「光堂分隊長、東の妖怪頭・蒼雪と結婚してください」
上司の凍鶴から突然告げられたその命令に、これまであらゆる無理難題をこなしてきた光堂凜も、今度ばかりは絶句した。
***
満点の星々が空に現れる帝都の秋の夜。
ちろちろと響く虫の音に混じって、四つの足音が駆けていく。
「目標、西方に逃走中。やけに速いな……妖怪か?」
「いやいや、異能者かもよ。逃げ足が速くなる異能、みたいな」
先だつ二つの影が言い合った。真面目な面持ちの精悍な黒髪の青年と、まだ顔に幼さを残した茶髪の少年。どちらも同じ黒の軍服に軍帽、長い外套を纏っている。全身真っ黒なその姿は、羽を広げた鴉のようだった。
彼らの視線の先には、逃亡する男が一人。今夜の彼らの追跡対象だった。
青年と少年は駆けながら後ろに呼びかける。
「どうします、隊長?」
「普通に追いかけたんじゃ、絶対捕まえられませんよ」
呼ばれて顔を上げたのは、すぐ後ろの女だった。長い髪を頭の上で一つにまとめ、つり気味の目は獲物を狙う猛禽のように輝いている。齢は二十だが、凜々しい顔立ちと軍服姿が、それ以上の貫禄を感じさせた。
――光堂凜。陸軍の治安維持部隊「宵鴉」。その東支部で分隊長を務める女である。凜は両手にはめた黒手袋をはめ直しながら、前をゆく二人へ指示を出した。
「この先の丁字路で挟み撃ちにする。賀茂と弓達は北と南に散って」
「「了解です!」」
凜の指示で、賀茂と呼ばれた青年と、弓達と呼ばれた少年は、南北にそれぞれ散っていく。凜は目標を睨んだまま指示を続けた。
「戸隠さん、私に身体強化の術を。一気に攻めます」
「はい」
凜の隣で影のように走っていた中年の大男――戸隠が頷き、懐から呪符を取り出した。彼は従に息を吹きかけ凜の背に貼る。呪符は一度淡く光った後に、黒い外套の中へ溶けるようにして消えていった。同時に凜の体の奥から急激に力が溢れてくる。
「じゃあ、行ってきますね」
足にぐっと力を込め、一気に地を蹴った。戸隠が施した術の効果で、一歩踏み出せば十歩ほどの距離になる。先行く目標へ向かい、凜は雷光のように駆けていった。
目標との距離は急速に縮んでいく。丁字路にさしかかった時、目標の男はうろたえたように足を止めた。賀茂と弓達も到着したのだろう。
北側から賀茂が出現させた犬の式神が男に飛びかかり、南側からは弓達が異能で生み出した輝く矢を放つ。しかし男はそのどちらも回避し、傍にある塀を越えようとその縁を掴んだ。賀茂と弓達の顔に焦りが浮かぶ。
「くっ、まずいな」
「どうしましょう、隊長!?」
「私がやるわ」
広げた右手に閃光が迸る。ばちばちと激しい音を立て、右手の平に雷光が発生した。凜の持つ、雷の異能だ。続けて手を軽く振ると、生まれた雷は天に昇り、轟音を立てて男の周囲を取り囲むように落ちていった。
「うわぁあああ!!」
男は雷に悲鳴を上げて、へなへなと地面へ屈み込む。そこを賀茂と弓達が確保し、縄で男を縛り上げた。
「任務完了。流石は鳴神の鴉ですねえ」
「お疲れ様。けどその呼び方はやめて」
はやし立てる弓達に、凜は小さくため息をつき、拘束された男を見下ろす。
犯人は麻の着物を着た平民風の中年男性だった。断言はできないが、怯んでも本性を現さない辺り、妖怪ではなく異能者なのだろう。妖怪であれば大抵、凜の異能を見た後は、人に化けていても獣などの本性が現れる。最近は平民の間にもちらほら異能者が現れていると聞くし、この男もその類いだろう。一見どこにでもいる普通の男なのに、連続殺人犯の容疑者なのだから人は見た目で判断できない。
「本当、物騒な世は相変わらずですね。人間も異能者も妖怪も、この帝都で共存するようになって百年も経つのに」
賀茂は男を縛った縄の端を握って肩をすくめた。
百年前、この大天津帝国では、妖怪や異能者たちの存在が正式に認められた。
人間の世界でその立場を認められた彼らは、次々と都に移住。「帝都」と呼ばれるようになった都は複数の種族が住まう場所となり、中央政府によって次々と新たな制度が敷かれていった。
