数時間前、凜は上司である凍鶴から呼び出しを受けていた。
「呼び出してしまってすみませんね、光堂分隊長」
 執務室に入ると、凜を呼び出した男がやんわりと笑いながら振り返ってくる。
 「宵鴉」東支部支部長、凍鶴(いてづる)千景(ちかげ)。こげ茶の短い髪はまっすぐに整えてあり、切れ長の瞳孔からは明るい茶の瞳が覗いている。丸眼鏡をかけているからか、その印象は柔らかく、初めて会う人間は誰しも、彼が穏やかな好人物だと思うだろう。しかしその本性は強力な氷の異能を持つ異能者で、自分にも他人にも厳しい鬼畜上司だった。軍服の胸に輝く記章は、彼の実力と功績を示している。年齢は今年で四十になるはずだが、その見た目は二十後半と言っても通用するほど若く見えた。
「何の御用でしょうか、凍鶴支部長」
「一つ、君にしかできない仕事がありまして」
 嫌な予感が凜を襲う。
 この穏やかさの皮を被った鬼畜上司を、凜はかなり苦手としていた。
 近年は働く女性もちらほら見かけるようになったとはいえ、陸軍の戦闘部隊である宵鴉に所属しているのは、基本的に男性だけ。東支部も例外なく、女性は凜意外にはいなかった。
 そのため十八で入隊した直後から、凜は女性であることを理由に、凍鶴から様々な仕事を充てられていたのだ。
 令嬢として夜会へ潜入し情報を集めたり、怪しい噂のある女学校に臨時講師として入り内情を探ったり、容疑者が通うミルクホールの給仕になって相手を観察したり。とにかく男では不可能な任務を幾つも当てられていた。
 しかも凜は、無理難題ばかりのその任務を、あろうことかこれまで完璧に完了させてしまっていた。そのため功績だけはやたらと多く、分隊長の地位までもらったが、代わりに凍鶴からの要求が止まらなくなってしまったのだ。
 今回もその手の類いだろう。凜は内心諦めがちに問いかける。
「今回は夜会でしょうか、女学校でしょうか」
 すると凍鶴は柔らかな笑みを崩さず、たった一言凜に告げた。
「東の妖怪頭・蒼雪と結婚してください」
「は?」
 あまりの驚きに敬語を忘れ、素で聞き返してしまった。幻聴かと凍鶴の顔を凝視すれば、彼はもう一度繰り返す。
「光堂分隊長。東の妖怪頭・蒼雪と結婚してください」
 悪夢のようだが、幻聴でも聞き間違いでもないらしい。即座に踵を返してこの鬼畜上司の元から逃げ出したい気持ちだったが、凜はなんとか気力で堪えて問い返す。
「何故ですか」
「いま帝東で噂になっている婦女子誘拐事件。彼はその容疑者なのです」
「蒼雪が? あり得ませんよ、仮にも妖怪頭なのに」
「残念ながら、証言があるのですよ」
 曰く婦女子誘拐事件の現場と思われるあちこちで、蒼雪の姿が目撃されているらしい。更には彼の屋敷から、女子供のすすり泣くような声が聞こえてきたと、近くを通りがかった人間から複数証言があったのだという。
「けれど彼の屋敷には、妖怪以外の者が立ち入ることを許されない。なので調査したくてもできない状況でして」
 帝都の妖怪頭たちは皆、数百年の時を生き、強大な力を持つ者ばかりだ。あの飄々とした蒼雪でさえ、その気になれば帝都を壊滅させられる力を持っている。
 現在彼らは妖怪の権利を守ることを条件に、中央政府と協力関係を結び、人間に手を出さないことを約束していた。だが完全なる従属はしておらず、ある程度の自由を持っている。その筆頭が、屋敷の妖怪以外の種族の立ち入り禁止だ。
「相手を考えると、強行突破もできません。そのため捜査も困っていましてね」
 こめかみに手を当てる凍鶴に、凜は眉間へ皺を寄せる。
「だからと言って、結婚に繋がる理由がわかりません。妖怪以外の立ち入りが禁止なら、結婚相手も妖怪から選ぶのでは?」
「それが彼は探しているそうなのですよ。人間の結婚相手を」
「本当に? ただの噂ではなく?」
 妖怪頭たちの結婚がらみの話は、定期的に話題になっては噂止まりで消えていく。今回の蒼雪の話も、その類いではないのだろうか。
「いえ、今回は本当だそうです。来週行われる蒼雪主催の夜会で結婚相手を選ぶそうで、社交界はその話題で持ちきりですよ。知らなかったのですね」
