「あ、あの! お待ちください!」
 藤花の手を取った男性は、「行こう」とだけ告げて彼女の手を引いて歩き出してしまった。
 直前に聞いた『お前が俺の妻だ』という言葉も意味がわからないが、よく考えてみれば自分はこの男性のことをなにも知らない。部外者なのは分かるのだが。
 だが、そういえば孝志と緑子が本日は客人が来ると言っていた。
(まさか、この方は……)
 予測したことの答えは、すぐに知ることとなる。
 男性に引かれ戻った本館の入り口で、待機していた節子が驚愕の表情で出迎える。
「た、巽様? あの、その娘は……」
「ああ、遠原どの。出迎え感謝する。色々と準備して頂き申し訳ないが、俺はこの娘を妻にすると決めた」
 節子が呼んだ男性の名に、藤花はやはりと思う。予測したとおり、この男性は本日の客人である黄賀巽その人だったのだ。
 結界師の中でも三本の指に入る名家・黄賀家の嫡男にして、最強と謳われる結界を張れる人物。そんな巽が、自分を妻にと言ったのか。
(先程の言葉も、幻聴ではなかったのね……)
 もう一度聞かされた『妻』という言葉。本当に彼は自分を妻にする気なのかと、藤花はただただ驚いていた。
 その驚きは、節子や駆けつけた【つむぎ館】の者たちの方が強かったらしい。
「こっこの娘とは……毒巫女ではありませんか!?」
「え? 巽様は毒巫女を選んだとおっしゃっているの? 嘘でしょう?」
「有り得ないわ。あんな毒虫のどこが良いというの? ほら、いつ見ても醜いこと」
 駆けつけた者たちも口々に藤花を蔑む言葉を紡ぐ。いたたまれない心地になり俯いていると、孝志と緑子も現れた。
 周囲に事情を聞きながら騒がしい中を進んでくる二人に、身体が固まる。
 先程『小屋から一歩も出るな』と言われたばかりだというのに、客人に見つかるどころか共に現れるなど……。
 目を合わせずとも感じる、刺すような視線が辛かった。
「お久しぶりです、巽どの。なにやらその娘を妻に決めたとおっしゃっているようですが……早々にそのような者に決めずとも、良い巫女はもっとおりますよ?」
「そうですわ。顔の痣も醜いですし、糸だって毒々しいものしか作れない毒虫です。巽様に相応しいとは到底思えません」
 笑顔で諭す二人だったが、巽は断固として意見を変えない。
「ああ、久しいな孝志どの。だが、この娘以上に俺に相応しい妻はいない。この糸を作ったのは、この娘なのだろう?」
「っ! それは!」
 話しながら上げた巽の手にある赤い糸を見て、真っ先に節子が反応し藤花を睨んだ。
 処分しろと言われていたのに残していたことを知られてしまった。きっと、あとできつく仕置きされるのだろう。
 与えられる痛みを思い怯えるが、巽は未だ藤花の手を離してくれない。
 逃げることも許されず、ただ俯き固まる藤花の耳に、巽の喜色に満ちた声が届いた。
「この赤い糸に俺の霊力を流してみた。相性が良いのかよく馴染む。他の巫女を薦めて頂き申し訳ないが、俺はこの巫女に決めた。変えるつもりはない」
 本来の糸練りの巫女が作る白い糸よりも、毒々しく赤い藤花の糸が良いと言う巽に、節子は呆気に取られる。その横から孝志が進み出た。
