朱梨と元親友・緑子の真実を知り落ち込むこともあったが、巽と心を通わせることができた藤花は心穏やかに過ごしていた。
懐妊からふた月ほど経つと悪阻もはじまったが、それほど強くはなかったため食事も問題なく取ることができた。
なので藤花は変わらずソウキ草の世話をして、撚糸を行い巽のための糸を作り続けている。
使用人などからは「動き過ぎです!」と止められることもあるが、お腹の子も順調で大きな問題もない日々が過ぎていった。
そうして安定期に入り腹が目立ってきた頃、【つむぎ館】から招待状が届く。
年に一度、冬に種を残し枯れるソウキ草の収穫が終わる頃行われる豊饒祭。結界師と糸練りの巫女は皆参加するその神事と、神事の後に行われる宴会への招待だ。
毒巫女となっていた二年間は、招待状どころか神事の場にいること自体を節子に禁止されていたが、今年は黄賀家の嫁となったため招待状を出さぬわけにはいかなかったのだろう。
藤花としては、二年間ずっと自分を虐げてきた【つむぎ館】の者たち――特に緑子と会うことに抵抗はあったが、夫婦同伴が基本の宴に巽を一人で行かせるなどできるわけがない。
すぐに夫婦揃って参加する旨を文にしたため送り、準備を進めた。
そして当日。
自慢の息子夫婦をお披露目したいと張り切った義母の手腕により、巽と藤花は凜々しく、美しく飾り立てられ神事の場に登場した。
義母が用意してくれた着物は、巽の流水紋と藤花の名に合わせてか藤の柄が美しい。巽も流水紋様の黒紋付羽織袴で、普段より凜々しさが増している気がする。
そんな姿で多くの結界師と巫女たちの中を歩いていると、微笑ましいといった様子の声が聞こえてきた。
「美しいご夫婦だな」
「去年はお見かけしませんでしたし、新婚でしょうか? 初々しいですね」
先に聞こえてきたのは【つむぎ館】をずっと昔に出ていった老年の夫婦たちの声だ。
藤花が【つむぎ館】に入る前か、入った後だとしても毒巫女となっていた時期を知らぬ巫女たちからの純粋な褒め言葉に、藤花は足を進めながら気恥ずかしくなる。
だが、次いで聞こえてきたのは現在も【つむぎ館】で過ごしている巫女たちの声。
「え? まさかあれ、毒虫?」
「嘘でしょう? 懐妊して痣が消えたとは聞いたけれど、あんなに綺麗になっているなんて!」
想定より驚きの声の方が多いが、やはり未だに藤花を見下しているような物言いだった。
以前ならば言い返すのも諦めて俯いているだけだった彼女たちの声に、藤花は気圧されないよう真っ直ぐ前を見る。
誰がなんと言おうと自分は有力三家の一つ、黄賀家の嫁で巽の妻だ。みっともない姿を晒すわけにはいかない。
すると、前方に一番会いたくなかったひと組の男女がいた。
かつて親友だった緑子は、殺意すら込めているような憎しみの眼差しで藤花を睨め付けている。その腹は、朱梨の言ったとおり妊娠しているようで藤花と同じくらい膨らんでいた。
そして、隣に立っている孝志は……。
「巽どの、ご無沙汰しております。藤花も、綺麗になったね」
半年ほど前までは醜い、目障りだと遠ざけていたというのに、同じ口で真逆のことを言うのか。
元より恋情など消えてしまっていたが、藤花は今更甘さを含んだ眼差しを向けてくる孝志を冷たく見返した。
「……はい、旦那様のおかげで」
短く返すと、孝志は更に言葉を重ねてくる。
「本当に、ここまで綺麗に治るとは……それに、以前より更に美しくなった。……これなら、俺が治せば良かった」
「孝志さん!?」
最後の方は思わず零れたといった様子だったが、だからこそそれは本心なのだろう。
孝志の本気を感じ取り、緑子が咎めるように彼を呼ぶ。
藤花は、冷えた心のままに孝志を見る。何かを期待しているかのような表情の彼に、なんと言い返そうかと考えた。
孝志は、陽の気を受ければ藤花の顔の痣が消えることを知っていた。
ここまで綺麗に消えたのは巽の強い陽の気だからなので、孝志では完全に消えなかったかもしれない。それでも、かなり薄くはなったはずだ。
だというのに彼は醜くなった藤花が嫌だからという理由で切り捨てた。
それが全ての答えだ。
結局のところ、孝志は美しく優秀な糸練りの巫女が好きなだけで、藤花自身を好いてくれていたわけではない。
巽に愛されていると実感出来る今だからこそ、殊更よく分かる。
あなたでは駄目だ、とはっきり伝えるため口を開こうとしたが、その言葉は巽に奪われてしまった。
「これは面白いことを言う。痣のある藤花を嫌だと言ったのはどこの誰だったのか」
「そ、れは……」
