娘は青々とした一枚の葉に、桜色の唇で触れた。
そのまま葉に霊力を送りながら細く息を吹きかけると、葉は淡く光り、先端から光の糸を放出する。
その糸を紡錘と呼ばれる専用の棒を使って巻き取っていく。
美しく、細い糸。けれどしなやかな強さもある、特別な糸だ。
糸練りの巫女がソウキ草と呼ばれる葉で作る糸は、結界師が人里に張る結界を作るために必要な素材だ。
陰の気を持つ女性である巫女が紡ぐ糸。その糸で陽の気を持つ男性の結界師が術式を編み結界を張る。そうして、陰陽の均衡が崩れたせいで凶暴化した動物――妖魔を弾く結界を作るのだ。
優秀な糸練りの巫女の紡いだ糸は白く美しく、とてもしなやか。だが、少女の手にある紡錘に巻き付けられた糸は赤く染まっていた。
毒々しくすら見えるその色に、少女――志島藤花は悲しげにため息をつく。
すると、ざりっという土を踏む音と共に強い叱責の声が響いた。
「こんなところでなにを怠けているんだい! 毒虫が!」
激昂したような声に、藤花はビクリと肩を震わせ声の主を見る。
畑の端に突然現れた女性は、白髪交じりの髪をひっつめるように結い上げている。彼女はこの畑を含む施設、【つむぎ館】の主人である遠原節子だ。
糸練りの巫女の素養がある娘たちを集め、修練する場所である【つむぎ館】。節子は、ここの教官も務めている。
「申し訳ございませんっ」
普段から厳しい節子に見つかり、藤花は反射的に頭を下げた。
与えられた仕事はしっかり済ませてはいるが、藤花は本来糸を作る行為――撚糸の作業を許されていない。巫女たちが使えない虫喰いのあるソウキ草を使っているとはいえ、撚糸をしたことが節子に知られては叱責だけではすまない。
すぐに謝罪し紡錘を後ろ手に隠したが、その動作が不自然に見えてしまったのだろう。見咎められてしまった。
「なんだい? なにを隠したんだ!」
眉をつり上げ近付いてきた節子は、隠しきることのできなかった赤い糸が巻きついた紡錘を見つけてしまう。
その目に宿る感情が、明らかな怒りへと変わった。
「毒虫がっ! 撚糸をしたね!? 穢らわしい!」
「あっ!」
怒鳴り声と共に紡錘が奪い取られ、地面に投げつけられた。
とっさに拾おうとした藤花だったが、手が届いた瞬間自身の手ごと紡錘を踏みつけられてしまう。
しかも、そのままの体勢で髪を掴まれ顔を無理矢理上げさせられた。
「何度言ったら分かるんだい!? お前はもう糸練りの巫女じゃないんだよ! この顔の痣ができたときから、お前は白い糸が作れなくなった。こんなっ、毒みたいな色の糸しか作れない毒巫女になったんだってね!」
「うっくぅ……」
与えられた痛みに歪んだ藤花の顔は、花が咲き誇るような艶のある美しい造りをしている。
ただ、左目の上から頬にかけて、その美しさを大きく損なう赤い痣があった。
「妖魔に襲われ、毒巫女になったお前にはソウキ草の世話くらいしかできることはないんだ! お前は自分のすべきことだけをやっていればいいんだよ!」
「あっ」
ひとしきり言い終えた節子は、乱暴に藤花の髪を離し紡錘ごと藤花の手を踏みつけている足をどかした。
「ソウキ草の葉の収穫量も増えてきたんだ。さっさと仕事をおし!」
怒鳴りつけ、そのまま去ろうとした節子は、最後に冷たい眼差しで藤花を見下ろす。
「ああ、その糸はしっかり燃やして処分しておくんだよ? そんな穢らわしい糸、結界師の方々に見られたらお前ごと処分されかねないからねぇ」
最後には冷笑を浮かべ、節子は今度こそ去って行った。
頭と手の痛みに耐え、藤花は立ち上がり紡錘から糸を外す。
糸練りの巫女が紡いだ物とは似ても似つかない赤い糸。このようなものしか作れなくなった自分は、節子の言うとおり撚糸する資格はないのだ。
「分かっているわ……でも」