「確かにこれ(・・)は巽どのに匹敵するほど霊力が高い。ですが毒巫女ですよ? このような醜い娘を選ばなくとも良いではありませんか」
「そうです。その者は妖魔に襲われ毒巫女となってしまった娘です。巽様のお相手として相応しくありません!」
 孝志の言葉を後押しするよう緑子も続く。二人の言葉は特に藤花の心に刺さったが、巽はそれを一蹴するように鼻で笑った。
「そんなもの、妖魔の気を受けてしまっただけだろう? 妖魔の気は陰の気に近いから、巫女の身体と変に馴染んでしまっただけではないか?」
 毒巫女だ、毒虫だと揶揄される藤花をまるで気にしない巽に、藤花は純粋に驚き彼を見上げる。
 その美しく整った顔には、偽りを口にしているようないやらしさはなく、ただただ自信ありげな笑みが浮かんでいた。
「男の陽の気を受ければ気を整えることができ、巫女の陰の気も戻るだろう。俺の強い陽の気ならば、痣も完全に消えるのではないか?」
「え? 痣が、消える?」
 続けられた巽の言葉に、藤花は半信半疑で呟く。
 顔の痣も、この身に馴染んでしまった妖魔の気も、もうどうすることもできないのだと思っていた。だが巽の言葉では、陽の気を受ければ元に戻せるという。
 本当なのだろうかと疑う気持ち以上に、期待に胸が熱くなった。
「そ、れは……そうかもしれませんが」
 巽の言葉に反応したのは孝志だ。なにやら苦々しい顔をしている。
「ですが、そのような醜い巫女へ陽の気を与えるなど……嫌ではありませんか?」
「そうか? 痣は確かに美しいとは言えないが、顔の作りは整っているだろう。痣が消えれば大層な美人になる」
 声も表情も嫌悪に満ちた孝志の言葉すら気にせず、巽は藤花の顔をのぞき込む。
 この場にいる誰よりも美しいのではないかと思えるような顔を近づけられ、藤花は気恥ずかしすぎて息を止めた。
 藤花の顔をじっと見つめたあと、満足そうに頷いた巽はやっと少し離れてくれる。止めていた呼吸を再開し、藤花は胸を大きく上下させた。
 巽は最早なにも言えなくなった周囲を尻目に、力強い笑みを浮かべ藤花に告げる。
「俺の陽の気を受ければ、その痣も徐々に消えるだろう。俺の名は黄賀巽だ。お前の名は?」
「あ、藤花……志島藤花と申します」
 名を告げながら、今の今まで聞かれなかったことに少々呆れた。名も知らぬ状態で妻にすると決めるとは、と。
 だが、巽の男らしく力強い笑みを見ると、そのようなことは大した問題では無いと思えてくる。自信に満ちあふれた笑みは、彼の行動を非のないものにしている気がした。
 美しく逞しい巽は、軽く目を見開いてから口の片端を上げ、どきりとするような笑みで藤花に告げる。
「藤花……俺の妻になれ。俺は今あるものより強い結界を張れるようになりたい。そのためにはお前の強い陰の気が必要なのだ。俺の陽の気でその顔の痣と妖魔の気を消し去ってやる。だから、嫁に来い」
 妻に乞うと言うより、命令に近い。
 だが、巽の強さは視線を通じて藤花に勇気をくれた。周囲の視線は痛く、特に孝志と緑子からの射殺すような視線は恐ろしい。それでも、巽の言葉に強く惹かれた。
(痣が消え、気が整う? では、また白の糸が紡げるの?)
