まるで図書館だな、と日吉は思った。
この六畳一間に住まう本たちは、隙間無く積まれている。ざっと見ても、ジャンル毎に揃え、全て背表紙が見えるようになっていた。家主は相当几帳面なのが伺える。床を少し踏み間違えれば崩れ落ちたり、重さで底が抜けないのか少し気になる。だが、これらを使って家主は頂点へ上り詰めたのだろうかと考えると、少しワクワクしてくる。
 家主は、その図書館の中央にある僅かなスペースにいた。布団を被って横たわる家主──瀬川へと声をかける。

「すごいな、本」
「……それ、さっきも聞いた」
「あ、ごめん」

 布団の中からくぐもった声が聞こえる。倦怠感溢れるそれに、日吉の眉が少し下がる。
 外では話せないから、とファミレスを出た瀬川は家へと上がらせてくれた。短い廊下に足を踏み入れながら、助けを求められたあの日を思い出す。
 扉を潜ると本の山が目の前に現れて思わず感嘆の声が出た。眺めているうちに、気付けば瀬川は布団にくるまっていた。
 本来なら膝を突き合わせて最後まで話すのが筋だが、その気力と体力がないため、寝ながら説明させてほしい、と。日吉はそれに同意をして、今に至る。
 改めてぐるりと部屋の中を見渡してみる。図書館、だと思ったが城塞にも見えてきた。
 彼を守る、城塞。

(……君たちが、瀬川を支えてきたわけか。……ん)

 城塞の中にもちゃんと街があった。
 折りたたみ式の丸テーブル、衣紋掛けに吊るされた制服、姿見、カゴにまとめられたドライヤー等。
 そこに一つ、最近目にしたものがあった。栗色の髪の毛が嵌め込まれたマネキンだ。カツラ?と呟いてみると、詳細が返ってきた。カツラ、今、巷ではウィッグと呼ばれるものを買い、行きつけの美容室へ持っていって切り揃えてもらったそうだ。それを、謝罪と過去の告白をしたとき使用していたと。それを聞いて、抱いていた疑問の一つを思い出し、投げかける。

「美容室さ、結構頻繁に行ってるみたいだけど、まさかそれも食費削ってんじゃないだろうね」
「……店長さんのカットモデルやってるから安く済んでる」
「カットモデル……」
「……練習台。だから安価だったり、上手く行きゃ無料。……おれは良くしてもらってるから、カラーとかパーマとかも、新人さんの練習台になれば安く済む」
「なるほど……」
「だけど結果的には……そっか、削ってるのか」

 瀬川は少し反省するように呟く。
 高校生なんて、遊びたくてたまらない時期だろうに。彩都の生徒たちだって、休日はどう過ごしたかで盛り上がっているくらいだ。なのに金銭を気にして、身を粉にして働き、勉学に命を注ぐ瀬川。その中でもやりくりして楽しんでいる趣味を奪いたくはない。
 これからの日吉は、瀬川との信頼の糸を、一本一本結んでいくこと。それが最優先事項だ。結び間違え続ければ、瀬川の人生を逆戻りさせるだけ。
 話を本関連へと変える。

「そういえば、改めて見るとミニ図書館だなって思ったんだけど、どうやってこんなに集めたの?」
 
 聞くと、古本屋やバザーが主で、書店のセール品だったり、図書館や卒業した学校で要らない本あるか聞くなどして集めた。
 やはり生活費を犠牲にした産物で、アルバイトのシフトはぎちぎちに入っているし、過集中で飲まず食わずをやっているため常に体調が悪い、と本人は言う。美容室の件も含め、日吉も同じ意見だった。

「……楽しみを辞めろとは言わないけど、バイト代もなるべく食費に使いな。あと、ちゃんと寝た方が良い。そうだなあ……せめて六時間は」
「は?」

 突然、にゅっと瀬川が布団から顔を出してきた。眉間にしわを寄せて日吉を睨む。

「長すぎる。それって登校一日分だろ?六時間あったら」
「勉強できるって?」
「そうだよ」
「お前の辞書にはさ、体が資本って言葉はないの?あるよね?」
「……だって」

 ムッとしていた顔が一気に曇る。まるで小さな子供が怒られているように見える。日吉は、一つ一つを言い聞かせるように言う。

「瀬川にとって、勉強が今一番楽しいことだろ?そっちをやれなくなる方が困るんじゃないの?」
「……っ」
「もっと楽しみたいなら、一日休む時間を作りなさい。頭も体も休ませないと、本来の力まで奪われるよ」
「……!……分かった」

 意外とすんなり了承し、すごすごと布団の中へ戻っていった。「ならよろしい」と返したが、次の言葉ですぐに肩を落とすことになる。

「じゃあ三時間に増やす」
「あ、あのねえ……」

 どうしても勉強に費やしたいらしい。そう口にしながらも、カタツムリ姿の彼を見て日吉はううんと唸る。

(きっかけのこと、そろそろ切り出すか)

