最終曲を踊り終えた凜は、別室に連れてこられていた。蒼雪は挨拶回りがあるらしく、凜は一人で用意された紅茶を飲みながら部屋を見回す。
 凜が通されたのは、舞踏会の会場の二階にある客室だった。蔓草模様の派手な壁紙に、丁寧に彫刻が施された最高級の調度品。凜が座っているソファは柔らかく、思わず寝そべってしまいたい気分になる。床に敷かれている絨毯もきめ細やかな舶来品だ。
 すべてが見慣れないものばかりで、凜は妙にそわそわしてしまう。茶菓子としてビスケットが用意されていたが、屑を落として汚してしまうのが恐ろしく、とても食べられる気分ではなかった。
 落ち着かない心地で過ごしていると、部屋の扉が叩かれた。返事をすれば、蒼雪が一人で現れた。
「待たせたね。客の見送りに時間がかかって」
 蒼雪はそう言って、部屋の中へと入ってくる。見知った者の姿と声に、不覚にも少しだけ安堵してしまったが、認めたくなくて凜は素っ気なく言葉を返した。
「いいわよ。夜会の主催も大変そうね」
「ああ、もう二度とやりたくないよ」
 彼はジャケットを脱ぎながら凜の正面のソファに腰掛けて、首元のタイを緩めた。頭には獣耳が現れている。かしこまるのは完全に辞めてしまったようだ。
「それじゃ、詳しい話を進めようか」
「いいけれど、あなただけなのね。部下の一人でも連れてこないの?」
「部屋の外で待機させているんだ。この先は、君と二人で話がしたいからね」
 蒼雪は膝に腕をつき、凜をまっすぐに見つめてきた。何かを諮るような目だ。
「さっきも言ったけれど、僕は君を妻にと望んでいる。それは了承するかい?」
「さっきも返事をしたわ。結婚するって」
 凜も蒼雪を見つめ返す。せっかく上手くいっているのだ。おかしなところでも見せて、怪しまれる訳にはいかない。
 しばし、にらみ合いにも似た沈黙が続いた。やがて蒼雪が大きく息をつく。
「どうやら、夢でも冗談でもないみたいだ」
「なによそれ。ここにいる私は本物だし、冗談なんて言ってないわ」
 凜が眉間に皺を寄せると、蒼雪は苦笑いしながら肩をすくめた。
「だって君、仕事一筋で結婚する気がないのかと思っていたから。それだけ家族を大事にしているんだね」
「当たり前でしょう。苦労して私を育ててくれたんだもの」
「へえ。そういうところ、いいんじゃない?」
 蒼雪の言葉に、凜はぎょっとしてしまう。
「なんなのよ、いきなり。今までそんなこと、言ってきたことなかったじゃない」
「だって普段は仕事の話ばかりで、こういう個人的な話をしてはいないだろう。家族思いの君のことを知って、好ましいと思ったからそう言った。それだけだよ」
 確かに彼と会うときは大抵宵鴉の任務中で、話す内容はいつも帝東の情報共有ばかりだった。だからと言って、皮肉ばかりの彼が凜を素直に褒めるなんて。凜は調子を崩されつつも、小さく咳払いをして話題を切り替える。
「そもそもなんで結婚を? しかも人間に限って探すなんて」
「詳しくはまだ話せない。ただ君が家族のために結婚相手を求めているように、僕にとっては人間と結婚することが必要だったんだ」
 胸がすっと冷えていく心地がした。彼は凍鶴曰く、婦女子誘拐事件の容疑者だ。そんな彼に「話せないこと」があるとなれば、疑念を抱いてしまう。
 やはり早く調査をしなければ。家族の事情とは別に、宵鴉としての責任感が湧いてくる
「そう、なら理由はいいわ。今はね」
 凜が目を細めると、蒼雪はわざとらしく眉を八の字にする。
「怖いこと言わないでよ。いずれ暴いてやるとでも言いたげだ」
「そのつもりだけど」
「言い切るなんてなあ。さすがは光堂分隊長様だ」
 蒼雪はへらりと笑っている。暴かれても問題ないと思っているのか、それとも凜には暴けないと思っているのか。その真意はわからない。
「ともかく、これは利害関係の一致による契約結婚だ。僕は君の家族のために、金銭的な支援をする。代わりに君は、僕と結婚して婚姻の儀式をしてもらうよ」
「婚姻の儀ってなに? 結婚式とは違うの?」
 妖怪の婚姻は、人間とは形式が違うらしいとは耳にしていた。とすると、婚姻の儀もその一環なのかもしれない。