 夢想することしかできなかった願い。それが叶えられるという言葉に心が震える。
 そしてなにより、巽は藤花を必要としてくれていた。【つむぎ館】の全ての者に蔑まれ、悪意しか向けられていない自分を。
 巽から伝わってくる強さは、その希望を掴み取りたいという力となった。その力に導かれるように、藤花は口を開く。
「――はいっ。私、あなたの妻になります。嫁に行きます!」
 掴まれたままの手を強く握り返し、巽の目だけを見て返事をした。

 求婚を了承した後は天手古舞いだった。
 善は急げと言わんばかりに、まともな準備期間もなく婚姻の準備が進んでいく。
 その日のうちに藤花は帝都にある黄賀邸へと引っ越し、翌日には急遽呼び出された藤花の両親と巽が挨拶を交わし。三日後には身内だけの簡素な式が行われた。
 婚姻を了承したとはいえ、まさかここまで性急に進められるとは思わず、藤花は目まぐるしい思いでこの三日を過ごした。
 巽は藤花のためにも急いだ方が良いと言うが、自分のためとはどういうことなのか。
 詳しい説明もないため指示されるままに動いていたが、式を終えた夜――初夜となった今ならばちゃんと理由を聞けるだろうか。
 先に寝室で待ちながら聞きたいことを整理していると、静かな夜の空気に紛れるようにそっと襖が開いた。
 巽が来たのだと知り、藤花は慌てて三つ指をつく。頭を下げ、「お待ちしておりました」と告げた。
「ああ……堅苦しいのはいい。藤花も疲れただろう?」
 巽自身も疲労を含ませた声音で答えると、少々乱雑に褥へ腰を落とす。どうやら声だけでなく、身体も疲れているようだ。
「巽様――いえ、旦那様もお疲れのご様子……本日はこのままお休みになられますか?」
 色々と不明だったことを聞こうと思っていた藤花だが、巽の疲弊した様子を見て考えを改める。質問ならばまたいつでもできる。今はそれよりも彼の身体の方が大事だ。
 だが、巽は緩く首を振り藤花へと手を伸ばす。
「いや、このために婚姻を急いだのだ。これ以上先延ばしにしては意味が無い」
「え?」
 顔を上げた藤花の頬に、巽の硬い指が触れる。そっと優しく包む異性の手に、藤花の心臓は瞬時に早鐘を打った。
「妖魔に襲われてからもう二年経っているのだろう? 時が経つほど妖魔の気はお前に馴染んでしまう。完全に消すには、早急に多くの陽の気を受け止めて貰わなくてはならない」
 だから、存分に陽の気を受け止めて貰えるような状況を急ぎ作ったのだと巽は語った。
 話しを聞きながら、初めはよく分からなかった藤花だが、途中で『陽の気を受け止める』とはどういうことなのかを理解し思わず「あっ!」と声を上げる。
「そ、そうでしたか。『陽の気を受け止める』とは、そういう……」
 つまり、夫婦の営みをするということだ。その行為自体が、陽の気を受けるということなのだろう。
「なんだ? 気付いていなかったのか?」
「いえ、その……もっと別の方法で流し込むのかと」
 勘違いしていたこともだが、『陽の気を受け止める』行為を思うとそれ自体が恥ずかしい。
 羞恥で熱くなる顔を隠したい藤花だったが、頬を包んでいる巽の手があるため隠すことが叶わず、少々涙が滲んでしまう。
 そんな藤花を見た巽は、ふっと小さく笑い涼やかな目元を緩ませた。
「恥じらう様は可愛らしいが、ちゃんと俺の気を受け止めて貰わねばならない。覚悟を決めてくれ」
「あ、それは大丈夫です。妻となった以上、勤めを果たす覚悟はしております」
 ほんの四日前まで自分が誰かと婚姻を結ぶことになるとは思っていなかったが、妻としての心構えは二年前孝志の婚約者候補となったときにある程度教わっている。