しかし、都に移り住んだ異能者や妖怪がみな善人という訳ではない。故に彼らが共存しはじめてから、それまでは起こらなかった超常的な事件が発生するようになった。普通の人間のみで構成された当時の警察組織は、当然ながら対処しきれず、帝都の治安は悪化していった。
そこで警察とは別で陸軍に設立されたのが、帝都の治安維持を行う特殊組織「宵鴉」である。宵鴉には妖怪や異能者に対抗できる力を持つ者が集められ、日々帝都の犯罪を監視している。凜の部隊も賀茂は陰陽師、戸隠は呪術師、弓達は弓の異能者、凜は雷と――もう一つ別の異能を扱う異能者だった。
圧倒的な力を持つ者たちが集められたその組織のお陰で、帝都の治安は格段によくなった。もっともそれも、昔と比べてという意味であり、凜たちの出動命令は毎日途切れることはないのだが。
「近頃の帝東では婦女子誘拐事件なんてのも起きてるんでしょ? 犯人は捕まってないみたいだし、僕らにもそのうち命令が来たりして」
――婦女子誘拐事件。
出動前に上司の凍鶴から告げられた極秘任務を思い出し、凜の気がぐっと重くなる。
「ん? 光堂隊長、顔色悪くないですか? 疲れてます?」
「……いえ、問題ないわ」
鬱々とした気分を追い出して、凜は弓達に首を振る。極秘任務である以上、三人の部下にも内容に気付かれる訳にはいかない。
凜は気持ちを切り替えながらも、部下たちに告げる。
「ともかく、任務は終わり。一旦引き上げ――」
「うああああ!!」
突然、縛っていた男が暴れ出した。雄叫びを上げ、体を激しく左右に振りながら、賀茂の体に体当たりする。
「うわっ!?」
勢いで賀茂は掴んでいた縄を取り落とした。男は今だとばかりに立ち上がり、凜たちに背を向ける。
「このまま捕まってたまるかよ!」
男は縄を体に巻き付けたまま走り出そうとする。しかし一度捕まえた相手を、凜が見逃すはずがない。体から伸びる縄をとっさに足で踏みつけ、男の動きを封じ込む。
「ぎゃあ!」
間抜けな悲鳴を上げて、男は地面に倒れ込んだ男の横に、凜は屈み込む。
「大人しくしなさい。でないとこっちも荒技を使わないといけなくなるわ」
「けっ、女に何ができる。やれるもんなら、やってみろってんだ!」
男は更に噛みついてくる。凜はため息をつき、手袋を外した。
「そう、じゃあ少しの間眠っていて」
「うっ!?」
凜は素手で彼の額に触れる。とたんに男は小さくうめき声を上げ、空気でも抜けていくかのようにしぼんで動かなくなった。こうなった相手は、数時間は気を失ったままということを、凜はよく知っている。
男の意識を奪った己の手をじっと見つめる。胸の中で逃走を止められた安堵と同時に、虚しさが生まれていた。凜の中にある、雷とは別のもう一つの異能。強力ではあるものの、素手で触れた者が気を失っていく場面は何度見ても気分がいいものではない。
複雑な気持ちを抱えていると、ぱちぱちと緩やかな拍手が聞こえてきた。
「お見事だよ。流石は光堂分隊長、最強の名に恥じない実力だ」
余裕のある、飄々とした声色に、凜は眉間に皺を寄せながら顔を上げる。
夜闇の中に男が立っていた。流れる銀の髪は、暗い場所にいながらも輝いている。白雪のような真っ白の肌と、ガラス玉のような青い瞳が、その人物が徒人ではないことを物語っていた。そして頭の上には、妖怪の証である獣の耳が生えている。
その整った美しい容貌は、妖怪も人間も異能者も、女なら誰でもひと目で虜になるだろう。しかし凜にとっては面倒で……最も会いたくない相手であった。
「蒼雪……」
帝都に四人いる、東西南北の妖怪たちをそれぞれまとめる妖怪頭。彼はそのうち帝都の東区域にあたる帝東を治める、九尾狐の蒼雪である。
彼は紫紺の羽織を翻し、微笑を浮かべて凜の元に近づいてきた。突如として姿を現した最強級の妖怪に、部下たちの間へ緊張が走る。しかし凜は、睨みながらも蒼雪の方へと足を踏み出した。
蒼雪は凜の後ろに倒れた男に視線を投げかけながら、口を開く。
「咄嗟によく対応できたね。しかも一撃で沈めるなんて……どうやったのかは知らないけれど、普通の人間にはできないことだ」
「随分と上から言うじゃない。褒めるなら素直に褒めなさいよ」
「ふふ、そうできればいいのだけれど。まだまだ詰めが甘いようだからね」
