翌朝、目を覚ました凜の視界に見知らぬ天井が飛び込んで来た。一拍置いて、蒼雪の屋敷に移り住んだことを思い出す。
目を擦りながら上半身を起こすと、廊下側の襖が叩かれた。
「おはようございます。朝のお支度を手伝いに参りました」
落ち着いた女性の声だった。恐らく使用人の妖怪だろう。凜は「入って」と口にしかけて、手袋を付けていない自分の手の平に気がついた。
「ありがとう。でも自分でやるから大丈夫よ」
「承知いたしました。では、茶の間にご朝食を用意しておりますので、終わりましたらお越しください」
使用人はそう言って、襖の向こうから気配を消した。
凜は布団から起き上がり、箪笥から若草色の着物を出して着替え始める。今までは毎日仕事で軍服に着替えていたのに変な感じだ。
鏡台に置いていた手袋を付けながら、鏡の向こうに映った着物姿の自分を見る。髪を首の後ろで団子にまとめ、着物を着た自分は、まるで普通の女性のようだった。
「私、結婚したのね」
妙な感慨が押し寄せてきて、なんとも言えない心地になる。他者に触れられない異能に、鳴神の鴉の異名。それらを持つ自分は結婚なんてできないと思っていたのに、任務かつ不本意とはいえこうして蒼雪の妻になったことが不思議だった。
「……まあ、どうせ一週間後には追い出されるだろうけど」
凜は自嘲しながら思考を止めて、襖を開けて廊下に出た。
使用人に言われた通り、茶の間に向かって歩いていると、廊下の向こうから蒼雪が歩いてきた。彼は俯き、何かを耐えるように顔をゆがめている。調子でも悪いのだろうか。凜が首をかしげていると、蒼雪はふっと顔を上げた。
目が合った彼は瞬時に苦しげな表情を引っ込めて、飄々とした笑顔を浮かべる。
「おはよう、凜。昨夜はよく眠れた?」
「ええ、おかげさまで。あなたは、具合でも悪いの? 顔色が悪かったけど」
「少し寝不足なだけだよ」
先ほどのはどう見ても寝不足ではないだろう。しかしそれ以上問うても正直に話すとは思えなかったので、凜は追求を諦めた。
「あなたも、これから朝食かしら?」
隣を歩く蒼雪に、凜は別の話題を振る。
「うん。せっかく君が来てくれたから、一緒に食べようと思ってね」
「無理はしなくていいのに。妖怪頭のあなたは忙しいでしょう?」
妖怪頭の仕事の詳細は知らないが、帝東の妖怪をまとめているのなら、当然やるべきことはたくさんあるはず。自分がいるからといって、邪魔をするわけにはいかない。
「まあ、確かに普段は違う時間に朝食をとっているね」
「やっぱり……」
「もっと遅い時間だけど」
「…………」
にんまり笑みを浮かべた蒼雪に、凜は無言で眉間に皺を寄せる。
気を遣った自分が阿呆みたいだ。次からはこの狐に遠慮なんてしてやらないと、凜は心に固く誓う。
蒼雪はしばし凜の反応にくすくす笑っていたが、不意に何かに気づいたように凜の右耳に手を伸ばしてきた。
「凜、ここ……」
ぱしり、と。反射的に凜は蒼雪の手を、手袋をした手で撥ねのけた。
突然の反応に、蒼雪は目を丸くしている。凜ははっとした。
まずい。異能がばれるのを避けるためとはいえ、過剰に反応してしまった。
凜は身を引いたまま、誤魔化すように謝った。
「ご、ごめんなさい。どうかしたかしら」
「いや、後れ毛が出ていたから……」
「そ、そう。ありがとう」
凜は一度髪の毛を解いて結び直すと、蒼雪の方に向き直る。
「これで大丈夫?」
「うん……」
蒼雪は何かを言いたげな顔をしていたが、結局口を開く事はなかった。
深く聞いてこなかったことに感謝しつつ、凜は茶の間の襖を開けた。
茶の間には、朝食用の膳が二つ、向き合う形で用意されていた。起床時間に合わせて用意してくれていたらしく、まだどの料理も湯気が上がっている。