分かっている。だが、それでも時折仕事の合間にこうして紡いでしまう。
より強く、より美しい糸を紡ぐことが好きだった。糸練りの巫女の仕事は、藤花にとって天職とも言えるものだったのだ。
それが二年前、妹を助けるため妖魔に襲われたことで一変した。
質のよいソウキ草を育てるのも糸練りの巫女の役目。ソウキ草は穢れのない澄んだ水で育てるのが特によいとされている。
あの日は藤花の誕生日で、妹の朱梨は姉のためにと山へ清水を汲みに向かったのだ。
だが暗くなっても帰ってこず、妖魔の蔓延る夜が近付く。
捜索も行われたが、日が完全に落ちてから結界の外に出るのは大の男でも危険だということで休止するという話を聞いた。
それを知った藤花は、親友が止めるのも聞かずに結界の外へ出た。
妖魔は陰の気を好む。特に、糸練りの巫女のように霊力の強い者の気を。
朱梨は糸練りの巫女ではなかったが、もう少し霊力が高ければなっていてもおかしくはなかった。そんな朱梨が妖魔に気付かれず結界の外で夜を明かすことなどできるはずがなかった。
それは優秀な糸練りの巫女と言われている自分も同様だったが、藤花には幼い頃結界師を目指す少年から貰った守り水晶があった。
本来は妻となる女性に結界師が贈る守り水晶。試作品だからとくれた、顔もおぼろげな少年に感謝しながら藤花は山の中を走った。
朱梨とは、藤花が糸練りの巫女として修練するために【つむぎ館】へ住み込むようになってからはあまり会えていない。だが、こういうとき妹がどこへ隠れるのかを把握していた藤花は、無事朱梨を見つけることができた。
安堵したのも束の間。共に山を下りる際妖魔に出くわしてしまい、朱梨を逃がすために藤花は囮となる。
素早い妖魔から逃れることはできず顔を僅かに傷つけられてしまったが、守り水晶のおかげで逃げ切ることができた。試作品故に守り水晶はそのとき壊れてしまったが、藤花は無事戻ることができたのだ。
……だが、付けられた僅かな傷から妖魔の気が流れ込んでしまったのだろう。それは大きな痣となり、藤花の身に残ってしまった。
妖魔の気を内包するようになってしまった藤花は毒巫女となり、周囲から『毒虫』と蔑まれるようになってしまったのだ。
朱梨を助けたことは後悔していない。だが、毒巫女となってしまったことで撚糸を禁止されてしまったことは辛い。
(いつかまた、美しい白い糸を紡ぎたい)
叶うことの無い願いを胸に、藤花は赤い糸を握りしめた。
***
「あら、毒虫がこんなところに。みすぼらしい小屋に早く戻ってくれないかしら?」
ソウキ草の畑から収穫した葉を本館の土間へ運んでいると、嫌悪に満ちた声が投げかけられた。
藤花は聞き馴染みのある声に思わず顔を上げ、そして後悔する。
座敷の上から藤花を見下ろしているのはひと組の男女だった。かつて親友だった女性・勝田緑子と、少なからず思い合っていた男性・遠原孝志だ。
二年前までは優しかった二人の眼差しは、今は侮蔑と嫌悪の感情しかない。
結界師と糸練りの巫女はその関係性から夫婦になることが多い。夫婦の絆が、そのまま糸の強度や使いやすさに直結すると言われているからだ。
そのため、二年前までは結界師で節子の実子でもある孝志の婚約者には藤花が候補に挙がっていた。
だが、藤花が妖魔に襲われ毒巫女となってしまったため、次に霊力の高い緑子が彼の婚約者に収まったのだ。
孝志とは少なからず心を通わせていたため辛くはあったが、孝志の相手が親友の緑子であれば寧ろ祝いたいと思った。
しかし、祝いを口にした藤花に二人は蔑みの眼差しを向けた。
『止めてくれ、毒巫女となった君からの祝いなど……呪いの間違いじゃないのか?』
思い合っていた過去など無かったかのように、孝志は汚物を見るようなしかめっ面で告げた。
