「ふふ、軍服姿の凜を見るのは久しぶりだね」
「そうは言っても、たった二週間程度よ」
 夜。軍服に外套を羽織った宵鴉の制服姿の凜は、屋敷の門前で蒼雪と向き合っていた。彼の後ろには、いつものように景一と瑠風が控えている。
 戸隠の休暇を狙って立てられた捕縛作戦。今夜はその実行日だった。この後、弓達と賀茂がこの屋敷まで来るのを待ち、凜の指揮で戸隠の屋敷へ突入することになっている。その間、蒼雪たちは留守番だ。人を傷つけられない以上、蒼雪はこの作戦には参加できない。
「くれぐれも気を付けてね。君なら上手くやれるだろうけど」
 蒼雪の言葉は、純粋な信頼から生まれたものだった。それを感じた凜の胸に、自然と嬉しさがこみ上げてくる。
「もちろん。東を守る宵鴉として、犯人を捕縛してくるわ」
 彼を安心させるように強く頷く。すると愛雪の後ろから強い視線を感じた。
「なにかしら、瑠風。変なことは考えていないはずだけれど」
 視線の主――瑠風に声を掛ける。また心を読まれて疑われたのかと思ったが、瑠風は首を横に振った。
「いえ、別にそういう話ではないですよ」
「じゃあ、どうして私を見ていたの」
「見直していたのです。あなたのことを」
 瑠風は口元を緩ませながら言葉を続ける。
「確かにあなたは、正しい判断をする人間です。蒼雪様が信頼しているのも納得しました。ですから……よろしく頼みましたよ」
「俺も、姐さんのこと信用してるっすから! バシッと一発かましてきてくださいっす!」
「……ええ、任されたわ」
 瑠風と景一に微笑みながら頷いた時、ぱたぱたと後ろから足音が聞こえた。
「お疲れ様です! 弓達到着しましたぁ!」
「賀茂も到着しました。遅くなって申し訳ありません」
 弓達と賀茂が凜に向かってびしっと敬礼する。どうやら役者は全員揃ったようだ。
「構わないわ。定刻通りだから」
 凜は弓達と賀茂にそう告げると、蒼雪たちの方を一瞥した。
「じゃあ、行ってくるわね」
「うん、健闘を祈るよ」
 凜は手を振る蒼雪に小さく微笑んだ後、外套を翻しながら踵を返す。
 夜闇を睨み、軍帽を深く被り直した。
「宵鴉――出動!」
「「了解です!」」
 号令と共に、弓達と賀茂と夜を駆ける。二週間ぶりのその感覚に、仕事に戻ってきたという実感が湧いた。
 戸隠家の屋敷へまっすぐ走りながら、弓達が小さくため息をつく。
「しかし、戸隠さんが婦女子誘拐事件の犯人だったなんてびっくりですよぉ。確かに最近強くなってましたけど、禁術のせいだったなんて」
「俺もまさか、あの人がとは思いましたよ。しかも分隊長と蒼雪様の結婚が潜入捜査のためだとか、蒼雪様側からこの件に協力要請があったとか……知らなかった事実が色々出てきて、未だに訳が分からないです」
 曰く弓達と賀茂は、戸隠の罪が確定した後――この捕縛作戦の二日前に、凍鶴から全ての事実を聞かされたらしい。しかし頭の整理がつかない状態でも、この作戦の参加を承諾してくれて、凜としては感謝しかなかった。
「色々隠していて悪かったわ。でもついてきてくれてありがとう」
「大丈夫でーす。特別支給がもらえるそうですし。それに今度、凍鶴支部長がお詫びに高級すき焼き奢ってくれるらしいんで」
 楽しげに声を弾ませる弓達に、賀茂はこめかみを押さえている。
「まったく、即物的だな……帝都の平和を守る宵鴉として、罪を犯した者を放置できないのは当然だろう。それがたとえ、仲間だとしても」