奥の膳の前に蒼雪が座ったので、凜も入り口近くの膳の前に座る。
具だくさんの味噌汁に、ふっくらとしたアジの塩焼き。惣菜の小鉢が三品と、丁寧に巻かれた卵焼きに、茶碗一杯の白米。
朝から豪華な食事の数々に、凜は思わず躊躇ってしまう。
「どうしたの? 食欲がないのかい?」
「いえ、なんだか悪い気がして」
首をかしげる蒼雪に、凜は料理を見つめながら呟いた。
実家の朝食は、ほとんど汁だけの味噌汁と麦飯、魚の干物だった。こんなに豪華な料理を食べられたことは一度もない。なのに自分だけ、いい思いをするのが申し訳なかった。
「大丈夫だよ。君の家族も、今はちゃんとしたご飯を食べているはずだから」
「どういうこと?」
凜は思わず顔を上げた。急な結婚だったため、両親への挨拶は簡易的なもので済ませており、結納金などは受け取っていない。それに凜の表向きの結婚の条件である家族への支援についても、まだ具体的な話は進んでいなかったはずだ。
「そんなに驚かなくても。詳しい話はまだだけど、ひとまず生活の支援はしているよ」
「本当に……?」
凜の問いかけに、蒼雪は微笑みながら頷いた。
「うん、それが君の結婚の条件だっただろう。うちの使用人も数人寄越しているから、今は随分生活が変わったんじゃないかな」
「……っ」
それなら今は、育ち盛りの昌明も、自分や昌明に食事を分け与えていた両親も、十分に食事が食べられているというのか。もう、苦しい思いをしないで済んでいるのか。
胸の奥がじんわりと熱くなっていく。涙が出そうになるのをぐっと堪えた。
相手は事件の容疑者で、これまで何度も言い合いをした蒼雪。弱いところを見せる訳にはいかない。それでも――感謝くらいはしていいはずだ。
「ありがとう、蒼雪」
「どういたしまして」
蒼雪は緩やかに微笑んでいる。
頼もしい、余裕のある微笑みに、彼は妖怪頭なのだと改めて思った。
目を擦りながら上半身を起こすと、廊下側の襖が叩かれた。
「おはようございます。朝のお支度を手伝いに参りました」
落ち着いた女性の声だった。恐らく使用人の妖怪だろう。凜は「入って」と口にしかけて、手袋を付けていない自分の手の平に気がついた。
「ありがとう。でも自分でやるから大丈夫よ」
「承知いたしました。では、茶の間にご朝食を用意しておりますので、終わりましたらお越しください」
使用人はそう言って、襖の向こうから気配を消した。
凜は布団から起き上がり、箪笥から若草色の着物を出して着替え始める。今までは毎日仕事で軍服に着替えていたのに変な感じだ。
鏡台に置いていた手袋を付けながら、鏡の向こうに映った着物姿の自分を見る。髪を首の後ろで団子にまとめ、着物を着た自分は、まるで普通の女性のようだった。
「私、結婚したのね」
妙な感慨が押し寄せてきて、なんとも言えない心地になる。他者に触れられない異能に、鳴神の鴉の異名。それらを持つ自分は結婚なんてできないと思っていたのに、任務かつ不本意とはいえこうして蒼雪の妻になったことが不思議だった。
「……まあ、どうせ一週間後には追い出されるだろうけど」
凜は自嘲しながら思考を止めて、襖を開けて廊下に出た。
使用人に言われた通り、茶の間に向かって歩いていると、廊下の向こうから蒼雪が歩いてきた。彼は俯き、何かを耐えるように顔をゆがめている。調子でも悪いのだろうか。凜が首をかしげていると、蒼雪はふっと顔を上げた。
目が合った彼は瞬時に苦しげな表情を引っ込めて、飄々とした笑顔を浮かべる。
「おはよう、凜。昨夜はよく眠れた?」
「ええ、おかげさまで。あなたは、具合でも悪いの? 顔色が悪かったけど」
「少し寝不足なだけだよ」