 恥ずかしさはあっても、巽の妻になると決めた時点で覚悟は決めていた。
「ですがその……お疲れなのにご負担ではないのですか?」
 陽の気を流し込む行為が自分のためである故に、藤花は巽が心配だった。いくら早いほうがいいと言っても、一日くらい延びても問題は無いだろう。
 だが、その心配は無用だったらしい。
「藤花……俺に、初夜になにもするなと言いたいのか?」
「え? いえ、そういうつもりでは!」
 呆れ果てたような巽の表情に慌てて言い訳をする。だが、先延ばしの提案は藤花が心配から口にしたことだというのは理解してくれていたらしい。不満そうな顔はすぐに柔らかな笑みに変わった。
「俺は大丈夫だから気にするな。それに、藤花に俺の気が馴染めば、お前の作る糸はより俺の霊力に馴染むようになる。その糸を使った結界を張るのが今から楽しみでならない」
 どこか子どものようにわくわくした様子を垣間見せた巽に、藤花は軽く面食らう。
 仕事一筋だという噂も聞いていたが、どうやらそれは事実らしい。美しい白の糸を作ることをなによりの喜びとしている自分とは、案外似たもの同士なのかもしれない。
「分かりました。では、よろしくお願いいたします」
 頬に巽の手があるため頭を下げることはできないが、できるだけ丁寧な口調を心がけて頼んだ。すると巽は苦笑し、「あい分かった」と聞き入れ顔を近づけてくる。
 頬にあった手がするりと耳裏に差し入れられ、そのまま口づけが成された。
 冷たくも見える巽の顔だが、柔らかな笑みを浮かべると甘さが滲み出る。醜い痣のある自分になぜそこまで優しい笑みを浮かべてくれるのかと切なく思いながら、藤花は巽の腕に身を任せた。

「……起きたか?」
 微睡みの中声が掛けられ、藤花は意識を覚醒させる。
 開いた目に飛び込んできたのは、少し気怠げな美しい男性の姿。
「あ……」
 上半身裸の男性の存在に一瞬驚きつつも、すぐに自分の旦那様なのだと気付いた藤花は声を上げようとして一度止める。出そうとした声が掠れていて、上手く話せなかったのだ。
 つばを飲みこみ、少し喉を潤してからもう一度口を開く。
「おはようございます、旦那様」
「ああ、おはよう。少し水を飲むか?」
 まだ少し声が掠れていたのか、巽が気遣ってくれる。正直有り難いと思った藤花は、頷き半身を起こした。
 共に半身を起こした巽は、藤花が手を伸ばすより先に水差しを手に取り乳白硝子のコップへ水を注いでくれる。申し訳なさを抱きつつも、礼を言い受け取り口を付けた。
 冷たすぎない水に喉を潤していると、藤花をじっと見ていた巽が淡く笑みを浮かべぽつりと話しだす。
「……やはりいきなり完全には消えるということはないか。まあ、それでもずいぶんと薄くなったのではないか?」
「え?」
 なんのことを言っているのだろうと疑問に思い彼の顔を見ると、どこか嬉しそうに目を細められた。
 巽はそのままなにも言わず藤花の手にあるコップを取り、代わりに手鏡を渡してくる。
「顔の痣だ。俺の陽の気を受け、早速薄まってきたようだ」
「え? ほ、本当ですか?」
 驚き巽に確認すると、鏡を見てみろと促された。
 藤花は緊張の面持ちで手鏡をゆっくり持ち上げる。
 毒巫女の証でもある赤い痣を見たくなくて、この二年自分から鏡を見ることはなかった。それでも水面に映ってしまったり、不注意で設置されている鏡を見てしまったりということはあり、その度に変わらぬ赤い痣を見て絶望を心に宿した。
 本当に薄くなっているのだろうか? もし、大して変わっていなかったら?