皮肉たっぷりの巽の言葉に、孝志はたじろぐ。視線が泳いだ孝志に、巽は追い打ちを掛けるように低い声で告げる。
「それに、貴殿程度の霊力では完全に痣は消えなかっただろう。俺の妻だからこそ、藤花は美しくなったのだ」
牽制するかのように『俺の妻』という部分の語調を強くした巽は、「失礼する」と断りを入れ藤花を連れて二人から離れた。
背後から「孝志さん、先程の言葉はどういう意味なのですか!?」と孝志を問い質す緑子の声が聞こえると、隣からは低い怒りの声が聞こえてきた。
「全く、藤花に色目を使うとは……本当にふざけた男だ」
「確かに、ふざけているとしか言いようがないですね」
孝志を庇う義理はないし、事実ふざけているとしか評価しようがないため藤花は巽の言葉に同意した。そして、彼の怒りを治めるように支えてくれていた手を握る。
「旦那様、私のことをはっきりと『俺の妻』だとおっしゃってくれてありがとうございます。嬉しかったです」
幸せを噛み締めるように笑顔で告げると、巽はいつもの柔らかな笑みを浮かべ藤花の額に軽く口付けた。
「事実を言っただけだ。本当ならこれほど美しくなったお前を他の男の目に触れさせたくはないが……折角の機会だ、藤花は俺の妻だと皆にしっかり覚えて貰わないとな」
注目を浴びつつも神事が終わり、日が落ちてくる前に結界の張られた宴会場へと皆向かった。
帝都外れにあるアールヌーボー様式の洋館は、上流階級の社交場として舞踏会なども行われる場所だ。その宴会場では今回食事も楽しめるようになっているが、ほとんどの人は挨拶や会話に花を咲かせている。
黄賀家へ嫁に来たばかりの藤花は挨拶回りだけでもと頑張ったが、身重故に途中で疲れ果ててしまった。
巽に休むよう言われたこともあり、人の少ない二階席で一人座って休んでいたのだが……。
「藤花、少し話さない?」
同じく休みに来たのか、緑子が悠然と微笑んで声を掛けてきた。
あまり話したいとは思わなかったが、確かめたいこともあり藤花は頷く。
「座ってばかりも良くないわ、少し歩きましょう?」
そう言ってゆっくり先を歩く緑子に、藤花は付いていった。
「……二年前のこと、朱梨から聞いたわ。緑子、あなたが仕組んだというのは本当?」
今更和やかに話す気などないため、藤花は早速本題に入る。すると緑子はころころとおかしそうに笑った。
「仕組むなんて言いがかりだわ。私はあの子のしたいことを手伝ってあげただけ。私とあの子の望みが一致していたから」
笑顔で告げながらも、緑子の目は昏く淀んでいた。憎しみや恨めしさが、瞳の奥で渦巻いているかのようだ。
「その望みって、私の命?」
「そうよ。だって、あなたがとっても邪魔だったんだもの」
なんの感情も見せず肯定した緑子に、藤花は感情を抑えてもう一つ問いを口にする。
「では、何故朱梨の計画を止めなかったの? あのとき、下手をすれば朱梨も死んでいたかもしれないのに」
緑子の狙いが藤花の命ならば、朱梨の命まで危険にさらす必要はないはずだ。なんなら、朱梨は帰ってきていないということにして、本当は結界内に隠れていても良かったはずなのだ。
だが、朱梨は山の中にいた。緑子は、朱梨も死んでいいと思っていたのだろうかと、それが疑問だった。
緑子は一瞬キョトンとしてから皮肉を込めて笑う。
「あれだけ嫌われているのにまだ妹が大事なの? まあ、あの子も甘ちゃんだけど。あの子ってば、死んで欲しいとまで思っている姉が自分を助けに来ないなんて考えてもいないんだもの。姉妹揃っておつむが弱いのねって思ったわよ」
「……つまり、朱梨も死んでかまわなかったと?」
「当たり前じゃない。馬鹿が死んだところで私にはなんの痛手にもならないわ」
どこまでも見下した態度に、藤花は拳を握りしめ怒りを耐えた。
朱梨のことは、正直許せるとは思えない。だが、それでもやはり大事な妹なのだ。少なくとも、死んで欲しいとは思わない。
そんな朱梨を死んでもかまわない馬鹿と罵られ、怒りが湧かないはずがなかった。
とはいえ相手も身重の身。お腹の子に罪はないため、子に負担がかからないよう彼女への暴言を耐えていたのだが、緑子にそのような気遣いは無用だったのかもしれない。
人を馬鹿にした笑みをすっと消した緑子は、足を止め藤花に向き直った。そして――
「だから、目障りな馬鹿は死んでちょうだい。お腹の子もろともね」
「なにを――」
なにかされると警戒したが、遅かった。抵抗を試みる間もなくドンッと肩を強く押され、身体が傾く。
倒れる先は一階へと続く階段で、藤花はそのときやっと緑子に誘導されていたことに気付いた。
(しまった! 駄目、子どもだけでも守らないと!)
