蒼雪は一日他の妖怪頭と用事があるらしく、朝食を終えて早々に屋敷を出て行った。そのため凜は、彼の部下である景一と瑠風に、改めて屋敷の中を案内してもらうことにした。
「こっちは本邸で、あっちの渡り廊下を歩くと、蒼雪様の執務室のある別邸に行けるっす! 別邸の方にある庭の池は、広くて綺麗で気持ちいいんすよ~!」
 ぱたぱた走り回りながらあちこちを案内してくれる景一の後ろを、凜は瑠風と並んで歩いて行く。
 相変わらず、屋敷のあちこちで妖怪たちが自分の時間を過ごしていた。ぱっと見ただけでも二、三十はいるだろう。隠れているものも含めれば、もっと多いかもしれない。
「本当に、妖怪だらけね」
「この屋敷の中は国も安易に手が出せませんから。弱い妖怪たちは立場を守るのに丁度いいのです」
 凜の呟きに、隣の瑠風が素っ気ない口調で答える。
「入り口の門番が妖怪かどうかを見極めます。妖怪以外の者が来た場合は、彼らが追い払うことになっています」
「罪を犯した妖怪を入れる可能性は?」
「もちろんありません。我々が受け入れるのは、潔白な妖怪のみ。ですので、あなたたちの邪魔はしませんよ」
 棘のある物言いに、凜は声を低くする。
「……私はもう、宵鴉じゃないけど」
「どうだか」
 瑠風は横目で凜を睨んできた。
 凜は小さくため息をつく。どうも瑠風は、景一と違って、凜のことが気に入らないらしい。突然連れてきた主人の結婚相手が、宵鴉の者なのだから当然と言えば当然かもしれないが。
 ただし不信感を抱かれた結果、任務に支障が出る可能性もある。今は蒼雪が家族を支援してくれていると言っていたが、この先のことを考えると、それも恐らく今だけだ。凜が任務を成功させて特別手当を得なければ、本当の意味で光堂家の金銭問題は解決しない。
 故に瑠風の前では特に、蒼雪の結婚相手として、不自然でない言動をしなければ。そんな事を考えながら、慎重に話題を選ぶ。
「蒼雪は、妖怪にとってどんな人なの?」
「あの方は、とても寛大で優しい妖狐ですよ。大妖怪にしては珍しいくらいに。好奇心旺盛すぎるのが玉に瑕ですがね」
「蒼雪様は東の妖怪たちみんなの憧れっすよ! 俺もすごく尊敬してるっす!」
 蒼雪の話を聞きつけたからか、瑠風に続いて景一も話に入ってきた。
「へえ、今までそういう話をしたことがなかったから知らなかったわ」
 蒼雪の慕われ具合に、凜は改めて感心する。同時に今朝、廊下ですれ違った時のことを思いだした。
「そういえば蒼雪、どこか体調が悪いのかしら? 今朝少し、苦しそうにしていたんだけれど」
 凜の問いかけに、瑠風と景一は何故か互いに目配せをした。
「あなたが気にすることではありません。少なくとも、今は」
「そうっすよ。蒼雪様は強いですし、大丈夫っすから」
 二人とも誤魔化すように話をそらす。やはり凜には話したくない何かが、蒼雪にはあるようだ。結婚することが決まってから、意外にも優しい面があるということ知ったが、やはり底知れない相手であるのは変わりない。引き続き警戒しておかなければ。
 緩みかけていた気持ちを引き締めて、凜は屋敷の案内に意識を戻す。
 蒼雪の屋敷は、門から入ってすぐの広い庭園、本邸、別邸と、二つを繋ぐ渡り廊下、そして本邸と別邸の間にはこれまた広い中庭がある。そのほか敷地の端に蔵や物置小屋、小さな庭などがいくつかあるようだが、景一の説明だけで済まされたため、直接は見ていない。
「だって、馬鹿みたいに広いんすよこの屋敷。全部丁寧に説明しようと思ったら、一日じゃとても終わりません」
 全ての説明を終えて庭園に戻ってきた景一が、唇をへの字に曲げながら嘆いている。確かに一日回ってみたところ、この屋敷はかなり金持ちな人間の華族の屋敷が四つは入りそうな広さをしていた。それだけの広さがあるからこそ、妖怪たちを自由に出入りさせられるのだろう。
 しかしこの広さの屋敷を、凜はあと六日で調べきらなければならない。それも、他の妖怪に調査と気付かれずに。これは、かなり骨が折れる任務になりそうだ。
「大変なことを頼んで悪かったわね。でもありがとう、助かったわ」
「いえいえ、俺たちも仕事ですし。ところで、そのお礼にと言っちゃなんですが」