 期待と不安が入り混じり、手が震える。僅かでも震えが治まるように両手で手鏡を持ち、勇気を振り絞って鏡を見た。そこに映っていた自分の顔は――。
「あ……っ、ふっ……ふぅうっ」
 思わず、涙が溢れた。
 糸練りの巫女として不良となってしまった自分。その証でもある顔の痣が、今は明らかに薄くなっている。毒々しい赤い色だったのが、濃い桃色くらいになっていたのだ。
 消えてはいないが、明らかに薄くなっている痣に喜びの感情が溢れ出た。滾々と湧き出る泉のように、涙が止まらない。
「藤花……」
 泣いてしまった藤花を労ってか、巽がそっと声を掛ける。
「あ、申し訳ございません……その、嬉しくて」
 突然泣いてしまい困らせただろうかと慌てて理由を説明するが、巽は分かっていると言わんばかりに藤花の肩を抱いた。
「いい。……時間はかかるだろうが、その痣はもっと薄くなる。安心しろ」
「っ! はい……はいっ! ……ありがとうございます」
 涙は止まらないが、喜びの感情だけは伝えたくて礼を言う。
 毒巫女という呪縛から解放してくれた巽に優しく抱かれながら、藤花はもうしばらく泣き続けた。

 帝都にある職場にて、巽は渋い顔で部下たちの提出した報告書を確認していた。
「ここの結界もか……」
 いくつ目とも知れない結界の綻びに関する報告書を見て、思わず大きなため息が出る。
 昨今結界の質が悪くなっているのか、綻びはじめるのが早い。
 結界師の力が弱くなっているのかとも思ったが、昔から黄賀家を含む有力三家がそれぞれの派閥の結界師を鍛えている。いつの世も競い合うように優秀な結界師を輩出しようとしている三家が、弱い者を結界師として認めるとは思えない。
 なので結界を作るために必要な糸が原因なのかと思い、嫁探しを口実に【つむぎ館】へ行ってみたのだが、糸の原料となるソウキ草の質は問題無さそうだった。
(あとは……巫女か)
 絞り込むが、先にソウキ草の質を確かめに行き、その場でこれ以上はないほど自分に合った糸を見つけてしまい、つい調査よりもその糸を作った巫女を手に入れることを優先してしまった。そのため巫女たちの様子をよく見てくることができなかった。
 失態だ、とは思うものの後悔はない。それに、残るは巫女のみだ。
(あとは原因をしっかり調べることができれば……)
 報告書を睨みつけながら考えた巽は、顔を上げ別の執務机でそろばんを(はじ)いている部下に視線を向けた。
(たまき)。お前、そういえば婚約者が決まっていなかったな? 近いうちに【つむぎ館】へ行く予定はないか?」
「はい!?」
 巽の言葉が予想外だったのか、環は驚きの声と共に勢いよく頭を上げる。丸い目が零れんばかりに見開かれ、巽を凝視していた。
「糸練りの巫女たちのことを調べてきて欲しいのだ」
 続けて真面目に話し出した巽に、環は実年齢より若く見られる顔立ちを歪ませる。
「はぁ? この忙しい中行けるわけないじゃないですか!? 大体巫女の調査も先輩がするはずだったでしょう? なのに自分だけちゃっかり嫁さん見つけてきて……」
 叫びながら涙を滲ませるほどに悔しがる環に、巽は悪びれることなく「そうだな」と答えた。
「仕事で向かっただけだったが、これ以上無い最良の相手を見つけることができた」
「なんですか? 惚気ですか!?」
 素直に思ったことを口にした巽に、なんとも恨めしそうな顔で環は悲鳴のような声を上げる。
「惚気? ああ、そうだな」
 惚気たつもりはなかったが、指摘されるとその通りな気がした。
 糸が目的で婚姻したが、藤花自身のことも気に入っているのは確かだ。
 名を聞いた瞬間甦った記憶を思い、思わず目じりが緩む。運命とはこのことだろうかと柄にもなく思ってしまった。
 そんな過去の記憶がなくとも、藤花は清らかで可愛い。
 初夜明けで、顔の痣が薄まり涙を流す彼女を見て、どうしようもなく胸が熱くなった。庇護欲をそそられたというのに近いかもしれないが、それだけではない気がする。
 藤花は自分にとって最良の巫女だ。それだけでも十分なはずだが、巽はそれ以上の感情を彼女に抱き始めていた。
 独占欲、恋情、愛情。それらが入り混じったような強い感情が渦巻き、藤花を抱きしめたい衝動に駆られる。
(これが、恋というものなのだろうか?)