とっさに腹を庇うが、階段から転がり落ちてはその程度で守れやしない。絶望的な気分でぎゅっと目を閉じると、胸の辺りが熱くなる。常に身につけている巽の守り水晶が、藤花の危機に反応したようだった。
階段に打ちつけられるはずの身体が感じたのは、何か緩衝材でも挟んだかのような柔らかなもの。
驚き目を開けると、藤花は巽の流水紋が描かれた結界に包まれていた。
結界はそのまま流れるように一階へ藤花を運び、床に座る体勢にするとパチンと消える。
(流石、旦那様の守り水晶)
何者からも守ってくれるよう霊力を込めたと聞いていたが、まさかここまでとは。痛みどころか、腹の子に何らかの負担がかかることすらない。
「藤花! 大丈夫か!?」
巽本人もすぐに駆けつけてくれ、心から安堵した藤花は「はい」と頷いた。
「旦那様の守り水晶のおかげで私も子も無事です」
「そうか、良かった……」
藤花の笑顔を見て切れ長な目を細めた巽は、そのまま一度目を閉じ階段の上を睨み上げた。
「さて、緑子どの。これは一体どういうことだ?」
「だ、大丈夫ですか? 驚きましたわ、藤花ったら突然足を踏み外すんですもの」
自分は何もしていないとしらを切りながら、緑子はゆっくり階段を降りてきた。
そこへ孝志と節子も駆けつける。
「巽どの、言いがかりは止めて頂きたい」
「そうですよ! 私の孫を身籠もっている緑子が、妊娠中の藤花に何かするとでも?」
そんな非道な真似をするはずがないだろうと、節子は緑子を庇った。
だが、巽はその節子にも冷たく言い放つ。
「そうやって気に入った巫女を贔屓していたのか?」
「な、何を……」
「しらばっくれるな、遠原節子。お前が【つむぎ館】を私物化していると調査結果が出ているんだ。お前が【つむぎ館】の主人となってから落ちた、巫女の質についてもな」
「なっ!?」
巽の追求に、節子は言葉を失う。
思い返してみれば、確かに節子は昔から特定の巫女だけを可愛がっていた。藤花自身も、毒巫女となる前は可愛がられていた方だったのでその落差はよくわかる。
「少し前までは霊力の高い藤花がソウキ草の世話をしていたため糸の質自体はギリギリ保たれていたが、その頃に【つむぎ館】で作った糸はもうなくなってしまったのだろう? 最近そちらから卸される糸の質が格段に落ちた」
淡々と説明した巽は、深く息を吸ってはっきりと宣告した。
「遠原節子、あなたを【つむぎ館】の主人兼教官から解任することが決まっている。今後の身の振り方を決めておくように」
その言葉に反応したのは孝志だった。
「そんな! 父はとうに亡くなり、母には頼れる親族もいないのですよ!? 職を無くしてどう生活しろと!?」
「ならば息子である貴殿が面倒を見るのが筋だろう? 今後のことまでこちらが便宜を図る義理はない」
「それは……」
巽の冷淡だが正論な解答に、孝志は言葉を濁す。そんな孝志に今度は緑子が突っかかった。
「孝志さん、どういうこと? 口うるさいお義母様は【つむぎ館】にずっといるから、結婚後は姑のいない家で自由にするといいと言っていたじゃない!」
「口うるさい!? 孝志、お前母のことをそのように話していたのかい?」
そして今度は緑子の言葉に節子が騒ぎ出す。
修羅場と化してきた三人の様子に会場内の皆が呆れていると、突然両開きの扉がバンッと大きな音を立てて開かれた。
会場の皆が注目する中、扉を開けた男が叫ぶ。
「よ、妖魔がっ! ここを守る結界が破られて、敷地内に妖魔が入り込だ!」
途端に空気が一変する。緊張感に満たされた会場に、男は更に告げた。
「応急処置はしているが、大元の結界が脆い。早くもっと強固な結界でここを守らないと!」
男の言葉に、母と緑子に詰め寄られていた孝志が信じられないといった様子で顔を上げる。
「なんだと? そこまで脆いはずがない! 緑子は俺の子を身籠もっているんだ。緑子の糸で作った結界が脆いはずないだろう!?」
そう叫び孝志は緑子を見る。もちろんだという答えを期待していたのだろうが、緑子はその美しい顔を青くし、震えながら首を横に振っていた。
「わ、私のせいじゃない……私は悪くない――きゃっ!」
そのまま後退り転んだ緑子に、皆が小さな悲鳴を上げる。腹の子は大丈夫なのかという心配をよそに、転んだ緑子の襟元からなにかがまろび出た。
(あれは……御包み?)
緑子の懐から出てきたのは、布だけの状態の御包み。皆が戸惑う中、立ち上がった緑子の着物はとても乱れていた。腹にあった膨らみがなくなったため、帯が緩んでしまったらしい。
先程よりも青くなった緑子に、孝志が震える声で問い質した。
「なんだ、それは? 緑子、おまえ、懐妊したというのは嘘だったのか!?」
激昂する孝志に刺激されたのか、緑子も青い顔のまま叫ぶ。
「孝志さんが悪いのよ!? もう結婚してもいい年だというのに、先送りにしようとするから!」
「だからといってこんな嘘を吐いていいわけがないだろう!? 俺の子を身籠もった君の糸を使えば俺の結界も強くなると言った母の指示で、ここの会場の守りに俺たちの結界を使ったんだ。その所為で今皆が妖魔に襲われかけているんじゃないか!?」
この後に及んでまたしても修羅場に突入する二人に、最早掛ける言葉はない。ただ、呆れと怒りが綯い交ぜになった蔑みの眼差しが二人に集中していた。
早々に孝志を見限った巽は、彼らを無視しいつの間にか近くに来ていた可愛らしい顔立ちの結界師に声を掛ける。
「環、あの三人を拘束しておけ。今回の責もきっちり負って貰わねばならないからな」
「はい、分かりました。……先輩は?」
仕事上の部下なのだろうか、環と呼ばれた結界師は頷いてから巽を見上げる。問われた巽は自信満ちあふれる美しい笑みを浮かべ、藤花を見た。
「もちろん、新たな結界を張る。藤花、糸は持ってきているな?」
「はい。いつ必要になってもいいように、ひと綛は常に持つようにしております」
「流石我が妻だ」
満足そうに頷いた巽と共に、藤花は扉の方へ向かう。扉の外に出た途端、妖魔の吠える声が聞こえた。
ゴガウゥ!