『そうよ、あなたは孝志さんを思っていたもの、本当は私のことを恨んでいるのでしょう? そうに違いないわ』
緑子は藤花の祝いたいという心自体を否定した。
いくら違うと言っても彼らは聞き入れず、二人は藤花を完全に拒絶したのだ。
二年経った今では、もはや同じ人間として扱ってくれることはない。
【つむぎ館】の巫女のほとんどから憧れの眼差しを向けられている美男子の孝志は、その穏やかそうな顔を歪ませ藤花を睨め付けた。
「本当に目障りだな。今日は黄賀の嫡男どのが来られるというのに」
「まあ、では本日のお客様とは結界師最強と噂される黄賀巽様のことなのですか?」
孝志の言葉に、緑子はぱっと笑みを浮かべ彼を見上げる。釣り気味の目じりが下がり、優しい雰囲気になった。
黄賀家は結界師を率いる有力三家の一つだ。その嫡男の噂なら、藤花も耳にしたことがある。
なんでも仕事一筋の冷血漢で、周囲にそろそろ妻を、と促されても婚約者すら作らない変わり者だとか。
だが、【つむぎ館】に来るということは婚約者を決めるつもりになったということだろうか。結界師の妻は糸練りの巫女であることが良いとされているため、これまでも嫁探しのために【つむぎ館】を訪れる結界師が多くいた。
「そうだよ。かの御仁はもう二十一だというのに婚約者がいないからね。今日は下見程度だろうが、良縁が結ばれるよう俺も支援できればと思ってこちらへ来たんだ」
孝志の緑子へ向ける眼差しは、藤花へ向けるものとは違い優しい。その眼差しを受けている緑子も、幸福そうな笑みを浮かべている。
仲睦まじい二人の様子を見ていられなくて、藤花は俯く。
孝志への恋心はすでに無く、親友だった緑子への期待もとっくに消え失せた。
だが、優しかった頃の二人の記憶があるが故に、現在との落差が苦しい。
(やはり、私は畑に引き籠もっているのが一番いいのよ。その方がみんなを不快にさせないし、質のいいソウキ草を育てればみんなの役に立てるもの)
虐げられ、蔑まれようとも、みんなの役に立てる仕事がある。それが、今の藤花にとって唯一の救いでもあった。
「それは素晴らしいわ。私も微力ながら孝志さんのお手伝いをさせて下さい」
自分たちだけの世界を創り上げる二人に、藤花はいたたまれない気分になる。
この場を立ち去る機を逸してしまった。なにも告げずいなくなってもいいのかもしれないが、それはそれで礼を欠く。巫女としての教養すらも無くしてしまったのかと、二人に思われるのは嫌だった。
だが、そのようなことを気にせず去っておくべきだったのかもしれない。
動けずにいる藤花に再び視線を向けた孝志は、その穏やかな表情をまた嫌悪の感情で満たした。
「そういうことだから、醜いお前に本館をうろつかれるのは目障りなんだ。さっさといなくなってくれないか?」
吐き捨てるような言葉に、緑子もつられるように眉間のしわを深くする。
「そうよ。今日は特に、畑の小屋から一歩も出ないでほしいわ」
「っ、はい」
なにも期待しなくなったとはいえ、かつて優しかった二人に蔑まれるのが一番辛い。
藤花はその辛さから逃げるように、返事をするとすぐに土間を出る。
二人の刺すような視線が届かない畑へと急いだ。
ソウキ草が生い茂る畑が見えてきて、藤花は安堵し走っていた足を緩める。
今日は水やりと共に霊力を与えたら、小屋の中でできる作業をしよう。本当は昨日途中だった雑草取りを終わらせてしまおうかとも思ったが、緑子に『小屋から一歩も出るな』と言われた。
もしかすると本日の客人である巽を畑にも案内するつもりなのかもしれない。そのときに自分が姿を見せるわけにはいかないだろう。
醜い痣を持つ毒巫女など、誰も見たくはないのだから。
