屋敷に戻った蒼雪は、鼻歌交じりに別邸にある執務室へと向かった。扉を開けると、中の長椅子で仕事をしていた景一と瑠風が振り向いてくる。
「お帰りなさい、蒼雪様」
「なんかご機嫌すね。外出中に、いいことでもあったんっすか?」
「まあ、少しね」
「ふーん?」
 景一が長椅子を立ち、蒼雪の方へ近づいてきた。耳をぴんと立て、匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせている。
「んんと、これは……凜の姐さんと茶屋に行ったっすね!」
「正解。出かけた帰りに街で会ってね。茶屋に寄って二人で帰ってきたんだ」
「おおーっ! なんだかんだで、仲良しじゃないっすか!」
 目を輝かせる景一の後ろから、瑠風がじっとり横目で睨んでくる。
「蒼雪様。多少の息抜きなら構いませんが、あまり度を超しすぎないように。例の事件の情報は、まだ掴めていないでしょう」
「それが、そっちもいい情報が入ったんだ。凜のお陰でね」
「……っ!」
 景一と瑠風に緊張が走った。蒼雪は自席に座って口角を上げ、言葉を続ける。
「宵鴉で凜の元部下の戸隠。今日会った彼から、微かに禁術の気配がした」
「ならば、その人物が例の事件の……?」
 身を乗り出してくる瑠風に、蒼雪は深く椅子に座りながら答える。
「関わってはいるだろうね。けれど、どういう立ち位置かはわからないから、調べてもらいたい。相手は宵鴉の一員だから、慎重にいくように」
「分かりました。すぐに手配しましょう」
 頷く瑠風の横で、景一が不安そうに眉を下げた。
「あの、凜の姐さんは大丈夫なんっすか? 戸隠ってやつが姐さんの元部下なら、姐さんも何か関わってたり……」
「それはないよ。関わりのあるのは戸隠だけで、同じ分隊だった凜と他の二人は恐らく何も知らないだろう。もしかすると宵鴉の誰一人、気付いていないかもしれないね」
 なにしろ蒼雪が察知した禁術の気配は、数百年前に失われたとされていたもの。蒼雪のように長い刻を生きる大妖怪ならともかく、寿命の短い人間たちは例え何かに気付いても、それが禁術とは思わないだろう。
 だからこそ、慎重にならねばならない。
「まずは戸隠の周囲を調べてほしい。絶対に宵鴉には気付かれないようにね。何も見つけていない段階で気付かれれば、こちらが余計に怪しまれてしまうから」
「わかりました」
「りょーかいっす!」
 蒼雪の命令に、瑠風は頭を下げ、景一は敬礼をして、部屋から出て行った。
 一人になった蒼雪は、小さく息をつく。そのとき体の奥からぶわりと抗いがたい力がせり上がってきた。蒼雪は大きく目を見開く。
「くっ……!」
 尻から九本の尾が生え、指の爪は獣のように鋭く変わっている。伸びた犬歯で唇が傷つき、血が流れた。
「駄目だ、耐えないと……!」
 頭を強く抑えながら荒い息をつき、体を押し破って出てきそうなものを必死に耐える。しばらくすると体内で暴れていた霊力も静まってきて、尾や爪も元に戻っていった。
 深く深呼吸をした蒼雪は、椅子の背にもたれかかる。
 蒼雪は体内で生み出される霊力が、他の妖怪よりも数十倍多い体質だった。だからこそ大妖怪となり、かつてはその膨大な力を振るって妖怪を守り、人々からの畏怖を集めていた。
 だが時代は変わり、百年前から妖怪と人との共生が公に認められた。蒼雪も東の妖怪頭として中央政府と協力関係を結び、妖怪を守るという条件で、必要時以外にはその強大な力を振るわないことを約束している。
 そこで問題が発生した。以前は自由に力を振るい、発散させていた霊力が、体内に溜まる一方になってしまったのだ。それでも普通の妖怪では大した問題にはならないが、蒼雪の体質では体が受け止めきれないほどに霊力が溜まっていく。結果として人間と妖怪が和解して百年経った今、蒼雪は先ほどのように霊力を暴走させてしまうようになったのだ。