思わずびくりと肩を震わせ雄叫びの方を見ると、応急処置として張られた結界に阻まれながらもなお突撃してくる妖魔がいた。
大小様々な妖魔が結界の外を囲んでいるが、中でも大人の熊ほどの大きさの妖魔が赤い目を暗闇で光らせ、結界に突進している。
グルルゥ、と唸りながら、結界越しに藤花の陰の気を感じ取ったのか、その赤い目がこちらを見た。
「っ!」
悲鳴はなんとか喉元で抑えたが、以前襲われた記憶が甦り身体が硬直する。
だが、すぐに巽が守るように間に入ってくれた。藤花の方を向き、軽く抱きしめるように覆う。
「大丈夫だ。お前の糸を使った俺の結界なら、あのような妖魔瞬時に弾かれる」
「旦那様……はいっ」
巽の温もりを感じ、落ち着きを取り戻した藤花は力強く頷いた。
不安はない。
丁寧に育てた良質のソウキ草から取れた葉を、丁寧な撚糸で紡いだ純白の細い糸。それを使うのは、我が子という絆で結ばれた、最強と言われる愛しい旦那様。
最高で、最強の結界が出来上がるという確信が、藤花にはあった。
巽も同じなのだろう。藤花の手から糸を受け取ると、何の不安もない笑みを浮かべ前へ向き直る。
霊力を送り淡く光った糸の端を空に投げると、宙に巽の結界紋が描かれて行く。
脆く壊れかけている孝志の籠目紋の結界の内側に、美しい流水紋が線を引いた。
完成した結界はほんのり青く光り、結界に描かれた流水紋が正に流れるように動いている。
「これは……」
驚きから思わず声が零れた。
紋が動く結界など、今まで見たことも聞いたこともない。
しかも巽の結界に触れた妖魔は、まるで動く紋に流されるようにその身を持って行かれ、少し離れた場所へと弾かれた。
更に驚くことに、弾かれた妖魔は凶暴性がなくなったかのように山へ帰って行く。
何が起こっているのかと結界を見つめていると、未だ前を向いている巽が「そうか」と納得の声を上げた。
「流水は厄を流す。それに、流れる水は腐らないため清らかさの象徴でもある。この結界は妖魔を弾くだけでなく、妖魔の崩れた陰陽の均衡を正すというのか!」
興奮気味に話した巽は、勢いよく藤花の方へ振り返る。
その瞳には、まるで幼子のようなきらきらした光が宿っていた。
「凄い! 素晴らしいぞ藤花! 本当に、お前は最高の嫁だ!」
無邪気なほどに喜び抱きついてくる巽を、藤花は可愛いなと思いながら苦笑する。
だが、事実これほどの結界は見たことがなく、はしゃいでしまう気持ちはよく分かった。
「ありがとうございます。ですが旦那様こそ、最高の夫ですよ?」
藤花の糸の力だけでここまでの結界は張れない。結界師と巫女。夫と妻。二人の共同作業だからこそ作ることができた結界だ。
お互いを褒め合っていると、会場の中にいた人たちも見たことのない結界を確かめようと外に出て来る。
皆、魅入られたように流水の結界を見上げ、「美しい……」と呟くのみだった。
「これは、凄いですね……今までの常識がひっくり返りますよ?」
いつの間に近くに来ていたのか、環が巽に声を掛ける。どこか呆れを含ませた声に目を向ければ、彼の近くに拘束された三人の姿も見えた。
節子は口をあんぐりと開け固まり、孝志はただただ結界に見入っている。
そして緑子は……。
「何よ、これ……こんな結界、他の誰にも作れるわけがないじゃない」
涙を流し声を震わせ、彼女は藤花を見る。その顔は、最早絶望に近い表情をしていた。
「糸も、なんであんなに細く綺麗に紡げるのよ……なんで、私にはできないのよぉ……」
最後にそう言った緑子は、項垂れもう何も話さなかった。
豊饒祭の後がまた大変だった。
節子は地方へ下働きとして飛ばされ、孝志は黄賀家の派閥結界師が総出で鍛え直すことになり、緑子はその所業がつまびらかにされ服役することとなった。
他にも節子のせいで堕落した【つむぎ館】を立て直すために巽や藤花も助力を頼まれた。
だが、一番大変だったのは新たな結界作成についてだろう。
この強力過ぎる結界をどう扱うか、巽の職場である陰陽庁を飛び越え、政府内外で色々議論が成されているらしい。
そのため巽は連日帝都を飛び回る羽目になり、いつも疲れて帰って来るのだ。
「お疲れ様でございます、旦那様。……その、大丈夫なのですか?」
着替えた途端、ぐったりと藤花にもたれかかる巽に心配の声を掛けた。すると巽は更に甘えるように藤花の背へ腕を回す。
「大丈夫じゃない。だからこうして藤花に癒やされているんだ」
子どものように甘える巽に仕方ないな、と笑みを浮かべた。こうして甘えてくるのは自分にだけなのだと知っているから、愛しいとしか感じない。
思わず藤花も巽に腕を回しその背を撫でていると、そのままの体勢で逆に心配された。
「藤花こそ大丈夫か? 腹も大きくなって、そろそろ産まれてもおかしくないのではないか?」