沈む心に足を取られるようにゆっくり歩きながら、藤花はそっと自身の醜い痣に触れた。
(こんな顔、私だって誰にも見られたくはないわ)
できるならば、包帯を巻くなり面を被るなりして隠しておきたい。だが、それは節子に禁止されてしまった。
同じ過ちを犯す者が出ないようにするためだそうだ。……要は、見せしめ。
だから藤花は、あまり人が来ない畑の小屋で過ごすことが多くなった。それを知った節子に、これ幸いと寝食の場を小屋に移されたが、より人に会わずに済むようになったと藤花は安堵した。
今日も、小屋へ引き籠もっていれば誰とも会うことはないだろう。そう考えていたというのに、畑に近付くと見知らぬ人影が見え藤花は足を止めた。
黒の羽織を着た長身の男性。そのような男性に見覚えはないため、部外者だと分かる。
(どうしましょう。あの方が立っておられるの、小屋の入り口にほど近い場所だわ)
気付かれずに小屋へ入ることは確実に不可能な状況に、藤花は困り果てた。
とはいえここに立ち尽くしていても、男性が振り返れば気付かれてしまう。とりあえず身を隠した方がいいかと、畑を囲んでいる林の小道へ向かおうとしたときだった。
僅かに身体の向きを変えた男性の手に持っているものが見え、さっと血の気が引く。
「っ! あれはっ」
藤花は思わず男性の方へと駆け出した。
男性が手にしているのは赤い糸。節子に処分しろと言われていても、憧れる白の糸でないとしても、いつか誰かが使ってくれるかもしれないという夢想から捨てきれないでいた、自分の作った糸だ。
いつもは小屋の隅に隠しておくのだが、今朝は糸を作った直後に本館へ葉を運ぶよう言いつけられたため隠す暇が無かった。せめてもと、ソウキ草の根元に目立たないように散らしたのだが……。
「あのっ、その糸は……」
なんとかして返して貰わなくては。
そんな思いだけで声をかけ、現実を思い出し言い淀む。
あからさまに醜い痣のある藤花。その上、糸練りの巫女が作る白の糸とは似ても似つかない毒々しい色の糸を作っているとなれば気味悪がられるに決まっている。下手をすれば、節子のように暴力を与えられるかもしれない。
しかも、声をかけられたことで藤花の方を見た男性はとても整った顔立ちをしていた。
少々冷たくも見える切れ長な目。通った鼻筋に、顎の線は一切の歪みなど無い左右対称で、これほど美しいという表現が似合う男性がいるのかと思わず見蕩れる。
そんな男性に醜い顔を見られた。羞恥に言葉を詰まらせ、目を逸らす。
「ああ、すまない。先に館へ挨拶に行かねばならないのだが、見事なソウキ草畑が見えたのでな」
藤花の痣はしっかり見たはずだが、男性は気にすることなく会話をしてくれる。
痣を見ても蔑む様な言動をしない男性に、藤花は戸惑いつつも肩の力を抜いた。少なくともこの男性は、自分に乱暴な行いをしない。
ならば、手に持っている赤い糸は自分の作ったものだと告げても酷い扱いは受けないかもしれない。
そう判断した藤花は、僅かに視線を戻しておずおずと口を開く。
「左様でございましたか。あの、その手にお持ちになっている糸なのですが……」
躊躇いがちに返して欲しいと続けるつもりだったが、言葉が切れた合間に男性が口を挟む。
「ああそうだ。この糸を作った者を知らないか?」
「え?」
毒々しい色の糸を作った者を知ってどうするのだろうと疑問に思うが、問うてくる男性は嬉々としている。その様子に戸惑いつつも、藤花は正直に告げた。
「あの……私、です。なので、その糸を返して――」
そのまま糸を返して貰おうと手を伸ばしたのだが、その手は突然男性に掴まれてしまう。
二年ぶりの、殴られる以外の触れ合いに藤花は目を見開いて驚いた。だが、笑みを湛えた男性の口から発せられた言葉は更に驚くべきものだった。
