凍鶴と別れて四半刻。凜もホットミルクを飲み終えて、ミルクホールを後にした。蒼雪の屋敷に向かって馬車や車が往来する通りを歩いていると、後ろから声がかかる。
「あれぇ、光堂分隊長じゃないですか?」
 振り向くと、弓達と賀茂、戸隠の三人がいた。三人とも軍服に黒い外套を織っている。見回り中のようだ。もはや懐かしいとも言える部下の顔に、凜は頬を緩ませる。
「私はもう分隊長じゃないでしょ」
「あっ、本当だ。なら光堂さん?」
「馬鹿。結婚したんだから、光堂でもないだろう」
 首をかしげる弓達の横で、賀茂がため息交じりにそう言った。
「凜でいいわよ。それにしても、なんだか久しぶりね。元気にしていた?」
 凜の問いかけに、弓達は指を二本立てて満面の笑みを浮かべた。
「もっちろんです! 初日は凜さんがいなくて大変だったんですけど、ちょっとずつ慣れてきましたから」
「大抵の問題は、調子に乗った弓達が原因で起きますけどね。まあなんとかやれています。戸隠さんも、分隊長として頑張ってくれていますし」
 賀茂の言葉に、凜は思わず目を瞬かせた。
「今の分隊長は、戸隠さんなの?」
「……なにか、問題でも?」
 それまで黙っていた戸隠が、仏頂面で凜を見下ろした。
「いえ、そういう訳ではないけれど……」
 戸隠は呪術師の家系の生まれで、本人も主に呪術系の異能を使う。しかし凜の記憶にある限り、戸隠は自分が抱えていた部下の中では、最も霊力が低かったはずだ。異能も他者の身体強化という補助的な効果が中心で、宵鴉で評価されるような、攻撃系の異能ではない。なのに分隊長へ昇進したと聞いたものだから、少し驚いてしまった。
 戸惑う凜に、弓達がこっそり耳打ちしてくる。
「実は戸隠さん、最近妙に強くなったんですよねぇ」
「あら、どんな風に?」
「前は補助系の呪術ばかりだったのが、最近は攻撃系の呪術も使えるようになったみたいで。俺は彼女でもできて、気持ちが舞い上がってるんじゃないかって思ってるんですけど。ほら、ずっと独身だったし、ついに春が来たのかなって」
 弓達がにやにやしながら戸隠を横目に見る。凜は小さくため息をついた。
「下世話な推測はやめなさい」
 凜は弓達の傍から離れ、戸隠の方へ向き直る。
「変な反応をしてごめんなさい。少し驚いてしまって。改めて分隊長就任おめでとうございます、戸隠さん」
 戸隠を見上げて、手を差し出す。戸隠は凜の顔と手を見比べて、「はい」と無表情のまま手を握り返した。
「戸隠さんって、なんで前から凜さんには無口なんだろうねぇ?」
「さあ。俺たちとは普通に話すのにな」
 弓達と賀茂のひそひそ話が、凜の心をぐさりと突き刺す。
 確かに戸隠は、凜の前ではいつも仏頂面で、口を開いても一言二言しか話さなかった。故に好かれていない自覚はあったが、改めて他者に言われると傷ついてしまう。
 内心苦笑いしながら戸隠の手を離したところで、突然肩にぽんと手が乗った。
「おやおや、我が婚約者殿はこんなところで逢い引きかい?」
 穏やかな、それでいて凍り付きそうな冷ややかな声に、凜の背筋がぞくりと粟立つ。戸隠が大きく目を見張り、弓達と賀茂の顔が真っ青になった。
「あっ、蒼雪……奇遇ね、こんなところで」
 凜はぎこちない笑みを浮かべ、蒼雪を見上げる。彼はぞっとするほど美しい笑みで凜を見下ろした。
「ちょうど用事を済ませて屋敷に戻るところだったんだ。そうしたら君が、僕の見たことのないようなお洒落をして、男と話しているじゃないか。どういうことだい、これは?」
「その、少しミルクホールに行ってきたのよ。気分転換をしたくて。その帰り際に、知り合いに会ったから。この服は、和装だと動きにくいから着替えただけよ」