 景一がギラリと金色の目を光らせた。今までの人懐こい態度とは違う、獣のようなその眼差しに、凜は本能的に距離を取る。
「突然何かしら」
「俺と手合わせして欲しいんすよ、凜の姐さん」
 景一がにやりと微笑んだ。半分に開いた口からは、白く尖った犬歯が覗く。
「手合わせ? ここで?」
「はいっす。俺、ずっと興味あったんすよね。鳴神の鴉の実力」
「あら。人懐こいと思っていたけれど、案外争い好きなのね」
「もちろんっすよ! だって俺、狼っすもん」
 景一がべろりと舌なめずりする。手の平の指から伸びる爪は、変形して鋭く尖っていた。既に景一は戦う気満々でいるようだ。
 凜の隣に立つ瑠風は、眉間に皺を寄せて景一を睨む。
「駄目ですよ、景一。こんなところで暴れたら、他の妖怪たちが傷つくでしょう」
「瑠風さんが結界張ってくれればいいじゃないっすか。結界の中で手合わせすれば、外の妖怪は傷つけないっすよね」
「……景一……」
 瑠風は忌々しそうに顔をゆがめた。凜はちらりと瑠風を横目に見る。
「瑠風は結界を張れるのね」
「そうっすよ。身を守ったり、外から見えないようにしたり、相手を閉じ込めたり。色んな結界を張れるんっす。だから、俺たちが手合わせする空間も、簡単に作ってくれるっすよね?」
 景一は眉間に皺を寄せたまま、小さく舌打ちをした。そしてぱん、と一度手を打つと、景一と凜の周囲を囲むように結界が張られる。
「うわぁい! ありがとうっす、瑠風さん!」
 景一は楽しげに声を弾ませて、準備運動のようにその場でぴょんぴょん飛び跳ねている。
 凜は周囲の空間を見回した。上下左右前後。結界で囲まれた白い空間は、恐らく宵鴉の敷地に併設されている剣道場と同じくらいの広さだろう。思い切り戦うには、十分だった。
 ――使うのは雷の異能だけ。手袋は絶対に外さない。
 景一の強さは知らないが、これは単なる手合わせだ。相手を無力化させる必要がない以上、雷の異能だけで十分戦える。
 凜は横へ手を伸ばす。手の平に向けて閃光が迸った。
「それじゃ、行くっすよっ!」
 唸り声を上げながら、景一の足が地面を蹴った。瞬間、凜の目の前に彼の顔が現れる。
「とーった!」
 鋭い爪が、凜の首元に近づいてくる。しかし、それでやられる凜ではない。
「気が早いわよ、狼さん」
 凜は地面を蹴って後ろに避けた。景一の爪は宙を掻く。彼は勢いで体勢を崩し、隙が生まれた。凜は結界の壁を蹴ってひらりと宙に飛び上がると、彼の背中へ拳と共に雷を叩き込んだ。
「ぎゃんっ!」
 景一は悲鳴を上げて地面へ崩れる。しかしすぐに起き上がり、凜を涙目でにらみつけてきた。
「もう、姐さん容赦なさすぎっすよ!」
「喧嘩を売られたなら、本気で買わないと失礼でしょう?」
「それもそうっすねぇ!」
 景一は顔についた泥を脱ぐい、再び向かってくる。距離を詰め、間合いを取り。手で掻き切ろうとし、足で蹴り飛ばそうとした。
 けれど、景一の爪は凜に届かない。凜は彼の攻撃を全て避け、代わりに雷を叩き込む。景一は確かに接近戦に長けており、攻撃速度と爪の鋭さには目を見張るものがあった。しかし毎夜の凶悪犯との戦いで戦闘慣れし、なおかつ近接、遠距離どちらもこなせる凜の相手ではない。
 幾度めかの応報の後、景一は地面へ仰向けに倒れた。
「あー、もう無理……ビリビリして動けないっす……」
「どう? 私の実力はわかったかしら?」
「はいぃ……十分分かったっすよぉ……」
 景一は耳をぺたんと下げて起き上がる。と同時に、周囲に張られていた結界が解けた。庭園の風景と共に、呆れ顔の瑠風が現れる。
「終わったのかと思ったら……随分な姿ですね、景一」
「だって凜の姐さん、めちゃくちゃ強いんすってば」
「宵鴉の分隊長なのだから当然でしょう」
 ため息交じりにそう告げて、瑠風はちらと百代に横目を向けた。
「あなたも手合わせしたいなんて言うの?」
「まさか。私は戦闘向きの妖怪ではありませんし」
 そう言って彼はすぐに凜から目をそらし、本邸の方へ歩いて言ってしまった。
「でも姐さん、次は負けませんから。また今度勝負してくださいっすね」
「はいはい、いつでもどうぞ」
 景一へ適当な返事を返しながら、凜は瑠風の消えた方向を見つめ続けた。