「当たり前でしょう」
 朝も夜も仕事漬けの日々を送る凜は、社交界に疎かった。夜会なども、仕事以外でほとんど顔を出したことはない。そのためそこで流れている情報など、凜に知るよしもなかった。もっとも蒼雪関連の情報など、敢えて知りたいとも思わないが。
「ということで、光堂分隊長はまず蒼雪主催の夜会に出て、蒼雪の結婚相手に選ばれてください。そして蒼雪の家に潜り込み、その内情を探ること。それが今回の任務です」
 凍鶴は机に両肘をつき、笑みを深める。至極穏やかな笑顔なのに、何故かぞくりと寒気がした。その視線からは、否と言わせぬ圧を感じる。
 しかしいくら命令でも、結婚なんて――しかもあの蒼雪となんて冗談じゃない。今までの潜入捜査とは訳が違うのだ。下手をすれば、人生が変わってしまう。
「申し訳ありませんが、その任務、お断りさせてください。そもそも私には無理ですから」
「なぜ? あなたなら妖怪だらけの屋敷に入って問題が起こっても、異能でなんとかできるでしょう」
 凍鶴の表情が一瞬にして険しくなる。氷の矢のような視線が、凜の体を貫いた。しかしそれに怯むことなく凜は告げる。
「それ以前の問題です。私が彼に夜会で選ばれることなど、あり得ません」
「どうしてそう思うのです?」
「私と蒼雪の関係はあまりよくないので」
 妖怪頭の蒼雪とは、会うたびに幾度も言い争いをしていた。蒼雪の常に人を食ってかかったような態度が、凜には至極気に入らないのだ。お陰で何かと喧嘩腰になってしまうので、恐らく彼も凜のことを好いてはいないだろう。
 しかしそれを告げても凍鶴は余裕の表情を浮かべている。
「そのようなことはないと思いますけれどね。妖怪は力のある者を好むといいますし、女でありながら強力な異能を持ち、宵鴉の小隊長を勤め、『鳴神の鴉』なんて異名を付けられているあなたに興味がないはずありません」
「ですが、強すぎるのもよくないでしょう。そもそも私はもう一つの異能のお陰で他人に触れることができないんですよ」
 そう。凜は雷の異能とは別に、もう一つ異能を持っていた。
 ――触れた相手の霊力を奪う異能。
 霊力とは妖怪や異能者が能力を発動する際の力の源であり、量は違えどすべての生物の体に存在している。一般的には気とか活力とか呼ばれているものと同じものだ。
 凜の異能はその霊力を、素肌で触れることによって問答無用で奪ってしまう。霊力を奪われた相手は力を失い、無気力状態になるか、下手をすれば気絶する。霊力を生み出す機能を奪うわけではないので、時間が経てば元に戻るが、それでも相手へ一時的に大きな損害を与えることには違いない。
 この異能は強力だが危険すぎるゆえ、知っているのは家族と上司の凍鶴、そして部下である三人だけだった。そのため仮に結婚の約束自体は取り付けられたとしても、いずれ異能がばれてしまえば全てが白紙に戻る可能性が高い。相手が相手だけに、自分の命さえ危ぶまれる。
「ですので私には不可能です。別の捜査方法を考えてください」
「それができるならあなたにこんな頼みをしていません。それに異能については言い訳をして初夜を延ばすとか、いくらでも誤魔化せるでしょう。ともかくあなたは、蒼雪が黒か白かの情報を集めてくるだけでいいのですから」
「しかし――」
「ちなみにですが」
 さらなる言い訳をしようとしたところで、凍鶴はにっこり笑って凜の言葉を遮った。
「この仕事、特別手当が出ます。任務期間中、あなたの給金を五倍に」
「…………」
 特別手当と聞いて、凜の言い訳がぴたりと止む。凍鶴は机の上の小さな紙に、さらさらと数字を書いて凜に渡した。
「加えて見事蒼雪の罪の有無を調査しきり、任務を達成した暁には、特別支給を追加でそれほど。さらに希望する場合は離婚の手続きと諸々の調整は全て宵鴉、および国が行って差し上げます。あなたに不利益が残らないように」
「…………」
「弟さん、もうすぐ異能学校に通う年齢ですよね?」
 渡された紙に書かれた金額と、にこにこと笑みを浮かべる凍鶴に、凜は首を縦に振らざるをえなかったのだった。

   ***