「そうか。ならば、お前が俺の妻だ」
そのまま葉に霊力を送りながら細く息を吹きかけると、葉は淡く光り、先端から光の糸を放出する。
その糸を紡錘と呼ばれる専用の棒を使って巻き取っていく。
美しく、細い糸。けれどしなやかな強さもある、特別な糸だ。
糸練りの巫女がソウキ草と呼ばれる葉で作る糸は、結界師が人里に張る結界を作るために必要な素材だ。
陰の気を持つ女性である巫女が紡ぐ糸。その糸で陽の気を持つ男性の結界師が術式を編み結界を張る。そうして、陰陽の均衡が崩れたせいで凶暴化した動物――妖魔を弾く結界を作るのだ。
優秀な糸練りの巫女の紡いだ糸は白く美しく、とてもしなやか。だが、少女の手にある紡錘に巻き付けられた糸は赤く染まっていた。
毒々しくすら見えるその色に、少女――志島藤花は悲しげにため息をつく。
すると、ざりっという土を踏む音と共に強い叱責の声が響いた。
「こんなところでなにを怠けているんだい! 毒虫が!」
激昂したような声に、藤花はビクリと肩を震わせ声の主を見る。
畑の端に突然現れた女性は、白髪交じりの髪をひっつめるように結い上げている。彼女はこの畑を含む施設、【つむぎ館】の主人である遠原節子だ。
糸練りの巫女の素養がある娘たちを集め、修練する場所である【つむぎ館】。節子は、ここの教官も務めている。
「申し訳ございませんっ」
普段から厳しい節子に見つかり、藤花は反射的に頭を下げた。
与えられた仕事はしっかり済ませてはいるが、藤花は本来糸を作る行為――撚糸の作業を許されていない。巫女たちが使えない虫喰いのあるソウキ草を使っているとはいえ、撚糸をしたことが節子に知られては叱責だけではすまない。
すぐに謝罪し紡錘を後ろ手に隠したが、その動作が不自然に見えてしまったのだろう。見咎められてしまった。
「なんだい? なにを隠したんだ!」
眉をつり上げ近付いてきた節子は、隠しきることのできなかった赤い糸が巻きついた紡錘を見つけてしまう。
その目に宿る感情が、明らかな怒りへと変わった。
「毒虫がっ! 撚糸をしたね!? 穢らわしい!」
「あっ!」
怒鳴り声と共に紡錘が奪い取られ、地面に投げつけられた。
とっさに拾おうとした藤花だったが、手が届いた瞬間自身の手ごと紡錘を踏みつけられてしまう。
しかも、そのままの体勢で髪を掴まれ顔を無理矢理上げさせられた。
「何度言ったら分かるんだい!? お前はもう糸練りの巫女じゃないんだよ! この顔の痣ができたときから、お前は白い糸が作れなくなった。こんなっ、毒みたいな色の糸しか作れない毒巫女になったんだってね!」
「うっくぅ……」
与えられた痛みに歪んだ藤花の顔は、花が咲き誇るような艶のある美しい造りをしている。
ただ、左目の上から頬にかけて、その美しさを大きく損なう赤い痣があった。
「妖魔に襲われ、毒巫女になったお前にはソウキ草の世話くらいしかできることはないんだ! お前は自分のすべきことだけをやっていればいいんだよ!」
「あっ」
ひとしきり言い終えた節子は、乱暴に藤花の髪を離し紡錘ごと藤花の手を踏みつけている足をどかした。
「ソウキ草の葉の収穫量も増えてきたんだ。さっさと仕事をおし!」
怒鳴りつけ、そのまま去ろうとした節子は、最後に冷たい眼差しで藤花を見下ろす。
「ああ、その糸はしっかり燃やして処分しておくんだよ? そんな穢らわしい糸、結界師の方々に見られたらお前ごと処分されかねないからねぇ」
最後には冷笑を浮かべ、節子は今度こそ去って行った。
頭と手の痛みに耐え、藤花は立ち上がり紡錘から糸を外す。
糸練りの巫女が紡いだ物とは似ても似つかない赤い糸。このようなものしか作れなくなった自分は、節子の言うとおり撚糸する資格はないのだ。
「分かっているわ……でも」
