屋敷の案内を終えた後、凜は一人自室に戻ってきた。箪笥を開き、しまっていた手帳とペンを取り出すと、屋敷の見取り図を書き始める。
 凍鶴からの情報では、屋敷の傍を通りがかった人が、中側からすすり泣くような声が聞こえたと言っていたそうだ。とすると、怪しいのは敷地の端、塀の傍ということになる。見取り図で見比べると、塀の傍にあるのは、蔵に物置小屋、中庭の端、そして本邸と別邸の壁際にある数部屋だ。ただし本邸の数部屋の方は、凜の部屋とその周辺の数部屋であり、今のところ怪しい気配は感じられない。なので優先すべきは、他の場所ということになる。
 ――ひとまずは夜を待ち、別邸から調べてみよう。
 凜は調べるべき場所に印をつけつつ、手帳や針金を用意して潜入に備える。
 日が沈み、夜は更け、あっという間に深夜となった。
 凜はそっと目を開き、布団から音を立てずに起き上がる。用意した道具を懐にしまい、浴衣の帯を締め直して、そろりと襖を開けた。足音を立てることなく暗い廊下を進み、別邸に繋がる渡り廊下の方へと向かっていく。
 だが渡り廊下にさしかかったとき――凜は絶句した。
 別邸と本邸の間にある中庭が、昼間よりも多くの妖怪たちで賑わっていたのだ。酒を飲み、つまみを食べ、星の光の下で盛大に騒いでいる。
 深夜だから誰もいないだろうと思っていた凜は、予想外の光景にあっけにとられてしまう。この賑わいぶりでは、秘密裏に調査するなどとてもできない。
 渡り廊下の入り口に立ち、呆然と中庭を眺めていると、不意に耳元で声がした。
「そんなところで何をしているんだい?」
 ばっと耳を押さえながら振り向くと、蒼雪がそこに立っていた。後ろには景一と瑠風を引き連れている。凜の反応に、蒼雪は愉快げに笑った。
「いい反応をするね」
「突然耳元で声を出されたら、誰だって驚くわよ」
「鳴神の鴉でも、そこは他と変わりないんだ」
 蒼雪は一拍置いて、再び口を開く。
「昼間は景一が随分と世話になったみたいだね。感謝するよ」
 凜と景一の手合わせは、彼にも報告されていたようだ。凜は耳元から手を外し、蒼雪に向き直りながら答える。
「別にいいわよ。あれくらい大したことないわ」
「あれくらいって。景一は妖怪の中でもかなり強いほうなのだけれど……流石は分隊長殿だ」
 蒼雪は小さく肩をすくめた後、言葉を続ける。
「それで結局、君はここで何をしていたのかな?」
「ええと……厠を探していて。でも、どうしてこんなに妖怪がいるの? 今は深夜じゃない」
 渡り廊下にいた理由は誤魔化しつつ、凜は中庭の方を指さした。
 すると蒼雪は、きょとんとした顔で凜を見つめる。
「少し仕事を離れただけで、もう忘れてしまったのかい?」
「な、なにをよ」
「今は人間に合わせて昼間に活動する者も増えたけど、本来妖怪が活発に動くのは夕方から夜にかけてだろう。君も夜勤でよく走り回っていたじゃないか」
「あ……」
 確かに蒼雪の言うとおり、妖怪が最も活発になる時間は夜だった。なのにまさか、こんな初歩的な間違いを犯すなんて。今までの潜入捜査は昼間や夕方が多かっただけに、すっかり頭から抜け落ちていたようだ。
「そ、そうよね。私、すっかり忘れていたわ」
 凜は焦りと羞恥を笑みで誤魔化しながら、早口で続ける。
「じゃあ私、厠へ行って部屋に戻るわね」
「うん、向こうの廊下を右だよ」
 くすくすと笑う蒼雪に恥ずかしさを募らせながら、凜は逃げるようにその場を後にした。

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