「そうは言いますけれど、臨月にはまだ少し早いですよ?」
少々気が早い巽に苦笑すると、彼は柔らかな笑みを浮かべ藤花の額に口付ける。
「なんにせよ、無事に生まれてきてくれればいい」
そう言って藤花の腹を撫でた巽に応えるように、赤子が腹を蹴った。丁度手を当てていた巽にもそれが伝わったのだろう。
互いに顔を見合わせて、同じ幸福に顔をほころばせた。
了
懐妊からふた月ほど経つと悪阻もはじまったが、それほど強くはなかったため食事も問題なく取ることができた。
なので藤花は変わらずソウキ草の世話をして、撚糸を行い巽のための糸を作り続けている。
使用人などからは「動き過ぎです!」と止められることもあるが、お腹の子も順調で大きな問題もない日々が過ぎていった。
そうして安定期に入り腹が目立ってきた頃、【つむぎ館】から招待状が届く。
年に一度、冬に種を残し枯れるソウキ草の収穫が終わる頃行われる豊饒祭。結界師と糸練りの巫女は皆参加するその神事と、神事の後に行われる宴会への招待だ。
毒巫女となっていた二年間は、招待状どころか神事の場にいること自体を節子に禁止されていたが、今年は黄賀家の嫁となったため招待状を出さぬわけにはいかなかったのだろう。
藤花としては、二年間ずっと自分を虐げてきた【つむぎ館】の者たち――特に緑子と会うことに抵抗はあったが、夫婦同伴が基本の宴に巽を一人で行かせるなどできるわけがない。
すぐに夫婦揃って参加する旨を文にしたため送り、準備を進めた。
そして当日。
自慢の息子夫婦をお披露目したいと張り切った義母の手腕により、巽と藤花は凜々しく、美しく飾り立てられ神事の場に登場した。
義母が用意してくれた着物は、巽の流水紋と藤花の名に合わせてか藤の柄が美しい。巽も流水紋様の黒紋付羽織袴で、普段より凜々しさが増している気がする。
そんな姿で多くの結界師と巫女たちの中を歩いていると、微笑ましいといった様子の声が聞こえてきた。
「美しいご夫婦だな」
「去年はお見かけしませんでしたし、新婚でしょうか? 初々しいですね」
先に聞こえてきたのは【つむぎ館】をずっと昔に出ていった老年の夫婦たちの声だ。
藤花が【つむぎ館】に入る前か、入った後だとしても毒巫女となっていた時期を知らぬ巫女たちからの純粋な褒め言葉に、藤花は足を進めながら気恥ずかしくなる。
だが、次いで聞こえてきたのは現在も【つむぎ館】で過ごしている巫女たちの声。
「え? まさかあれ、毒虫?」
「嘘でしょう? 懐妊して痣が消えたとは聞いたけれど、あんなに綺麗になっているなんて!」
想定より驚きの声の方が多いが、やはり未だに藤花を見下しているような物言いだった。
以前ならば言い返すのも諦めて俯いているだけだった彼女たちの声に、藤花は気圧されないよう真っ直ぐ前を見る。
誰がなんと言おうと自分は有力三家の一つ、黄賀家の嫁で巽の妻だ。みっともない姿を晒すわけにはいかない。
すると、前方に一番会いたくなかったひと組の男女がいた。
かつて親友だった緑子は、殺意すら込めているような憎しみの眼差しで藤花を睨め付けている。その腹は、朱梨の言ったとおり妊娠しているようで藤花と同じくらい膨らんでいた。
そして、隣に立っている孝志は……。
「巽どの、ご無沙汰しております。藤花も、綺麗になったね」
半年ほど前までは醜い、目障りだと遠ざけていたというのに、同じ口で真逆のことを言うのか。
元より恋情など消えてしまっていたが、藤花は今更甘さを含んだ眼差しを向けてくる孝志を冷たく見返した。
「……はい、旦那様のおかげで」
短く返すと、孝志は更に言葉を重ねてくる。
「本当に、ここまで綺麗に治るとは……それに、以前より更に美しくなった。……これなら、俺が治せば良かった」
「孝志さん!?」
最後の方は思わず零れたといった様子だったが、だからこそそれは本心なのだろう。
孝志の本気を感じ取り、緑子が咎めるように彼を呼ぶ。
藤花は、冷えた心のままに孝志を見る。何かを期待しているかのような表情の彼に、なんと言い返そうかと考えた。
孝志は、陽の気を受ければ藤花の顔の痣が消えることを知っていた。
ここまで綺麗に消えたのは巽の強い陽の気だからなので、孝志では完全に消えなかったかもしれない。それでも、かなり薄くはなったはずだ。
だというのに彼は醜くなった藤花が嫌だからという理由で切り捨てた。
それが全ての答えだ。
結局のところ、孝志は美しく優秀な糸練りの巫女が好きなだけで、藤花自身を好いてくれていたわけではない。
巽に愛されていると実感出来る今だからこそ、殊更よく分かる。
あなたでは駄目だ、とはっきり伝えるため口を開こうとしたが、その言葉は巽に奪われてしまった。