分かっている。だが、それでも時折仕事の合間にこうして紡いでしまう。
より強く、より美しい糸を紡ぐことが好きだった。糸練りの巫女の仕事は、藤花にとって天職とも言えるものだったのだ。
それが二年前、妹を助けるため妖魔に襲われたことで一変した。
質のよいソウキ草を育てるのも糸練りの巫女の役目。ソウキ草は穢れのない澄んだ水で育てるのが特によいとされている。
あの日は藤花の誕生日で、妹の朱梨は姉のためにと山へ清水を汲みに向かったのだ。
だが暗くなっても帰ってこず、妖魔の蔓延る夜が近付く。
捜索も行われたが、日が完全に落ちてから結界の外に出るのは大の男でも危険だということで休止するという話を聞いた。
それを知った藤花は、親友が止めるのも聞かずに結界の外へ出た。
妖魔は陰の気を好む。特に、糸練りの巫女のように霊力の強い者の気を。
朱梨は糸練りの巫女ではなかったが、もう少し霊力が高ければなっていてもおかしくはなかった。そんな朱梨が妖魔に気付かれず結界の外で夜を明かすことなどできるはずがなかった。
それは優秀な糸練りの巫女と言われている自分も同様だったが、藤花には幼い頃結界師を目指す少年から貰った守り水晶があった。
本来は妻となる女性に結界師が贈る守り水晶。試作品だからとくれた、顔もおぼろげな少年に感謝しながら藤花は山の中を走った。
朱梨とは、藤花が糸練りの巫女として修練するために【つむぎ館】へ住み込むようになってからはあまり会えていない。だが、こういうとき妹がどこへ隠れるのかを把握していた藤花は、無事朱梨を見つけることができた。
安堵したのも束の間。共に山を下りる際妖魔に出くわしてしまい、朱梨を逃がすために藤花は囮となる。
素早い妖魔から逃れることはできず顔を僅かに傷つけられてしまったが、守り水晶のおかげで逃げ切ることができた。試作品故に守り水晶はそのとき壊れてしまったが、藤花は無事戻ることができたのだ。
……だが、付けられた僅かな傷から妖魔の気が流れ込んでしまったのだろう。それは大きな痣となり、藤花の身に残ってしまった。
妖魔の気を内包するようになってしまった藤花は毒巫女となり、周囲から『毒虫』と蔑まれるようになってしまったのだ。
朱梨を助けたことは後悔していない。だが、毒巫女となってしまったことで撚糸を禁止されてしまったことは辛い。
(いつかまた、美しい白い糸を紡ぎたい)
叶うことの無い願いを胸に、藤花は赤い糸を握りしめた。
***
「あら、毒虫がこんなところに。みすぼらしい小屋に早く戻ってくれないかしら?」
ソウキ草の畑から収穫した葉を本館の土間へ運んでいると、嫌悪に満ちた声が投げかけられた。
藤花は聞き馴染みのある声に思わず顔を上げ、そして後悔する。
座敷の上から藤花を見下ろしているのはひと組の男女だった。かつて親友だった女性・勝田緑子と、少なからず思い合っていた男性・遠原孝志だ。
二年前までは優しかった二人の眼差しは、今は侮蔑と嫌悪の感情しかない。
結界師と糸練りの巫女はその関係性から夫婦になることが多い。夫婦の絆が、そのまま糸の強度や使いやすさに直結すると言われているからだ。
そのため、二年前までは結界師で節子の実子でもある孝志の婚約者には藤花が候補に挙がっていた。
だが、藤花が妖魔に襲われ毒巫女となってしまったため、次に霊力の高い緑子が彼の婚約者に収まったのだ。
孝志とは少なからず心を通わせていたため辛くはあったが、孝志の相手が親友の緑子であれば寧ろ祝いたいと思った。
しかし、祝いを口にした藤花に二人は蔑みの眼差しを向けた。
『止めてくれ、毒巫女となった君からの祝いなど……呪いの間違いじゃないのか?』
思い合っていた過去など無かったかのように、孝志は汚物を見るようなしかめっ面で告げた。