意味深な言葉を吐きながら、蒼雪がぱちりと指をはじく。直後に「うわああ!」と凜たちの背後で悲鳴があがる。振り向くと捕らえているのとは別の男が、地面へ仰向けに倒れて気絶していた。男の周りを狐火がくるくる旋回し、蒼雪の元へと近寄ってきた。焼け焦げた男の服を見るに、蒼雪が狐火で何かをしたのだろう。
「そいつは君が捕まえた男の仲間だろう。その男を助けようと、さっきからずっと機会を伺っていたようだったよ」
「……妖怪頭は無闇に力を使えないんじゃなかったのかしら?」
「彼は妖怪だからね。僕も罰する権利がある」
確かに新たに現れた男には、所々鱗がついていた。龍か蛇、またはそれに類する妖怪だろう。
「確かに、あなたの言う通りね。みんな、彼も拘束して」
凜は苦い顔で弓達たちに新たな男を拘束する指示を出す。
妖怪頭は中央政府とは独立して妖怪たちを罰し、守る権利を持っている。故に宵鴉とも仕事上関わる機会が多く、凜も数日に一度はこうして蒼雪と鉢合わせるのだが、その関係はこの通り、良好とは言い難かった。
凜は部下たちに指示を出し、二人の男を連行させる。三人がいなくなった後、凜は蒼雪に向き直った。
「それで、何か用かしら。手助けに来たわけではないのでしょう?」
「勘がいいね。情報交換がしたいんだ。例の婦女子誘拐事件の」
再び婦女子誘拐事件の名を聞き、先ほど押し込めたもやもやが蘇ってくる。凜はため息をつきながら首を横に振った。
「……何も知らないわ」
「へえ、君に聞けば分かると思ったのに。宵鴉でも知らないことがあるのか」
「悪かったわね、何も知らなくて」
からかうようににったり笑った蒼雪に、凜の苛立ちは増していく。
嫌い。いけ好かない。関わりたくない。
なのに自分は、彼とどうやら結婚しなければならないらしい。
上司に与えられた任務を思いだし、凜は苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめた。
***
上司の凍鶴から突然告げられたその命令に、これまであらゆる無理難題をこなしてきた光堂凜も、今度ばかりは絶句した。
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満点の星々が空に現れる帝都の秋の夜。
ちろちろと響く虫の音に混じって、四つの足音が駆けていく。
「目標、西方に逃走中。やけに速いな……妖怪か?」
「いやいや、異能者かもよ。逃げ足が速くなる異能、みたいな」
先だつ二つの影が言い合った。真面目な面持ちの精悍な黒髪の青年と、まだ顔に幼さを残した茶髪の少年。どちらも同じ黒の軍服に軍帽、長い外套を纏っている。全身真っ黒なその姿は、羽を広げた鴉のようだった。
彼らの視線の先には、逃亡する男が一人。今夜の彼らの追跡対象だった。
青年と少年は駆けながら後ろに呼びかける。
「どうします、隊長?」
「普通に追いかけたんじゃ、絶対捕まえられませんよ」
呼ばれて顔を上げたのは、すぐ後ろの女だった。長い髪を頭の上で一つにまとめ、つり気味の目は獲物を狙う猛禽のように輝いている。齢は二十だが、凜々しい顔立ちと軍服姿が、それ以上の貫禄を感じさせた。
――光堂凜。陸軍の治安維持部隊「宵鴉」。その東支部で分隊長を務める女である。凜は両手にはめた黒手袋をはめ直しながら、前をゆく二人へ指示を出した。
「この先の丁字路で挟み撃ちにする。賀茂と弓達は北と南に散って」
「「了解です!」」
凜の指示で、賀茂と呼ばれた青年と、弓達と呼ばれた少年は、南北にそれぞれ散っていく。凜は目標を睨んだまま指示を続けた。
「戸隠さん、私に身体強化の術を。一気に攻めます」
「はい」
凜の隣で影のように走っていた中年の大男――戸隠が頷き、懐から呪符を取り出した。彼は従に息を吹きかけ凜の背に貼る。呪符は一度淡く光った後に、黒い外套の中へ溶けるようにして消えていった。同時に凜の体の奥から急激に力が溢れてくる。
「じゃあ、行ってきますね」
足にぐっと力を込め、一気に地を蹴った。戸隠が施した術の効果で、一歩踏み出せば十歩ほどの距離になる。先行く目標へ向かい、凜は雷光のように駆けていった。