 妖怪頭が暴走しかけているなどと人間たちに知られれば、中央政府に敵視され、妖怪たちの立場も危うくなる。故に蒼雪は力の暴走を外には漏らさず、一人で必死に耐えていた。
 婦女子誘拐事件に、自分の力の暴走。解決せねばならない問題は山積みだ。
 けれど、と蒼雪は、机の端に置かれた書類を見て小さく微笑む。それは婚姻の儀のために用意した品々の納品書だった。
「あと三日だ。そうすれば、凜と婚姻の儀が行える」
 婚姻の儀さえ行えば、力の暴走の件は解決するだろう。妖怪は人間と婚姻の儀を行うことで、霊力が増加する速度が遅くなり、力が安定すると言われている。故に劇的な改善はしないとはいえ、急激な悪化は避けられるかもしれない。少しでも残り時間を増やすため、蒼雪は人間を結婚相手に選んだのだ。
「でも、今日は失敗したかな」
 凜の調査が終わるまで、攻めることはせず、つかず離れずでいると誓ったはずだった。なのに彼女が自分の前ではしない姿で、元部下の男たちに会っているところを見て、激しい嫉妬に駆られてしまった。結果的にやや強引な態度を取ってしまったのは反省せねばならない。
「それでも、茶屋には行ってくれてよかった」
 蒼雪はふっと頬を緩めながら、茶屋での出来事を思い出す。
 彼女の手を引いて茶屋へ行き、羊羹と茶を注文した。彼女は仕事以外で茶屋に行ったことがないらしく、初めはそわそわしていたが、出てきた羊羹を口に含むと、ぱっと目を輝かせていた。
「なにこれ、すごく美味しいわ!」
 声を弾ませながら羊羹を頬張る姿は、軍人でも強力な異能者でもない、普通の女性のようだった。先ほど会った凜の部下の男たちは、そんな彼女の姿も知らないのだろうと思うと優越感が生まれ、嫉妬心もどこかへ消えてしまっていた。
「初めは苛立ちもしたけれど……結果的に、楽しい時間だったよ」
 けれど一方で、気になることも増えていた。
 触れられることに対する凜の反応が、以前より過剰になった気がするのだ。
 確かに蒼雪が急激に距離を詰め過ぎたのも理由の一つだろう。しかしそれとは別の理由もある気がする。触れた時の彼女は、恥じらいや戸惑いなどではなく、何かを恐れているような反応だったから。
 当初凜は婚姻の儀の口付けで緊張しないように慣れるためという口実で、蒼雪の屋敷に早めに越してきたいと願っていた。今思えば、蒼雪の屋敷を調査するため言い出したことなのだろうが、それにしても違和感がある。確かに早いに越したことはないが、例え遅く越してきたとしても、屋敷の捜査ができることには変わりないのだから。
「まさか……婚姻の儀の後に、自分が追い出されると思っているとか?」
 触れられることに対する何かがあって。それが原因で口付けをした時に何かが起こり。追い出されると思っているとか。そう考えれば、全てのつじつまが合う。
 一体、彼女に何があるのか。
 触れることに関しては、瑠風が心を読んでも分からないらしく、未だ情報は掴めていない。それでも。
「婚姻の儀だけは、してもらわないと」
 再びぐつりと、体の奥で霊力が疼いた。正直もう、あまり長い間耐えられそうにはない。今更、凜以外の別の人間を探している余裕もないし、探す気もなかった。
 凜が何を抱えていようと、婚姻の儀は執り行う。それがこの契約結婚の蒼雪側の条件であり、霊力暴走問題を解決する、現状唯一の方法なのだから。
 頭の中に、羊羹を無邪気に頬張る凜の姿が浮かんでくる。
 彼女が何を隠して、何を恐れているのかは分からない。けれどできればあの笑顔を、手放したくないなと蒼雪は思った。

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