『そうよ、あなたは孝志さんを思っていたもの、本当は私のことを恨んでいるのでしょう? そうに違いないわ』
緑子は藤花の祝いたいという心自体を否定した。
いくら違うと言っても彼らは聞き入れず、二人は藤花を完全に拒絶したのだ。
二年経った今では、もはや同じ人間として扱ってくれることはない。
【つむぎ館】の巫女のほとんどから憧れの眼差しを向けられている美男子の孝志は、その穏やかそうな顔を歪ませ藤花を睨め付けた。
「本当に目障りだな。今日は黄賀の嫡男どのが来られるというのに」
「まあ、では本日のお客様とは結界師最強と噂される黄賀巽様のことなのですか?」
孝志の言葉に、緑子はぱっと笑みを浮かべ彼を見上げる。釣り気味の目じりが下がり、優しい雰囲気になった。
黄賀家は結界師を率いる有力三家の一つだ。その嫡男の噂なら、藤花も耳にしたことがある。
なんでも仕事一筋の冷血漢で、周囲にそろそろ妻を、と促されても婚約者すら作らない変わり者だとか。
だが、【つむぎ館】に来るということは婚約者を決めるつもりになったということだろうか。結界師の妻は糸練りの巫女であることが良いとされているため、これまでも嫁探しのために【つむぎ館】を訪れる結界師が多くいた。
「そうだよ。かの御仁はもう二十一だというのに婚約者がいないからね。今日は下見程度だろうが、良縁が結ばれるよう俺も支援できればと思ってこちらへ来たんだ」
孝志の緑子へ向ける眼差しは、藤花へ向けるものとは違い優しい。その眼差しを受けている緑子も、幸福そうな笑みを浮かべている。
仲睦まじい二人の様子を見ていられなくて、藤花は俯く。
孝志への恋心はすでに無く、親友だった緑子への期待もとっくに消え失せた。
だが、優しかった頃の二人の記憶があるが故に、現在との落差が苦しい。
(やはり、私は畑に引き籠もっているのが一番いいのよ。その方がみんなを不快にさせないし、質のいいソウキ草を育てればみんなの役に立てるもの)
虐げられ、蔑まれようとも、みんなの役に立てる仕事がある。それが、今の藤花にとって唯一の救いでもあった。
「それは素晴らしいわ。私も微力ながら孝志さんのお手伝いをさせて下さい」
自分たちだけの世界を創り上げる二人に、藤花はいたたまれない気分になる。
この場を立ち去る機を逸してしまった。なにも告げずいなくなってもいいのかもしれないが、それはそれで礼を欠く。巫女としての教養すらも無くしてしまったのかと、二人に思われるのは嫌だった。
だが、そのようなことを気にせず去っておくべきだったのかもしれない。
動けずにいる藤花に再び視線を向けた孝志は、その穏やかな表情をまた嫌悪の感情で満たした。
「そういうことだから、醜いお前に本館をうろつかれるのは目障りなんだ。さっさといなくなってくれないか?」
吐き捨てるような言葉に、緑子もつられるように眉間のしわを深くする。
「そうよ。今日は特に、畑の小屋から一歩も出ないでほしいわ」
「っ、はい」
なにも期待しなくなったとはいえ、かつて優しかった二人に蔑まれるのが一番辛い。
藤花はその辛さから逃げるように、返事をするとすぐに土間を出る。
二人の刺すような視線が届かない畑へと急いだ。
ソウキ草が生い茂る畑が見えてきて、藤花は安堵し走っていた足を緩める。
今日は水やりと共に霊力を与えたら、小屋の中でできる作業をしよう。本当は昨日途中だった雑草取りを終わらせてしまおうかとも思ったが、緑子に『小屋から一歩も出るな』と言われた。
もしかすると本日の客人である巽を畑にも案内するつもりなのかもしれない。そのときに自分が姿を見せるわけにはいかないだろう。
醜い痣を持つ毒巫女など、誰も見たくはないのだから。
沈む心に足を取られるようにゆっくり歩きながら、藤花はそっと自身の醜い痣に触れた。