目標との距離は急速に縮んでいく。丁字路にさしかかった時、目標の男はうろたえたように足を止めた。賀茂と弓達も到着したのだろう。
北側から賀茂が出現させた犬の式神が男に飛びかかり、南側からは弓達が異能で生み出した輝く矢を放つ。しかし男はそのどちらも回避し、傍にある塀を越えようとその縁を掴んだ。賀茂と弓達の顔に焦りが浮かぶ。
「くっ、まずいな」
「どうしましょう、隊長!?」
「私がやるわ」
広げた右手に閃光が迸る。ばちばちと激しい音を立て、右手の平に雷光が発生した。凜の持つ、雷の異能だ。続けて手を軽く振ると、生まれた雷は天に昇り、轟音を立てて男の周囲を取り囲むように落ちていった。
「うわぁあああ!!」
男は雷に悲鳴を上げて、へなへなと地面へ屈み込む。そこを賀茂と弓達が確保し、縄で男を縛り上げた。
「任務完了。流石は鳴神の鴉ですねえ」
「お疲れ様。けどその呼び方はやめて」
はやし立てる弓達に、凜は小さくため息をつき、拘束された男を見下ろす。
犯人は麻の着物を着た平民風の中年男性だった。断言はできないが、怯んでも本性を現さない辺り、妖怪ではなく異能者なのだろう。妖怪であれば大抵、凜の異能を見た後は、人に化けていても獣などの本性が現れる。最近は平民の間にもちらほら異能者が現れていると聞くし、この男もその類いだろう。一見どこにでもいる普通の男なのに、連続殺人犯の容疑者なのだから人は見た目で判断できない。
「本当、物騒な世は相変わらずですね。人間も異能者も妖怪も、この帝都で共存するようになって百年も経つのに」
賀茂は男を縛った縄の端を握って肩をすくめた。
百年前、この大天津帝国では、妖怪や異能者たちの存在が正式に認められた。
人間の世界でその立場を認められた彼らは、次々と都に移住。「帝都」と呼ばれるようになった都は複数の種族が住まう場所となり、中央政府によって次々と新たな制度が敷かれていった。
しかし、都に移り住んだ異能者や妖怪がみな善人という訳ではない。故に彼らが共存しはじめてから、それまでは起こらなかった超常的な事件が発生するようになった。普通の人間のみで構成された当時の警察組織は、当然ながら対処しきれず、帝都の治安は悪化していった。
そこで警察とは別で陸軍に設立されたのが、帝都の治安維持を行う特殊組織「宵鴉」である。宵鴉には妖怪や異能者に対抗できる力を持つ者が集められ、日々帝都の犯罪を監視している。凜の部隊も賀茂は陰陽師、戸隠は呪術師、弓達は弓の異能者、凜は雷と――もう一つ別の異能を扱う異能者だった。
圧倒的な力を持つ者たちが集められたその組織のお陰で、帝都の治安は格段によくなった。もっともそれも、昔と比べてという意味であり、凜たちの出動命令は毎日途切れることはないのだが。
「近頃の帝東では婦女子誘拐事件なんてのも起きてるんでしょ? 犯人は捕まってないみたいだし、僕らにもそのうち命令が来たりして」
――婦女子誘拐事件。
出動前に上司の凍鶴から告げられた極秘任務を思い出し、凜の気がぐっと重くなる。
「ん? 光堂隊長、顔色悪くないですか? 疲れてます?」
「……いえ、問題ないわ」
鬱々とした気分を追い出して、凜は弓達に首を振る。極秘任務である以上、三人の部下にも内容に気付かれる訳にはいかない。
凜は気持ちを切り替えながらも、部下たちに告げる。
「ともかく、任務は終わり。一旦引き上げ――」
「うああああ!!」
突然、縛っていた男が暴れ出した。雄叫びを上げ、体を激しく左右に振りながら、賀茂の体に体当たりする。
「うわっ!?」
勢いで賀茂は掴んでいた縄を取り落とした。男は今だとばかりに立ち上がり、凜たちに背を向ける。
「このまま捕まってたまるかよ!」
男は縄を体に巻き付けたまま走り出そうとする。しかし一度捕まえた相手を、凜が見逃すはずがない。体から伸びる縄をとっさに足で踏みつけ、男の動きを封じ込む。
「ぎゃあ!」
間抜けな悲鳴を上げて、男は地面に倒れ込んだ男の横に、凜は屈み込む。
「大人しくしなさい。でないとこっちも荒技を使わないといけなくなるわ」
「けっ、女に何ができる。やれるもんなら、やってみろってんだ!」