「婚姻の儀は、妖怪が伴侶にと願った相手と共に行う契約。これを行うことで、妖怪は相手と夫婦になれるんだ。まあもちろん、人間と同じように結婚式や籍を入れる手続きなんかもするけどね」
「へえ……方法は?」
「別に難しいことじゃない。満月の夜に誓いの杯を交わした後で、口付けをすればいいだけだよ」
「は?」
 口付けと聞いて、凜は固まった。
 それは男と口付けをするという恥じらいや、不仲な蒼雪と恋愛的な接触をしなければならないという不安からではなく。触れた相手の霊力を奪ってしまう、二つ目の異能のせいだ。
 頭から血の気が引いていく。霊力を奪ってしまうのは、なにも手からだけではない。足、腕、頬――唇。素肌ならどこでも、その異能が発動してしまう。だから口付けなんてすれば、一瞬で蒼雪を昏倒させてしまうだろう。
「急に黙ってどうしたんだい? 好きでもない相手と口付けなんて嫌だって?」
「……違うわよ。ただ少し、驚いただけ」
 蒼雪の言葉に返事をしながら、凜は内心焦っていた。
 儀式を行い、凜の二つ目の異能が蒼雪にばれてしまえば、恐らく婚姻関係は解消されるだろう。触れるだけで霊力を奪い、夫を気絶させる女を、妻にしておく者は普通いない。
 故に任務を行えるのは、婚姻の儀式を行うまでと考えた方がいいだろう。
「……その婚姻の儀って、いつやるの?」
「次の満月には済ませたいと思っているよ」
 次の満月――即ち、あと二週間後だ。あまり時間は残っていない。
「なら……一つ頼みがあるのだけれど」
「なんだい?」
 首をかしげる蒼雪に、凜は慎重に言葉を選びながら話していく。
「私、仕事以外で男の人と関わったことがないのよ。もちろん恋愛経験なんて全くないし。だから、今のままだと婚姻の儀式で何か失敗をしちゃうかも」
「そんな大げさに考えなくても。口付けって言ったって、ただ口と口を合わせるだけじゃないか」
 蒼雪は両手でそれぞれ狐を作り、口の部分を合わせている。口付けを表しているつもりなのだろう。
「あなたは慣れているかもしれないけれど、私はそうじゃないの。だから……」
「だから?」
「できるだけ早く結婚の手続きを終えて、あなたと一緒に暮らしたい。あなたに慣れて、いざ口付けする時に緊張しないように」
 蒼雪は、胸の前で狐を口付けさせたまま、目を瞬かせた。
「僕と暮らす? 僕の屋敷に来てくれるの?」
「ええ、準備が終わり次第すぐに行ければ理想的だわ」
 凜が頷くと、蒼雪はこちらに少しだけ身を乗り出してきた。
「それは……僕を知りたいと思ってくれているから? 口付けのために?」
「え、ええ……そうなるわね」
 蒼雪を知れば、自然と彼に慣れるだろうから、答え方は恐らく間違っていないはず。ぎこちなく頷いた凜に、蒼雪はにっこりと微笑んだ。
「君にも案外、可愛いところがあるんだね」
「……悪かったわね、普段は一切かわいげがなくて」
 凜の口が思い切り曲がる。やはりこの狐はいけ好かない。任務でなければ絶対に結婚などしない相手だ。
「まあいいよ。どのみち、こちらからも提案するつもりだったし。部屋は用意しておくから安心して」
「助かるわ」
 実家への挨拶や引っ越しの準備に時間はかかるだろうが、ある程度は調査の時間を確保できるはずだ。
 凜が内心安堵していると、蒼雪が「でも」と口を開いた。
「夫婦として一緒に暮らすからと言って、君が僕を無理に好きになる必要はないからね。今まで通りに接してくれていい」
「えっ?」
 突然の言葉に、凜はつい声を上げてしまった。
 確かに、今のところ蒼雪を好きになる予定はない。凜にとってのこの結婚は、宵鴉としての任務であり、同時に家族と弟のためだ。全てが終わってしまえば切れるであろう関係に、恋愛を要求されないのはありがたい。
 だがそうなると、自分を選んだ時に染まっていた頬は何だったのだろう。
「じゃあ、なんで私を選んだの?」
「……敢えて言うなら、知り合いの君なら一緒にいて気楽だと思ったからだよ」
 蒼雪の回答に、凜は何故だか胸から何かが抜け落ちたような心地になった。