先ほどのはどう見ても寝不足ではないだろう。しかしそれ以上問うても正直に話すとは思えなかったので、凜は追求を諦めた。
「あなたも、これから朝食かしら?」
隣を歩く蒼雪に、凜は別の話題を振る。
「うん。せっかく君が来てくれたから、一緒に食べようと思ってね」
「無理はしなくていいのに。妖怪頭のあなたは忙しいでしょう?」
妖怪頭の仕事の詳細は知らないが、帝東の妖怪をまとめているのなら、当然やるべきことはたくさんあるはず。自分がいるからといって、邪魔をするわけにはいかない。
「まあ、確かに普段は違う時間に朝食をとっているね」
「やっぱり……」
「もっと遅い時間だけど」
「…………」
にんまり笑みを浮かべた蒼雪に、凜は無言で眉間に皺を寄せる。
気を遣った自分が阿呆みたいだ。次からはこの狐に遠慮なんてしてやらないと、凜は心に固く誓う。
蒼雪はしばし凜の反応にくすくす笑っていたが、不意に何かに気づいたように凜の右耳に手を伸ばしてきた。
「凜、ここ……」
ぱしり、と。反射的に凜は蒼雪の手を、手袋をした手で撥ねのけた。
突然の反応に、蒼雪は目を丸くしている。凜ははっとした。
まずい。異能がばれるのを避けるためとはいえ、過剰に反応してしまった。
凜は身を引いたまま、誤魔化すように謝った。
「ご、ごめんなさい。どうかしたかしら」
「いや、後れ毛が出ていたから……」
「そ、そう。ありがとう」
凜は一度髪の毛を解いて結び直すと、蒼雪の方に向き直る。
「これで大丈夫?」
「うん……」
蒼雪は何かを言いたげな顔をしていたが、結局口を開く事はなかった。
深く聞いてこなかったことに感謝しつつ、凜は茶の間の襖を開けた。
茶の間には、朝食用の膳が二つ、向き合う形で用意されていた。起床時間に合わせて用意してくれていたらしく、まだどの料理も湯気が上がっている。
奥の膳の前に蒼雪が座ったので、凜も入り口近くの膳の前に座る。
具だくさんの味噌汁に、ふっくらとしたアジの塩焼き。惣菜の小鉢が三品と、丁寧に巻かれた卵焼きに、茶碗一杯の白米。
朝から豪華な食事の数々に、凜は思わず躊躇ってしまう。
「どうしたの? 食欲がないのかい?」
「いえ、なんだか悪い気がして」
首をかしげる蒼雪に、凜は料理を見つめながら呟いた。
実家の朝食は、ほとんど汁だけの味噌汁と麦飯、魚の干物だった。こんなに豪華な料理を食べられたことは一度もない。なのに自分だけ、いい思いをするのが申し訳なかった。
「大丈夫だよ。君の家族も、今はちゃんとしたご飯を食べているはずだから」
「どういうこと?」
凜は思わず顔を上げた。急な結婚だったため、両親への挨拶は簡易的なもので済ませており、結納金などは受け取っていない。それに凜の表向きの結婚の条件である家族への支援についても、まだ具体的な話は進んでいなかったはずだ。
「そんなに驚かなくても。詳しい話はまだだけど、ひとまず生活の支援はしているよ」
「本当に……?」
凜の問いかけに、蒼雪は微笑みながら頷いた。
「うん、それが君の結婚の条件だっただろう。うちの使用人も数人寄越しているから、今は随分生活が変わったんじゃないかな」
「……っ」
それなら今は、育ち盛りの昌明も、自分や昌明に食事を分け与えていた両親も、十分に食事が食べられているというのか。もう、苦しい思いをしないで済んでいるのか。
胸の奥がじんわりと熱くなっていく。涙が出そうになるのをぐっと堪えた。
相手は事件の容疑者で、これまで何度も言い合いをした蒼雪。弱いところを見せる訳にはいかない。それでも――感謝くらいはしていいはずだ。
「ありがとう、蒼雪」
「どういたしまして」
蒼雪は緩やかに微笑んでいる。
頼もしい、余裕のある微笑みに、彼は妖怪頭なのだと改めて思った。