(こんな顔、私だって誰にも見られたくはないわ)
できるならば、包帯を巻くなり面を被るなりして隠しておきたい。だが、それは節子に禁止されてしまった。
同じ過ちを犯す者が出ないようにするためだそうだ。……要は、見せしめ。
だから藤花は、あまり人が来ない畑の小屋で過ごすことが多くなった。それを知った節子に、これ幸いと寝食の場を小屋に移されたが、より人に会わずに済むようになったと藤花は安堵した。
今日も、小屋へ引き籠もっていれば誰とも会うことはないだろう。そう考えていたというのに、畑に近付くと見知らぬ人影が見え藤花は足を止めた。
黒の羽織を着た長身の男性。そのような男性に見覚えはないため、部外者だと分かる。
(どうしましょう。あの方が立っておられるの、小屋の入り口にほど近い場所だわ)
気付かれずに小屋へ入ることは確実に不可能な状況に、藤花は困り果てた。
とはいえここに立ち尽くしていても、男性が振り返れば気付かれてしまう。とりあえず身を隠した方がいいかと、畑を囲んでいる林の小道へ向かおうとしたときだった。
僅かに身体の向きを変えた男性の手に持っているものが見え、さっと血の気が引く。
「っ! あれはっ」
藤花は思わず男性の方へと駆け出した。
男性が手にしているのは赤い糸。節子に処分しろと言われていても、憧れる白の糸でないとしても、いつか誰かが使ってくれるかもしれないという夢想から捨てきれないでいた、自分の作った糸だ。
いつもは小屋の隅に隠しておくのだが、今朝は糸を作った直後に本館へ葉を運ぶよう言いつけられたため隠す暇が無かった。せめてもと、ソウキ草の根元に目立たないように散らしたのだが……。
「あのっ、その糸は……」
なんとかして返して貰わなくては。
そんな思いだけで声をかけ、現実を思い出し言い淀む。
あからさまに醜い痣のある藤花。その上、糸練りの巫女が作る白の糸とは似ても似つかない毒々しい色の糸を作っているとなれば気味悪がられるに決まっている。下手をすれば、節子のように暴力を与えられるかもしれない。
しかも、声をかけられたことで藤花の方を見た男性はとても整った顔立ちをしていた。
少々冷たくも見える切れ長な目。通った鼻筋に、顎の線は一切の歪みなど無い左右対称で、これほど美しいという表現が似合う男性がいるのかと思わず見蕩れる。
そんな男性に醜い顔を見られた。羞恥に言葉を詰まらせ、目を逸らす。
「ああ、すまない。先に館へ挨拶に行かねばならないのだが、見事なソウキ草畑が見えたのでな」
藤花の痣はしっかり見たはずだが、男性は気にすることなく会話をしてくれる。
痣を見ても蔑む様な言動をしない男性に、藤花は戸惑いつつも肩の力を抜いた。少なくともこの男性は、自分に乱暴な行いをしない。
ならば、手に持っている赤い糸は自分の作ったものだと告げても酷い扱いは受けないかもしれない。
そう判断した藤花は、僅かに視線を戻しておずおずと口を開く。
「左様でございましたか。あの、その手にお持ちになっている糸なのですが……」
躊躇いがちに返して欲しいと続けるつもりだったが、言葉が切れた合間に男性が口を挟む。
「ああそうだ。この糸を作った者を知らないか?」
「え?」
毒々しい色の糸を作った者を知ってどうするのだろうと疑問に思うが、問うてくる男性は嬉々としている。その様子に戸惑いつつも、藤花は正直に告げた。
「あの……私、です。なので、その糸を返して――」
そのまま糸を返して貰おうと手を伸ばしたのだが、その手は突然男性に掴まれてしまう。
二年ぶりの、殴られる以外の触れ合いに藤花は目を見開いて驚いた。だが、笑みを湛えた男性の口から発せられた言葉は更に驚くべきものだった。
「そうか。ならば、お前が俺の妻だ」