「これは面白いことを言う。痣のある藤花を嫌だと言ったのはどこの誰だったのか」
「そ、れは……」
皮肉たっぷりの巽の言葉に、孝志はたじろぐ。視線が泳いだ孝志に、巽は追い打ちを掛けるように低い声で告げる。
「それに、貴殿程度の霊力では完全に痣は消えなかっただろう。俺の妻だからこそ、藤花は美しくなったのだ」
牽制するかのように『俺の妻』という部分の語調を強くした巽は、「失礼する」と断りを入れ藤花を連れて二人から離れた。
背後から「孝志さん、先程の言葉はどういう意味なのですか!?」と孝志を問い質す緑子の声が聞こえると、隣からは低い怒りの声が聞こえてきた。
「全く、藤花に色目を使うとは……本当にふざけた男だ」
「確かに、ふざけているとしか言いようがないですね」
孝志を庇う義理はないし、事実ふざけているとしか評価しようがないため藤花は巽の言葉に同意した。そして、彼の怒りを治めるように支えてくれていた手を握る。
「旦那様、私のことをはっきりと『俺の妻』だとおっしゃってくれてありがとうございます。嬉しかったです」
幸せを噛み締めるように笑顔で告げると、巽はいつもの柔らかな笑みを浮かべ藤花の額に軽く口付けた。
「事実を言っただけだ。本当ならこれほど美しくなったお前を他の男の目に触れさせたくはないが……折角の機会だ、藤花は俺の妻だと皆にしっかり覚えて貰わないとな」
注目を浴びつつも神事が終わり、日が落ちてくる前に結界の張られた宴会場へと皆向かった。
帝都外れにあるアールヌーボー様式の洋館は、上流階級の社交場として舞踏会なども行われる場所だ。その宴会場では今回食事も楽しめるようになっているが、ほとんどの人は挨拶や会話に花を咲かせている。
黄賀家へ嫁に来たばかりの藤花は挨拶回りだけでもと頑張ったが、身重故に途中で疲れ果ててしまった。
巽に休むよう言われたこともあり、人の少ない二階席で一人座って休んでいたのだが……。
「藤花、少し話さない?」
同じく休みに来たのか、緑子が悠然と微笑んで声を掛けてきた。
あまり話したいとは思わなかったが、確かめたいこともあり藤花は頷く。
「座ってばかりも良くないわ、少し歩きましょう?」
そう言ってゆっくり先を歩く緑子に、藤花は付いていった。
「……二年前のこと、朱梨から聞いたわ。緑子、あなたが仕組んだというのは本当?」
今更和やかに話す気などないため、藤花は早速本題に入る。すると緑子はころころとおかしそうに笑った。
「仕組むなんて言いがかりだわ。私はあの子のしたいことを手伝ってあげただけ。私とあの子の望みが一致していたから」
笑顔で告げながらも、緑子の目は昏く淀んでいた。憎しみや恨めしさが、瞳の奥で渦巻いているかのようだ。
「その望みって、私の命?」
「そうよ。だって、あなたがとっても邪魔だったんだもの」
なんの感情も見せず肯定した緑子に、藤花は感情を抑えてもう一つ問いを口にする。
「では、何故朱梨の計画を止めなかったの? あのとき、下手をすれば朱梨も死んでいたかもしれないのに」
緑子の狙いが藤花の命ならば、朱梨の命まで危険にさらす必要はないはずだ。なんなら、朱梨は帰ってきていないということにして、本当は結界内に隠れていても良かったはずなのだ。
だが、朱梨は山の中にいた。緑子は、朱梨も死んでいいと思っていたのだろうかと、それが疑問だった。
緑子は一瞬キョトンとしてから皮肉を込めて笑う。
「あれだけ嫌われているのにまだ妹が大事なの? まあ、あの子も甘ちゃんだけど。あの子ってば、死んで欲しいとまで思っている姉が自分を助けに来ないなんて考えてもいないんだもの。姉妹揃っておつむが弱いのねって思ったわよ」
「……つまり、朱梨も死んでかまわなかったと?」
「当たり前じゃない。馬鹿が死んだところで私にはなんの痛手にもならないわ」
どこまでも見下した態度に、藤花は拳を握りしめ怒りを耐えた。
朱梨のことは、正直許せるとは思えない。だが、それでもやはり大事な妹なのだ。少なくとも、死んで欲しいとは思わない。
そんな朱梨を死んでもかまわない馬鹿と罵られ、怒りが湧かないはずがなかった。
とはいえ相手も身重の身。お腹の子に罪はないため、子に負担がかからないよう彼女への暴言を耐えていたのだが、緑子にそのような気遣いは無用だったのかもしれない。
人を馬鹿にした笑みをすっと消した緑子は、足を止め藤花に向き直った。そして――
「だから、目障りな馬鹿は死んでちょうだい。お腹の子もろともね」
「なにを――」
なにかされると警戒したが、遅かった。抵抗を試みる間もなくドンッと肩を強く押され、身体が傾く。
倒れる先は一階へと続く階段で、藤花はそのときやっと緑子に誘導されていたことに気付いた。
(しまった! 駄目、子どもだけでも守らないと!)
