夜、湯浴みを終えて寝室に向かうと、既にそこには蒼雪がいた。下半身に布団をかけ、行灯の明かりで本を読んでいる。凜が入ってきたと気付いた彼は、本を閉じて手招きをしてきた。
「また少し、霊力が溜まってしまったんだ。吸い取ってくれない?」
「ええ、いいわよ」
 凜は蒼雪の隣へ座り、手袋を取って彼の手に自分の指を絡めた。蒼雪は目を閉じて、穏やかな表情を浮かべる。
「ふふ、ありがとう。とても気持ちいいよ」
「……婚姻の儀を行えば、霊力が安定するんじゃなかったの?」
「それなのだけれどね。確かに前よりも霊力が溜まる量は減ったのだけれど、元々溜まる量が多かったからか、その量が多少減ったところで安定するとはいかなくて。だから本当に、君がいてくれて助かった」
「そう……」
 凜は返事をしながら、蒼雪と繋がった手を見下ろした。
 素肌の温もりが、彼の指先から伝わってきた。温かくて、優しくて、きっと幸せとはこういう感覚なのだろうと思い知る。だが一方で、昼間のことを思い出し、胸に暗い影が差した。
「どうかした?」
「……なんだか、申し訳なくて」
 瑠風が凜の事情を知ったのは、屋敷に来た当日だと言っていた。だから蒼雪も、あの日から凜の嘘に気付いていただろう。なのに屋敷に招き入れ、凜が調査をするのを黙認し、しかも凜の実家の資金援助までしてくれている。
 蒼雪には怒って凜を糾弾する資格さえある。なのにこうして受け入れてくれているのが不思議で、とても申し訳なく感じていた。
「本当は、宵鴉だって辞めていない。凍鶴支部長からの極秘任務だから、他の隊員には辞めたと言っているけれど。嘘ばかりの私なのに、どうして蒼雪は何も言わないの?」
「なにかと思ったら。別に悪いことばかりじゃないからね。現に今も、君は僕を助けてくれているだろう?」
 蒼雪は繋いだ手を持ち上げる。けれど凜は首を振った。
「妖怪頭の名誉を傷つけた不届き者として捕まえておいて、異能だけを搾取することもできるでしょう」
 凜の言葉に、蒼雪は目を瞬かせる。それからくすくすと笑い始めた。
「君も女の子らしく悩むことがあるんだね」
「どうして笑うのよ。私は真剣なのに」
「ごめん。可愛らしくて、つい」
 蒼雪は繋いだ手を離すと、凜の髪の毛を一房掬った。
「昼間に話そうとした、君との結婚を白紙に戻さなかった理由。あれはね、僕がずっと君に惹かれていたからだよ」
 彼の口から突然とんでもない言葉が出てきて、凜は思わず目を剥いた。
「ひ、惹かれる……? 嘘でしょう……?」
「本当さ。出会った時から気になっていて、夜会の時には僕のものにしなければと思いはじめたんだ」
 蒼雪は凜の髪に口付けた後、するりと手を離す。けれどその一連の行動も、凜の頭には入っていなかった。
「嘘よ。だって……だってあなた、ずっと私をからかっていたじゃない。皮肉ばかり言って……惹かれていたなんて、そういう態度じゃなかったわ!」
「悪かったよ。君が刃向かってくれるのが嬉しくて、つい。僕みたいな妖怪頭に、対等に渡り合おうとしてくれる人なんていないからさ。初対面で呼び捨てされたのなんて、何十年ぶりだったかな」
「うっ、それは……ごめんなさい……」
 蒼雪に初めて会ったときは、犯人を捕らえた直後だった。そのせいで気が抜けていたのもあり、同年代に見えた蒼雪をつい呼び捨てにしてしまったのだ。後から思い返して、数百年を生きる妖狐に適当な態度を取ってしまったと真っ青になったのを覚えている。だがその後、やたらと憎まれ口ばかりを叩いてくる彼に呆れかえり、呼び方を戻す機会を逃していたのだ。
「いいよ、僕にはあれが嬉しかったから。そうして何度も話すうちに、君との時間が心地よくなって。夜会に君がいるのを見つけたときは、もう駄目だった」
 彼の青い瞳は、微かな熱を帯びていた。その熱をまっすぐ凜に向けながら、彼は言葉を続ける。
「霊力を安定させるために婚姻の儀を行うだけなら、誰でもよかった。でもその先を考えれば……君がよかった。君が僕を好いていないのは感じていたし、結婚したらそれまでの心地いい関係が崩れるかもしれないと思ったけれど……それでも、君を選びたくなってしまったんだ」
「でも、あの時あなた、『自分を好きになる必要はない』って言ってたじゃない」
「それは君の話で、僕が君を好きにならないとは言っていないよ。あの時はああでも言っておかないと、変に君が態度を変えると思ったから」
 言われてみればそうかもしれない。態度が甘くなった蒼雪にさえ好きと言われれば驚いてしまうのだ。夜会の時に言われていれば、裏があるのかと警戒していただろう。
「僕は僕を対等に扱ってくれる、鳴神の鴉である君が好きだったんだ。君に態度を変えられるのは本意じゃない。だから初めは婚姻の儀さえ終えてしまえば、君が離婚を切り出しても手放すつもりでいたんだよ」
「初めは……?」
「うん、初めは。今は違うよ」
 蒼雪はそう言って、凜の手を取り自分の方へ引き寄せた。腰に手を回され、凜は蒼雪の腕に抱きしめられるような形になる。
「君と一緒に過ごして、鳴神の鴉じゃない、女の子としての君の姿を見て。僕はもっと、君のことが欲しくなった。異能の事を知ったときは、運命だと思ったよ。だから、夜会で言った『好きになる必要はない』って言葉は撤回したい」
「……っ」
 蒼雪の頬が赤く染まっている。それが行灯の光のせいだけではないことに気付いてしまい、凜の胸が小さく鼓動を打ち始めた。
 これは夢だろうか。他者が自分に触れ、想いを囁いている。誰かと男女の仲になるなんて生涯縁遠いと思っていたのに、まさかこのような時が訪れるとは驚いた。驚きすぎて……涙が溢れてきてしまう。
 静かに涙を流す凜を、蒼雪はそっと、強く抱きしめた。
「事件が解決していないから今は言わないよ。けれど終わったら……覚悟しておいて」
 耳元で囁かれ、さらに涙がこぼれ落ちた。
 ずっと諦めていたものが、今はすぐ傍にあるのを感じる。
「……ずっと憎まれ口ばかりだったくせに、ずるいわ」
「これからは格好いいところも見せないとね」
 背中を撫でる蒼雪の優しい手に幸せを覚えながら、彼の胸に身を委ねた。

   ***