日吉惣次郎(ひよしそうじろう)は考えていた。

──春ってもっとこう、爽やかなものじゃなかったっけ?
 
 
 春──。
 それはあたたかな風が冬の終わりを告げるかのように吹き抜けて、新緑や、植物の芽吹きの起床が始まる季節である。
 春と言われて誰もが多く連想するのは、桜の開花ではなかろうか。花見などの楽しみも多いが、進学や社会に出る緊張、高揚などが交錯する方が有名な季節だと言える。
 日吉もその一人であり、この春、新卒から5年務めてきた公立浅川(あさがわ)高等学校から、私立彩都(さいと)高等学院へと赴任が決まったのだ。
浅川は、世間一般から見て、所謂“不良”と呼ばれる生徒が多い。対して、彩都はそういった噂もなく、平和な学校であるという認識があった。
新生活が始まることに日吉はウキウキしていた。事前に顔合わせをした教師陣も優しく、活気ある人が多い印象で、ますますやる気に火が付くのだった。
 ──新卒で浅川高校に入った時のことは、今でも鮮明に思い出せる。生徒と激しくぶつかり合うことがほとんどで懐柔の難しい場面が多々あった。頑張って夢をかなえたのに、上手くいかずめげてしまうこともあった。
だが、諦めずに向き合っていざ腹を割って話してみると、家庭環境の問題、感情が制御できず苦悩しているなど、彼らなりに悩みの種があったのだ。
それらを共に解決していき、結果、笑顔で卒業していく背中を見て、やってよかったと涙を流した。
日吉はそれ以降、負けることなく、むしろ嬉々として教師生活を謳歌していた。苦しさよりも楽しさの方が勝るようになった。天職なのでは?とも考えるまで成長していた。彼が教師を志した理由は様々あるが、今回は割愛しよう。
 またそんな経験ができるかと思うと、入学式の朝は踊るような心持で学院へと足を運んだ。
 初対面の生徒達と行うSHR(ショートホームルーム)では、教室内が緊張でいっぱいだった。そんな彼らへ向けての自己紹介で、少々笑いを取れたりして早速手応えを感じた。日吉は今回二年生を受け持つ。つい、ラッキーだなと思ってしまった。
一年生よりも落ち着きがあり、三年生よりピリピリした雰囲気になりにくいためだ。ただ、緩みが出てくる時期でもあるため、気に掛ける事柄が少ないわけではないが、やはり心情的には安心の方が大きい。
 この学院では、二年次から三年次まで持ち上がり制度を用いているため、この子たちとは二年間学校生活を共にする。今のところクラスの雰囲気を見るに、問題なく上手くやっていけそうだ。
……と思っていたのだが。ここでも問題は発生していた。しかもそれが自分の受け持ちクラスで起きていることだなんて、日吉はまだ知らない。
 恙なく式は終わり、簡単な自己紹介をするためLHR(ロングホームルーム)が始まった。
日吉は名簿を開く。このフレッシュな瞬間を彼は好んでいた。

「じゃあ……令和なのに古典的で申し訳ない!あいうえお順でいくよー。相沢勇太君」
「ちぇー、俺去年も一番だったんだよなー」
「え!?そうなの!?ごめーん!」
「慣れてるから大丈夫! 相沢勇太でーす。去年は6組でした。趣味はテニスで──」

 スムーズに紹介が済んでいく中、とある生徒の名前を読んだ直後、突然静寂が訪れた。
 
「えーと、次。瀬川なぎ、君でいいのかな?瀬川凪(せがわなぎ)君」
 
 読み方を間違えてしまったのかと、もう一度問い掛けるが、返答は戻ってこない。日吉は首を傾げたが、すぐに窓側へ一つ空席があることに気が付いた。SHRの時点で気になってはいた。浮かれていたせいで欠席の共有を忘れたのかもしれない。すぐに切り替えて、何事もなかったかのように続けた。
 
「おーっと……?あ、お休みの連絡が来てたっけ!ごめんごめん!ええと、じゃあ次──」

 自己紹介を聞きながらちら、と室内を見ると、少々噂しているような声が聞こえたことに若干違和感を抱いたが、今追及すると雰囲気が悪くなるような気がした。表面上は気にしていない体を装って、LHRを進行させていった。

「……素行不良、ですか?」

 生徒と保護者を見送って職員室へ戻ってくるなり、教師たちは日吉のもとへわらわらとやってきた。そうして“瀬川凪”という生徒は出席していたかを問うてきた。
日吉がありのままを伝えたところ、やはりといったような顔で溜息をつく。
LHRの時点で抱いていた違和感を話すと、春川浩二(はるかわこうじ)が興奮した様子で日吉へ話し出した。
 春川は一つ上の七年目で、去年、彼の担任だったという。その春川の口から出てきた言葉が、素行不良、というものであった。
 
「そうなんですよ!校則は守らない、教師の言う事は聞かない。口調も態度も最悪」
「へえ……」

 それを皮切りにしたのか、教師陣は日吉へ件の生徒の情報を次々と共有してくれた。
 登校拒否をしていること、保護者へ連絡も取れないこと。また、教師への暴力や暴言が目立つそうだ。
例として、授業中全く話を聞かない姿勢を注意をした。すると「うるせえよ」などと軽い暴言を吐かれたので、強く注意したところ、机を蹴り飛ばして教室から出ていった、らしい。大柄な学年主任でも手に負えないと嘆いている。
 また校則違反も目立つそうで、染髪、ピアス、制服改造など日吉にとっては聞き慣れた言葉が次々飛び交っている。
 正直、辟易していたが自分のクラスにいる以上見逃すわけにいかない。教師陣が愚痴で盛り上がる中、少し考えてから提案を口にした。

「あのう、どうして停学か退学処分にしないんですか?」
「……」
「悪いことをしている自覚はあるはずです。それくらい強気に出てもいいんじゃないですか?」

 あれだけお喋りだった教師陣が一斉に黙る。その中でもええと、と春川が少し言い淀んでから話し出す。

「……彼、首席で入学してるんです」