とっさに腹を庇うが、階段から転がり落ちてはその程度で守れやしない。絶望的な気分でぎゅっと目を閉じると、胸の辺りが熱くなる。常に身につけている巽の守り水晶が、藤花の危機に反応したようだった。
階段に打ちつけられるはずの身体が感じたのは、何か緩衝材でも挟んだかのような柔らかなもの。
驚き目を開けると、藤花は巽の流水紋が描かれた結界に包まれていた。
結界はそのまま流れるように一階へ藤花を運び、床に座る体勢にするとパチンと消える。
(流石、旦那様の守り水晶)
何者からも守ってくれるよう霊力を込めたと聞いていたが、まさかここまでとは。痛みどころか、腹の子に何らかの負担がかかることすらない。
「藤花! 大丈夫か!?」
巽本人もすぐに駆けつけてくれ、心から安堵した藤花は「はい」と頷いた。
「旦那様の守り水晶のおかげで私も子も無事です」
「そうか、良かった……」
藤花の笑顔を見て切れ長な目を細めた巽は、そのまま一度目を閉じ階段の上を睨み上げた。
「さて、緑子どの。これは一体どういうことだ?」
「だ、大丈夫ですか? 驚きましたわ、藤花ったら突然足を踏み外すんですもの」
自分は何もしていないとしらを切りながら、緑子はゆっくり階段を降りてきた。
そこへ孝志と節子も駆けつける。
「巽どの、言いがかりは止めて頂きたい」
「そうですよ! 私の孫を身籠もっている緑子が、妊娠中の藤花に何かするとでも?」
そんな非道な真似をするはずがないだろうと、節子は緑子を庇った。
だが、巽はその節子にも冷たく言い放つ。
「そうやって気に入った巫女を贔屓していたのか?」
「な、何を……」
「しらばっくれるな、遠原節子。お前が【つむぎ館】を私物化していると調査結果が出ているんだ。お前が【つむぎ館】の主人となってから落ちた、巫女の質についてもな」
「なっ!?」
巽の追求に、節子は言葉を失う。
思い返してみれば、確かに節子は昔から特定の巫女だけを可愛がっていた。藤花自身も、毒巫女となる前は可愛がられていた方だったのでその落差はよくわかる。
「少し前までは霊力の高い藤花がソウキ草の世話をしていたため糸の質自体はギリギリ保たれていたが、その頃に【つむぎ館】で作った糸はもうなくなってしまったのだろう? 最近そちらから卸される糸の質が格段に落ちた」
淡々と説明した巽は、深く息を吸ってはっきりと宣告した。
「遠原節子、あなたを【つむぎ館】の主人兼教官から解任することが決まっている。今後の身の振り方を決めておくように」
その言葉に反応したのは孝志だった。
「そんな! 父はとうに亡くなり、母には頼れる親族もいないのですよ!? 職を無くしてどう生活しろと!?」
「ならば息子である貴殿が面倒を見るのが筋だろう? 今後のことまでこちらが便宜を図る義理はない」
「それは……」
巽の冷淡だが正論な解答に、孝志は言葉を濁す。そんな孝志に今度は緑子が突っかかった。
「孝志さん、どういうこと? 口うるさいお義母様は【つむぎ館】にずっといるから、結婚後は姑のいない家で自由にするといいと言っていたじゃない!」
「口うるさい!? 孝志、お前母のことをそのように話していたのかい?」
そして今度は緑子の言葉に節子が騒ぎ出す。
修羅場と化してきた三人の様子に会場内の皆が呆れていると、突然両開きの扉がバンッと大きな音を立てて開かれた。
会場の皆が注目する中、扉を開けた男が叫ぶ。
「よ、妖魔がっ! ここを守る結界が破られて、敷地内に妖魔が入り込だ!」
途端に空気が一変する。緊張感に満たされた会場に、男は更に告げた。
「応急処置はしているが、大元の結界が脆い。早くもっと強固な結界でここを守らないと!」
男の言葉に、母と緑子に詰め寄られていた孝志が信じられないといった様子で顔を上げる。
「なんだと? そこまで脆いはずがない! 緑子は俺の子を身籠もっているんだ。緑子の糸で作った結界が脆いはずないだろう!?」
そう叫び孝志は緑子を見る。もちろんだという答えを期待していたのだろうが、緑子はその美しい顔を青くし、震えながら首を横に振っていた。
「わ、私のせいじゃない……私は悪くない――きゃっ!」
そのまま後退り転んだ緑子に、皆が小さな悲鳴を上げる。腹の子は大丈夫なのかという心配をよそに、転んだ緑子の襟元からなにかがまろび出た。
(あれは……御包み?)
緑子の懐から出てきたのは、布だけの状態の御包み。皆が戸惑う中、立ち上がった緑子の着物はとても乱れていた。腹にあった膨らみがなくなったため、帯が緩んでしまったらしい。
先程よりも青くなった緑子に、孝志が震える声で問い質した。
「なんだ、それは? 緑子、おまえ、懐妊したというのは嘘だったのか!?」
激昂する孝志に刺激されたのか、緑子も青い顔のまま叫ぶ。
「孝志さんが悪いのよ!? もう結婚してもいい年だというのに、先送りにしようとするから!」
「だからといってこんな嘘を吐いていいわけがないだろう!? 俺の子を身籠もった君の糸を使えば俺の結界も強くなると言った母の指示で、ここの会場の守りに俺たちの結界を使ったんだ。その所為で今皆が妖魔に襲われかけているんじゃないか!?」
この後に及んでまたしても修羅場に突入する二人に、最早掛ける言葉はない。ただ、呆れと怒りが綯い交ぜになった蔑みの眼差しが二人に集中していた。
早々に孝志を見限った巽は、彼らを無視しいつの間にか近くに来ていた可愛らしい顔立ちの結界師に声を掛ける。
「環、あの三人を拘束しておけ。今回の責もきっちり負って貰わねばならないからな」
「はい、分かりました。……先輩は?」
仕事上の部下なのだろうか、環と呼ばれた結界師は頷いてから巽を見上げる。問われた巽は自信満ちあふれる美しい笑みを浮かべ、藤花を見た。
「もちろん、新たな結界を張る。藤花、糸は持ってきているな?」
「はい。いつ必要になってもいいように、ひと綛は常に持つようにしております」
「流石我が妻だ」
満足そうに頷いた巽と共に、藤花は扉の方へ向かう。扉の外に出た途端、妖魔の吠える声が聞こえた。
ゴガウゥ!