 想像し、自身の胸に宿る感情がそんな可愛らしいものではないことに苦笑する。
 恋かもしれないが、おそらくもっと強い感情だ。
 藤花のことを思い出し自身の思いを自覚していると、環の呆れたような声が掛けられる。
「なんにせよ、僕はしばらく調査になんて行けませんからね。頼むなら他の人にお願いします」
 言い終えると、環はまたそろばんを弾きはじめる。
(他に適した人材がいないから頼んだんだがな)
 【つむぎ館】に比較的よく出入りしている孝志も考えたが、あれだけ近くにいても巫女たちの変化に気付いていないなら当てにはできない。以前【つむぎ館】で会ったときの様子を見ても、巫女側に不備があっても巫女の味方をしそうだ。
 巽は疲れたように深く息を吐き、また仕事に戻った。

 黄賀邸には小さいがソウキ草の畑もあり、藤花は早速婚姻翌日から世話をはじめた。
 ソウキ草は手間を掛ければ掛けるほど質の良い葉を作る。土に霊力を流し込み、清らかな水を丁寧に根元にかけ、枯れそうな葉を見つけたらすぐに取り除き、雑草が生えればできる限り根元から根絶する。
 【つむぎ館】の畑に比べると黄賀邸の畑は当然ながら小さいので、藤花はより丁寧に育てた。
 そうして形の良い青々とした葉を収穫し、巽の使う糸を作る。
 まだ完全に自分の中にある妖魔の気が消え去ったわけではないので、藤花の作る糸は真白ではない。だが、痣同様確実に薄くなっていた。
 巽の陽の気を受けるたびに痣も、作る糸も少しずつ薄くなっている。
 いずれまた白の糸を作れるようになるのだという希望が、藤花の心を明るくしていた。
 そんな幸福を感じながら日々を過ごしていたある日。
 仕事が遅くなるからと巽が共寝できず、一人で眠った日の翌朝。
 日課になっていた手鏡で痣の確認をした藤花は、自分の変化に戸惑い狼狽える。
「え? これは……」
 鏡の中の自分の顔には、醜い痣どころかシミ一つ無い。
 少しずつ消えていくものだと思っていた痣が、突然綺麗さっぱり無くなっていたのだった。

 朝、仕事から戻ってきた巽を出迎えた藤花は、自身もまだ戸惑いつつも状況の説明をする。
 話を聞いた巽は、「もしや」と呟きすぐに専属医の診察を受けられるよう手配してくれた。
 痣が消えたことは喜ばしいが、突然過ぎる変化に戸惑い不安に思っていた藤花に、医師は「おめでとうございます」と告げる。
「ご懐妊されています」
「……かい、にん?」
 医師の言葉が予想外すぎて、藤花は呆然と繰り返した。
「やはりそうか!」
 藤花の横で共に診察結果を聞いていた巽が嬉しそうな声を上げたことで、やっと理解が追いつく。
 信じられないが、自分の腹の中に巽との子がいるのだ。実感はないが、ほんのりと湧き上がってくる喜びに似た感情を藤花は噛み締める。
 だが、突然痣が綺麗に無くなってしまったのと懐妊がどう関係があるのだろう?
 疑問に小首を傾げていると、医師がゆっくりと説明してくれた。
「女性が子を身籠もるには、一度陽の気を全身に巡らせる必要があります。おそらく、巽様の陽の気が一時とはいえ全身に巡ったことで、妖魔に与えられた毒の陰の気が完全に消え失せたのでしょう」
 巽の強い陽の気でなければここまで綺麗に消えなかったかもしれない、と話す医師の言葉にそういうことかと納得していると、巽がじっとこちらを見ていることに気付く。
「本当に、喜ばしい。子は俺とお前の絆だ。切れることのない絆が、藤花の糸をより強くし、俺の霊力により馴染むようになる」
「そう、なのですね」
 自分の作った糸が巽のためになることは喜ばしい。だが、純粋に子を喜んでいるというよりは強い結界が作れることを喜んでいるように聞こえ、藤花の心は僅かに翳る。
(でも、喜んでくれていることに変わりはないわ)
 藤花は翳った心を上向かせるように、自分にそう言い聞かせた。