「そんなこと言って。賀茂先輩もすき焼きに目ぇ輝かせてたじゃん」
 弓達と賀茂が言い合う後ろで、凜はそっと安堵した。戸隠は共に戦い続けてきた仲間だ。その彼が犯罪者と知り、二人とも少なからず動揺しているのではと思っていたが、その心配は要らないらしい。
 ――大丈夫だ。きっと戸隠を捕まえて帝東を守り、蒼雪の信頼に応えてみせる。
 凜はそう確信し、自信を胸に夜闇の中を駆けていく。
 戸隠の屋敷は、帝都の帝東の北の外れにあった。古くから続く華族の屋敷が集まる場所で、辺りには荘厳な静けさが漂っている。
 凜は門の前に立ち、叩き金を二度叩いてみた。しかし誰かが出てくる気配はない。
「寝てるんですかね?」
 弓達の問いに、凜は眉間に皺を寄せる。
「いえ、だとしても何か変よ。普通、家族か使用人の誰かは気付くでしょう」
 凜の記憶にある限り、戸隠家は光堂家と違って、多くの使用人を抱える裕福な華族だ。それに彼も結婚こそしていないものの、両親とともに住んでいたはず。なのに誰も反応してこないのは、明らかに異常だ。
「嫌な予感がするわね……」
「どうします?」
「異能で強行突破しちゃいますか?」
 確かに凜の雷と弓達の弓の異能があれば、この門を破るのは容易いだろう。しかしそれだと、端から騒ぎになってしまう。
「できるだけ穏便にいきましょう。賀茂、あなたの式神を屋敷の中に潜り込ませて、この門を開けられる?」
「やってみます」
 賀茂が人型を取り出し、犬の式神を顕現させた。賀茂が命令すると、犬はひょいと塀を越えて敷地内に入っていく。門の向こうでしばらくがちゃがちゃと金具が鳴った後、ぎいと音がして門が開いた。
「よくやったわ」
 賀茂に礼を言いつつ、凜は屋敷の門をくぐった。
 戸隠の屋敷は蒼雪ほどではないものの、広い敷地を持っていた。だがそのどこにも、全くと言っていいほど人の気配がしない。例え全員眠っていたとしても、普通は多くの人がいる場所なら、息づかいや微かな音など、感じるものがあるはずなのに。
「使用人や家族はどこへいったんですかねぇ……」
「俺……少し気味が悪いです」
 賀茂はそう言って、自分の腕を抱いている。凜も同じ感想だった。この屋敷は人の気配どころか、虫の声も風の音も感じられない。何かは分からないが、異様な気配が色濃く漂っている。これが蒼雪の言っていた、禁術の気配なのだろうか。得体の知れない恐怖を感じながらも、凜たちは屋敷の捜索を続けていく。
 やがて中庭に辿り着いたとき、大きな木の下に佇む人影が見えた。高い身長にがっしりとした体躯。着物を着た戸隠が、ぼんやりとそこに立っていた。周囲には、十個の庭石が置かれている。
 彼は凜たちに気付いたらしく、くるりと首だけでこちらを見た。
「……なるほど、ついに気付かれてしまいましたか」
 低く、穏やかな声だった。思えば戸隠が凜に対してここまで長く話したのは初めてかもしれない。初めてのまともな会話が尋問というのは皮肉なものだ。
「その言葉……罪を認めていると取ってもいいんですよね、戸隠さん」
「ええ、私が婦女子誘拐事件を起こしました。霊力源奪取の禁術を使うために」
「この屋敷の人々は? 使用人や、家族はどうしたんですか」
「全員、禁術の贄にしました。今この家に残っているのは、私一人です」
 凜の喉が小さく鳴った。この男は、涼しい顔で何を言っているのだろうか。婦女子誘拐事件を起こしただけでなく……家族も、使用人も、この家にいた全員を、禁術を使う為に殺したと?