思わずびくりと肩を震わせ雄叫びの方を見ると、応急処置として張られた結界に阻まれながらもなお突撃してくる妖魔がいた。
大小様々な妖魔が結界の外を囲んでいるが、中でも大人の熊ほどの大きさの妖魔が赤い目を暗闇で光らせ、結界に突進している。
グルルゥ、と唸りながら、結界越しに藤花の陰の気を感じ取ったのか、その赤い目がこちらを見た。
「っ!」
悲鳴はなんとか喉元で抑えたが、以前襲われた記憶が甦り身体が硬直する。
だが、すぐに巽が守るように間に入ってくれた。藤花の方を向き、軽く抱きしめるように覆う。
「大丈夫だ。お前の糸を使った俺の結界なら、あのような妖魔瞬時に弾かれる」
「旦那様……はいっ」
巽の温もりを感じ、落ち着きを取り戻した藤花は力強く頷いた。
不安はない。
丁寧に育てた良質のソウキ草から取れた葉を、丁寧な撚糸で紡いだ純白の細い糸。それを使うのは、我が子という絆で結ばれた、最強と言われる愛しい旦那様。
最高で、最強の結界が出来上がるという確信が、藤花にはあった。
巽も同じなのだろう。藤花の手から糸を受け取ると、何の不安もない笑みを浮かべ前へ向き直る。
霊力を送り淡く光った糸の端を空に投げると、宙に巽の結界紋が描かれて行く。
脆く壊れかけている孝志の籠目紋の結界の内側に、美しい流水紋が線を引いた。
完成した結界はほんのり青く光り、結界に描かれた流水紋が正に流れるように動いている。
「これは……」
驚きから思わず声が零れた。
紋が動く結界など、今まで見たことも聞いたこともない。
しかも巽の結界に触れた妖魔は、まるで動く紋に流されるようにその身を持って行かれ、少し離れた場所へと弾かれた。
更に驚くことに、弾かれた妖魔は凶暴性がなくなったかのように山へ帰って行く。
何が起こっているのかと結界を見つめていると、未だ前を向いている巽が「そうか」と納得の声を上げた。
「流水は厄を流す。それに、流れる水は腐らないため清らかさの象徴でもある。この結界は妖魔を弾くだけでなく、妖魔の崩れた陰陽の均衡を正すというのか!」
興奮気味に話した巽は、勢いよく藤花の方へ振り返る。
その瞳には、まるで幼子のようなきらきらした光が宿っていた。
「凄い! 素晴らしいぞ藤花! 本当に、お前は最高の嫁だ!」
無邪気なほどに喜び抱きついてくる巽を、藤花は可愛いなと思いながら苦笑する。
だが、事実これほどの結界は見たことがなく、はしゃいでしまう気持ちはよく分かった。
「ありがとうございます。ですが旦那様こそ、最高の夫ですよ?」
藤花の糸の力だけでここまでの結界は張れない。結界師と巫女。夫と妻。二人の共同作業だからこそ作ることができた結界だ。
お互いを褒め合っていると、会場の中にいた人たちも見たことのない結界を確かめようと外に出て来る。
皆、魅入られたように流水の結界を見上げ、「美しい……」と呟くのみだった。
「これは、凄いですね……今までの常識がひっくり返りますよ?」
いつの間に近くに来ていたのか、環が巽に声を掛ける。どこか呆れを含ませた声に目を向ければ、彼の近くに拘束された三人の姿も見えた。
節子は口をあんぐりと開け固まり、孝志はただただ結界に見入っている。
そして緑子は……。
「何よ、これ……こんな結界、他の誰にも作れるわけがないじゃない」
涙を流し声を震わせ、彼女は藤花を見る。その顔は、最早絶望に近い表情をしていた。
「糸も、なんであんなに細く綺麗に紡げるのよ……なんで、私にはできないのよぉ……」
最後にそう言った緑子は、項垂れもう何も話さなかった。
豊饒祭の後がまた大変だった。
節子は地方へ下働きとして飛ばされ、孝志は黄賀家の派閥結界師が総出で鍛え直すことになり、緑子はその所業がつまびらかにされ服役することとなった。
他にも節子のせいで堕落した【つむぎ館】を立て直すために巽や藤花も助力を頼まれた。
だが、一番大変だったのは新たな結界作成についてだろう。
この強力過ぎる結界をどう扱うか、巽の職場である陰陽庁を飛び越え、政府内外で色々議論が成されているらしい。
そのため巽は連日帝都を飛び回る羽目になり、いつも疲れて帰って来るのだ。
「お疲れ様でございます、旦那様。……その、大丈夫なのですか?」
着替えた途端、ぐったりと藤花にもたれかかる巽に心配の声を掛けた。すると巽は更に甘えるように藤花の背へ腕を回す。
「大丈夫じゃない。だからこうして藤花に癒やされているんだ」
子どものように甘える巽に仕方ないな、と笑みを浮かべた。こうして甘えてくるのは自分にだけなのだと知っているから、愛しいとしか感じない。
思わず藤花も巽に腕を回しその背を撫でていると、そのままの体勢で逆に心配された。
「藤花こそ大丈夫か? 腹も大きくなって、そろそろ産まれてもおかしくないのではないか?」
「そうは言いますけれど、臨月にはまだ少し早いですよ?」
少々気が早い巽に苦笑すると、彼は柔らかな笑みを浮かべ藤花の額に口付ける。
「なんにせよ、無事に生まれてきてくれればいい」
そう言って藤花の腹を撫でた巽に応えるように、赤子が腹を蹴った。丁度手を当てていた巽にもそれが伝わったのだろう。
互いに顔を見合わせて、同じ幸福に顔をほころばせた。
了



