「はは、やっぱり凜は見ていて飽きないな」
 一目散に走り去った凜を眺めながら、蒼雪は微笑む。その後ろで、瑠風が眉間に皺を寄せた。
「本当にいいのですか。彼女、あなたを婦女子誘拐事件の容疑者として調べているのですよ。結婚を受けたのも、それが理由なのに」
「前にも聞いたよ。でも、建前にしていた家族の話も本当でしょう?」
「それも視えましたが……それはそれです」
「まったく、瑠風は凜に厳しいね」
 瑠風はサトリの妖怪で、相手の思考を読み取る力を持っている。凜がこの屋敷に来た時、その思考を読んで彼女の結婚の目的が宵鴉の調査だという事を知った瑠風は、蒼雪に結婚を考え直すよう告げてきたのだ。けれども蒼雪は、撤回しなかった。
「僕としては、好きに調査してもらって構わないよ。実際、犯人ではないのだから。隅から隅まで調査して、彼女が納得すればそれでいい」
「ですが、『あの人たち』が見つかったらどうするのです。この馬鹿狼のせいで私が結界を張れるのは知られてしまいましたし、蒼雪様が変な言いがかりを付けられたらたまりません」
 瑠風は景一を睨みながらそう告げる。しかし蒼雪は大して気にもしていない様子で答えた。
「そのときはこちらに引き入れてしまえばいいよ。凜は見ただけで決めつけるような人間じゃない。事情を話せば、正しい判断をしてくれるはずだ」
「どうしてそこまで、彼女に肩入れするのです」
 すると景一が目を瞬かせて首をかしげた。
「そんなの、蒼雪様が凜の姐さんを好きだからに決まってるっす! ね、蒼雪様」
 まっすぐな景一の言葉に、思わず蒼雪は吹き出してしまう。
「まあ否定はしないけど。でも、単に好きだからというわけじゃないよ」
 凜と初めて出会ったのは一年前。満月の美しい夜だった。
 その日分隊長に任命されたばかりだった彼女は、部下たちに命令を飛ばし、自信も雷の異能を使いながら、鮮やかに目標の犯罪者を捕縛した。女の身ありながら強く凜々しく力を振るうその姿に、蒼雪は一瞬にして目を奪われてしまった。
 強い力に惹かれる妖怪の本能も相まって、彼女に興味が湧いた蒼雪は、戦い終えたばかりの凜に声を掛けた。すると凜は大して興味もなさそうに言ったのだ。
「ふぅん、あなたが東の妖怪頭の蒼雪?」
 人間が、しかも女が。初対面で妖怪頭の自分を呼び捨てにするなんて。
 思わず笑みがこぼれてしまった。
 彼女からすれば、なんでもないことなのかもしれない。蒼雪の見た目は凜と大して変わらない年齢ゆえに、同世代にでも話しかけたつもりだったのだろう。けれど過去から今に至るまで、大妖怪という立場のせいで、妖怪にも人間にも距離を取られて退屈していた蒼雪には、新鮮な反応だった。
 余計に興味が惹かれた蒼雪は、それから凜に何度も声を掛けた。つい意地悪をしてしまったことは謝ろう。恐れず面と向かって反抗しようとしてくる彼女の反応が嬉しかったのだ。
 凜は妖怪や人間、異能者の違いに囚われず、正しいものを見極めて罪を裁こうとする、優秀で信頼できる宵鴉の分隊長だった。関われば関わるほどにその一面を知った蒼雪は、同じ帝東を守る者として、いつしか信頼を置くようになっていく。そして信頼と同じくらい、彼女に情を抱いていた。
 故に自らの抱える問題が顕在化し、人間と結婚して婚姻の儀を結ぶ決断をしたとき、真っ先に頭に浮かんだのは凜だった。
 けれど蒼雪は、彼女を選ばなかった。結婚してしまえば、それまでの心地よい関係が崩れてしまうかもしれない。唯一自分に遠慮せず向き合ってくれる相手を、自分から失うようなことはしたくなかった。
 凜でないなら、誰でもいい。
 その考えで夜会を開き、適当に相手を選ぼうとしたのに、どうしてか凜が候補としてやってきた。
 今の関係を変えたくない。そう思っていたはずなのに、夜会で凜を見た途端、それ以外の女はどうでもよくなってしまった。そして蒼雪に選ばれなければ他の妖怪の元に行くと聞いて、頭が沸騰しそうなほどの怒りを感じた。いつの間にか彼女への情は、無視できないものになっていたらしい。
 だからこそ凜を、婚姻の儀の相手に選んだ。その後に彼女の事情を瑠風から聞いたが、逆に納得してしまった。家族のこともあるのだろうが、それを考慮しても何か特別な理由がない限り、彼女が自分のところへ来るはずないと思っていたのだ。だって彼女は、自分を好いていなかったから。
 瑠風は呆れたような顔でため息をつく。
「……蒼雪様があの人を好いていたのは知っていますが。今のままだと調査が終わった後に、離縁されかねませんよ。それでいいのですか」
「別に凜がそうしたいなら構わないさ。所詮、人間の婚姻関係なんて、書類上の繋がりでしかない。あの子は婚姻の儀の本当の意味も知らないのだろうし、成立させてしまえばこっちのものだよ」
 体の奥で、熱く煮えたぎるような力が蠢いている。耐え難い熱が湧き上がり、ぐらりと大きく頭が揺れた。蒼雪は頭を抑えながら、にたりと妖しい笑みを浮かべる。
 婚姻の儀は、今蒼雪が悩まされている問題を解決する手段であり、同時に魂と魂を結ぶ儀式。一度結べば、儀式で契約を解除するか、どちらかが死ぬまで解除されない。だから例え凜が任務を終えて離縁を申し出てきたとして、それと全く違う契約である婚姻の儀の繋がりは続く。
 続いたからと言って、凜の方に大きな不利益があるわけではない。せいぜい他の妖怪と結婚できなくなるくらいだ。自分の問題も婚姻の儀を結んでいる限りは深刻化しないだろうし、一石二鳥だろう。
「離縁をしたとしても、婚姻の儀を結んだ時点で、あの子の魂は僕のもの。それだけでも十分幸せだよ」
 不気味に微笑む蒼雪に、瑠風は眉間に皺を寄せた。
「……あなた、時々怖いことを言いますよね」
「妖怪なのだから、普通でしょう」
「鳴神の鴉にばれたら、なんと言われるか」
「そんなヘマはしないさ。狐は人を騙すのが得意だからね」
 とはいえ、と。蒼雪は渡り廊下を渡りながら、凜が来てからのことを思い出す。
 口では離縁されても構わないと言ってはみたが、結婚してからの彼女は、今まで知らなかった顔をたくさん見せてくれた。
 優しくされて戸惑う顔。家族を思う優しげな顔。自分の失敗を恥じらう顔。
 強く美しい宵鴉としての彼女ではない、ごく普通の女性のような顔を見せる彼女を知り、もっと色々な表情を見てみたいと思うようになっていた。触れられるのをやたらと避けようとするのは気になるが、それも含めて蒼雪は以前にも増して彼女に興味を抱いている。
「でもまあ、攻めるとしても今ではないね」
 任務が終わるまでは、凜もそれどころではないだろう。始めに自分を好きになる必要はないと言っているし、下手に距離を詰めれば、警戒されてしまいかねない。だから今は、つかず離れずで見守っておくのが得策だ。
「色んな意味で、一週間後の婚姻の儀が楽しみだな」
 蒼雪は渡り廊下を歩きながら、星空を見上げた。

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