「ふぅん、そうなの」
 蒼雪は凜から宵鴉の三人へと視線を移した。
「……この三人、君の元部下だよね?」
「ええ。会ったことはあると思うけれど……一応紹介するわ。茶髪が弓達で、黒髪は賀茂、背の高い人は戸隠さんよ」
「へえ……」
 蒼雪は弓達、賀茂と視線を移す。そして最後の戸隠を目にした時、その目がすっと細められた。
「どうかした、蒼雪?」
「別に。確かに見たことある顔だなと思っていただけだよ」
 蒼雪は興味を失ったように三人から目をそらすと、凜の肩を抱き寄せた。
 反射的に凜の体が硬直し、宵鴉の三人は息を呑む。凜の霊力を奪う異能の存在を知っているからだ。しかし蒼雪が触れたのは服の上からであり、彼の体に異変は見られない。
「君、緊張しすぎだろう」
 唯一事情を知らない蒼雪は、不可解だとでも言いたげに眉を潜める。
 ――こちらの気も知らないで。
 そう言いたくなるのを堪えながら、凜は笑みを貼り付けた。
「男の人に触れられるのは、慣れてないもの」
「そう、ならこれから慣れていくといいよ」
 蒼雪は何故か満足そうな顔をして、凜の肩を掴む手に力を込めた。そして宵鴉の三人に向かって、ひらひらと手を振る。
「それじゃあ、凜はこのままもらっていくから。君たちも分隊長だった彼女のように『誠実に』職務に励むことだね」
 やけに棘のある言い方をして、蒼雪は凜の肩を抱いたまま踵を返した。凜は半ば強引に蒼雪に連行され、三人の元を後にする。
 しばらく歩いたところで、蒼雪がわざとらしく声を上げた。
「酷いなぁ。結婚相手がありながら、男と会うなんて」
「たまたまと言ったじゃない。それにあなたも、大して悲しんでいないでしょう」
「そんなことないさ。君は僕と婚姻の儀を行う、大事な人なのだから」
 蒼雪の笑みは先ほどと打って変わって柔らかい。思わずどきりと胸が高鳴り、凜は慌てて話題を変えた。
「ところで、どうして肩を掴んだままなのよ」
 肩に触れられていると、ふとした拍子に袖がずれて、素肌が蒼雪の手に当たってしまいそうで怖かった。ようやく泣き声の手がかりを掴み、彼の屋敷の秘密を暴く準備をしている段階の今、霊力を奪う異能が蒼雪にばれるのはまずい。
「ん? 君との仲を、見せつけておこうと思ってね。こうしておけば、君に近づく男もいなくなるだろう? さっきの元部下くんたちのようにね」
 飄々とした蒼雪の発言に、凜は眉間に皺を寄せた。
「……私への当て付けかしら」
「ただの独占欲だよ」
「また冗談を……」
 凜は大きくため息をつく。なにが冗談で、なにが本心か。蒼雪と話していると、それが全く分からなくなる。けれど振り回されるのも癪なので、凜は全て冗談と決めつけることにした。
「とにかく、歩きにくいから肩は離して」
「分かったよ。ならこっちで」
 蒼雪は仕方なさげに言いながら、手袋をした凜の手に、自分の指を絡めてきた。
「せっかくだからさ、このままどこか茶屋でも寄らない? この辺りに、美味しい羊羹を出す店があるって聞いたんだ」
 蒼雪は心なしか楽しげに、凜の手を引く。
 凍鶴から呪符を受け取らない限り調査の続きはできないし、喫緊でやらなければならないことも他にない。仮にも夫からの誘いを、明確な理由もなく断るのは怪しまれる原因にもなる。
「別に、いいけど……」
「じゃあ決まりだ」
 蒼雪は嬉しそうに微笑みながら凜の手を強く握った。
 繋いだ蒼雪の手は大きく、温かい。その温もりを手袋越しにしか感じられないことに、何故だか酷く虚しさを覚えた。

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