 ようやく理解が追いついた時には、頭に血が上っていた。
「どうして、そんな恐ろしいことをしたのよ!」
「あいつらが私を、できそこない扱いするからだ!」
 戸隠が中庭に響き渡る程の怒声を上げた。
「両親も使用人どもも、先代たちに比べて力が弱い私を蔑み責めた。力の強さなど生まれつきで変えられないのに、何度も何度も罵詈雑言を並べ立てて。嫁が見つからないのも、宵鴉での地位が上がらないのも、戸隠家が繁栄しないのも、すべて私のせいだと罵った!」
 彼は一度言葉を切り、愉快で堪らないというように笑みを深めた。
「……だから蔵で禁術の方法が書かれた書物を見つけた時に、全員贄にしてやることを決めたんだ。やつらも私の力の源になれるなら、本望だろうよ」
「ならどうして婦女子誘拐事件を起こしたのよ。恨みがあったのは、家族だけなのでしょう」
「家族だけでは足りなかったからだ。私の力を引き上げるにはな」
 戸隠は一度言葉を切り、憎々しげに凜を睨んだ。
「私が恨んでいるのは、家族だけじゃない。光堂分隊長、あなたもだ」
「……確かにあなたは、ずっと私を嫌っていたみたいだったわね」
「当たり前だろう。女のくせにこっちが望んでも手に入らない強力な異能を二つ持ち、若くして分隊長にまで指名された天才。一回りも世代が違う小娘のあなたの下につけと言われたときは、絶望を越えて笑いが出たよ」
 くく、と引きつった笑い声を上げる戸隠は、自分の部下だった寡黙な彼とは似ても似つかなかった。禁術で人の命を奪いすぎて、既に狂ってしまったのかもしれない。
「あなたはいいよなぁ。何もしなくても、力が手に入った天才なんだから。さぞかし今まで、楽に生きてきたんだろう?」
「……そんなはず、ないじゃない」
 確かに凜は、幼い頃から異能を二つ開花させた。もちろんそのお陰でいいこともあったが、悪いことがなかった訳じゃない。
 優しい家族に恵まれたが、お金はいつでも足りなかった。
 鳴神の鴉の異名がつく程の力があったが、女として扱われなくなった。
 霊力を奪う最強級の異能を持っていたが、他人には決して触れられなかった。
 だから凜も、楽だった時など決してない。自分にできる最大限を使いながら、必死にここまで駆け抜けてきただけだ。
「それにいくら他人が憎くても、人殺しを許容する理由にはならないわ!」
 少なくとも凜は知っている。無能と他人に嘲笑され、それでも誠実に生き抜きながら、凜を育ててくれた父親を。戸隠の罪を許すなら、父親のような人の人生を穢すことになる。
「罪を犯した者を捕らえ、帝都の平穏を守るのが宵鴉の使命。だからこそ――」
 凜は手の平に霊力を集中させる。闇の中に、激しい光が閃いた。
「大人しく捕縛されなさい、戸隠!」
 凜の叫びと共に、雷光が戸隠に向かって迸る。
「弓達、賀茂、私に続いて!」
「はーいっ!」
「了解です!」
 弓達が光の矢を放ち、賀茂が犬の式神を五匹召喚する。そこに凜の雷が合体し、戸隠へ攻撃が集まった。だが凜たちの異能は、戸隠の周囲から生まれた、十本の黒い触手のような影にはじき返される。
「なによあれ……!」
 凜は思わず息を呑んだ。黒い影は地面から長虫のようにうぞうぞと立ち上りながら、戸隠を守るようにして蠢いている。
「戸隠さんの呪術、だと思いますけどぉ!?」
「あんなに禍々しいの、使ってたか……!?」
 悲鳴を上げる弓達に、奥歯を噛みしめる賀茂。直前まで彼と働いていた二人とも今の術を知らないなら、ずっと隠していたのだろう。
 思えば蒼雪が、婦女子誘拐事件の被害者は影のようなもので攫われたと言っていた。その影も、この術で生み出されたものなのかもしれない。
 影に守られた戸隠は、くつくつと笑いながら見開いた目を凜に向けた。
「捕まると分かっていて、私がここにいた理由はわかるか?」
「……わからないわ。わかりたくもないけれど」
「私を捕らえるなら、上司であるあなたがくる。だからこそ最期にあなたの霊力源を奪った上で、無能として殺してやるためだ!」
 十本の黒い影が、一斉に凜の方へ飛びかかってきた。
「くっ……!」
 すぐさま雷を出して応戦しようとするものの、影の速度は想像以上に速かった。凜の体は影にはじかれ、あっけなく宙を舞う。
「「分隊長!」」
 弓達と賀茂の叫び声が聞こえた。体が後ろに飛ばされているのを感じる。あと少しで家屋の壁に背中から激突するだろう。凜は覚悟を決めて目を閉じる。
 だが――痛みが訪れることはなかった。
「さて、ここらが頃合いかな」
 争いには場違いな、飄々とした声が耳に届く。銀色の髪が視界に流れ、体がふわりと抱き留められた。凜の胸が、とくりと小さく揺れ動く。
 辺りに青い光が灯る。凜たちを取り囲むのは、数十の狐火だった。
「珍しく苦戦しているみたいだね、凜」
 東の妖怪頭である銀色の妖狐は、誰にも触れられぬ凜の体を横抱きにして、穏やかながらも不敵に微笑んだ。

   ***