元を押さえる。
翠(あーもう、ほんと無理だ。俺もこいつが好きだわ、もう)
凪智「当たり前みたいに俺のこと気にかけてくれたの……嬉しかったです」
翠「分かったから……もう寝ろ」
凪智「はい」
翠(凪智……って、俺が呼び始めたら、こいつはどんな反応すんのかな。その都度、目をキラキラさせてきそうだな)
そう思いながら、もう後には退けないところにいるのだと、しっかり理解し、腹を括る翠。
翠(……いくらでも、呼んでやりてぇな。喜ばせて、やりてぇ)
翠は目を閉じる。
今度からちゃんと凪智って呼ぼうと考えながら、翠は静かに眠りについた。
──水瀬 翠、17歳。人生初の恋を、認めた日だった。