男は更に噛みついてくる。凜はため息をつき、手袋を外した。
「そう、じゃあ少しの間眠っていて」
「うっ!?」
凜は素手で彼の額に触れる。とたんに男は小さくうめき声を上げ、空気でも抜けていくかのようにしぼんで動かなくなった。こうなった相手は、数時間は気を失ったままということを、凜はよく知っている。
男の意識を奪った己の手をじっと見つめる。胸の中で逃走を止められた安堵と同時に、虚しさが生まれていた。凜の中にある、雷とは別のもう一つの異能。強力ではあるものの、素手で触れた者が気を失っていく場面は何度見ても気分がいいものではない。
複雑な気持ちを抱えていると、ぱちぱちと緩やかな拍手が聞こえてきた。
「お見事だよ。流石は光堂分隊長、最強の名に恥じない実力だ」
余裕のある、飄々とした声色に、凜は眉間に皺を寄せながら顔を上げる。
夜闇の中に男が立っていた。流れる銀の髪は、暗い場所にいながらも輝いている。白雪のような真っ白の肌と、ガラス玉のような青い瞳が、その人物が徒人ではないことを物語っていた。そして頭の上には、妖怪の証である獣の耳が生えている。
その整った美しい容貌は、妖怪も人間も異能者も、女なら誰でもひと目で虜になるだろう。しかし凜にとっては面倒で……最も会いたくない相手であった。
「蒼雪……」
帝都に四人いる、東西南北の妖怪たちをそれぞれまとめる妖怪頭。彼はそのうち帝都の東区域にあたる帝東を治める、九尾狐の蒼雪である。
彼は紫紺の羽織を翻し、微笑を浮かべて凜の元に近づいてきた。突如として姿を現した最強級の妖怪に、部下たちの間へ緊張が走る。しかし凜は、睨みながらも蒼雪の方へと足を踏み出した。
蒼雪は凜の後ろに倒れた男に視線を投げかけながら、口を開く。
「咄嗟によく対応できたね。しかも一撃で沈めるなんて……どうやったのかは知らないけれど、普通の人間にはできないことだ」
「随分と上から言うじゃない。褒めるなら素直に褒めなさいよ」
「ふふ、そうできればいいのだけれど。まだまだ詰めが甘いようだからね」
意味深な言葉を吐きながら、蒼雪がぱちりと指をはじく。直後に「うわああ!」と凜たちの背後で悲鳴があがる。振り向くと捕らえているのとは別の男が、地面へ仰向けに倒れて気絶していた。男の周りを狐火がくるくる旋回し、蒼雪の元へと近寄ってきた。焼け焦げた男の服を見るに、蒼雪が狐火で何かをしたのだろう。
「そいつは君が捕まえた男の仲間だろう。その男を助けようと、さっきからずっと機会を伺っていたようだったよ」
「……妖怪頭は無闇に力を使えないんじゃなかったのかしら?」
「彼は妖怪だからね。僕も罰する権利がある」
確かに新たに現れた男には、所々鱗がついていた。龍か蛇、またはそれに類する妖怪だろう。
「確かに、あなたの言う通りね。みんな、彼も拘束して」
凜は苦い顔で弓達たちに新たな男を拘束する指示を出す。
妖怪頭は中央政府とは独立して妖怪たちを罰し、守る権利を持っている。故に宵鴉とも仕事上関わる機会が多く、凜も数日に一度はこうして蒼雪と鉢合わせるのだが、その関係はこの通り、良好とは言い難かった。
凜は部下たちに指示を出し、二人の男を連行させる。三人がいなくなった後、凜は蒼雪に向き直った。
「それで、何か用かしら。手助けに来たわけではないのでしょう?」
「勘がいいね。情報交換がしたいんだ。例の婦女子誘拐事件の」
再び婦女子誘拐事件の名を聞き、先ほど押し込めたもやもやが蘇ってくる。凜はため息をつきながら首を横に振った。
「……何も知らないわ」
「へえ、君に聞けば分かると思ったのに。宵鴉でも知らないことがあるのか」
「悪かったわね、何も知らなくて」
からかうようににったり笑った蒼雪に、凜の苛立ちは増していく。
嫌い。いけ好かない。関わりたくない。
なのに自分は、彼とどうやら結婚しなければならないらしい。
上司に与えられた任務を思いだし、凜は苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめた。
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