 先程聞いた通り、一人でこのままトライアンドエラーを続けては、悪化していく一方だ。根っこの部分をなんとかしなくては。

「そろそろ、きっかけ聞いてもいいかな」
「……ん、話す」

 うーん、と思案するような声がすると、布団から顔の上部だけが出てきた。
 栗色の瞳は上目遣いで日吉を見た後、すぐ下を向いた。

「……おれが体験したこと、全部話す。信憑性に欠ける部分もあるだろうから、アンタが知ってる今の彩都の状況と擦り合わせて整理する……のはどう?」
「……そうだね。うん、分かった」

 じゃあ、と前置きがあってから、会話は始まった。

「カンニングの件は、アンタ担当したから話聞いてるっしょ」
「うん。でも何もなかったって」
「合ってる。おれ、その状況録画してるから証拠として出せる。許可は取ったからあっちは文句言えねえ、虚偽カードも使えない」
「そうだね。両方のケアレスミス以外、採点に手出しできないな。その証拠に、オール満点、1位の座は、俺が来る前から変わってないみたいだし」
「……線引きの話、覚えてる?」

 瀬川と日吉の間に人差し指が現れる。それが少し動いて、畳へ線を引き始めた。それへ目をやりながら日吉は答える。
 
「あれは……他人を巻き込まないようにするためだったんじゃないの?」
「……アンタ、浅川から彩都へ来て、少し安心しなかった?」
「……しました」
「だろうね」
「いやはや……あはは」

 また馬鹿にされるか、とこれには日吉も頬を掻くしかなかった。だけれど瀬川は気にしていない様子で続ける。

「勉学に秀で、厳格な規律をも守れる良い子ちゃんの行く高校、って評判は世間でも一致してんだから、それは至極真っ当な反応。おかしくもなんともない。けど」

 瀬川はそう言うと、少し間を置いてからまた話し出す。
 
「あそこはそんな綺麗なとこじゃねえ。……彩都は、魔窟だよ」
「……え?」

 魔窟、という平和とはかけ離れた言葉が飛び出てきて、息を呑む。
 線を引くように前後へ動いていた人差し指が、止まる。移動をやめたと同時に日吉の瞳も止まる。
 
「どっちかにいれば安全。今はたぶん……」
「待って待って!魔窟?あ、安全って……!?」
「まあまあ、急かすなよ。急がば回れでしょ?センセ」

 人差し指は線の真ん中をとんとんとつつく。

「今のアンタはここ。一番安全圏の中立。教師側、生徒側からも好印象大。どちらか片方から外れる分には問題ない。それぞれ味方が付く。だけど、おれみたいに両方から外れたなら……」

 指はバツ印を描いた。日吉の脳の靄が晴れていく。パズルのピースがハマるような感覚がした。
 そうか!と声を出したが、同時にまた違った疑問が頭をもたげる。ハッキリと顔に出ていたようだ。
 
「その顔、ようやくお分かりになられたようで。さて、ここで問題。火のないところに煙は立たないよな。でも、わざわざ進んで火をつけてくれた奴がいる、と。さて、それは一体誰でしょう」
「……嫉妬でやっちゃった子、かな。人間だし、勉強で疲れたりとかして……」
「それさ、疲れた大人だったらどうするよ」
「……え?」
「子供とは限らなくね?」
「っ……!?いや、でも」
「でも、なに?あそこは魔窟なんだよ」
「……だとしても、やるような人たちじゃ」
「じゃあ、やらなさそうな善人がおれのことあんなに贔屓するわけだ。悪い方向に。ふうん?」

 冷たい言い方に、日吉は言葉に詰まる。
 瀬川のことは半ば押し付けられてのスタートだったものの、肩代わりすると宣言した通り、日吉の仕事はこなしてくれている。不備もない。疲れた時には缶コーヒーや甘味が出てくるし、談笑をしたりお互い相談しあったりと関係も良好だと感じる。確かに、カンニングの件に関しては度が過ぎるとは思うが、録画の話も加味すれば、生徒らに公平さを示す行動であったとも思える。 
 そんな彼らが、瀬川を貶めるような行動をするなんて。
  
「……春川……とは、良い関係だったよ」

 いや、でも、と一人ぶつぶつやっていた日吉が瀬川を見た。指は中指が加えられ二本になる。まるで足に見えるその二本は、線の上を歩く。
 
「すごく良くしてもらった、と思う。それこそ、アンタみたいに声かけてくれた」
「……」

 唖然とした。
 だって、あの、“あの”春川が?文句だけ口にして人任せにして、今まで知らんぷりのあいつが?と混乱する。
 またまた顔に出ていたらしく、はあ、と大きなため息で返される。
 
「……その顔、たぶん話食い違ってんな。どうせおれのこと相当悪く言ってんだろ、アイツ」
「……うん……」

 瀬川は言う。
 噂に関しては全く気にしていなかった。いつもの如く、そんな暇があるなら勉強しろ精神でいたらしい。けれど、やはり大きくなればなるほど教師の耳にも届く。
 それを聞いた春川は自ら瀬川のもとへ訪れ、「気にするな」「何かあれば頼って」と口にしたそうだ。
 
「……なので、信用しちゃったわけですよねえ。やっと心を開けるのかなとか。当時のおれ、本当に馬鹿すぎ。そんな折、耳に入ってしまったわけですね」

 嫌な予感がする。疲れた大人だとしたら?と返答があったのを思い出す。
 
「おれがカンニングしてんの見たの、春川だった、とか」

 線を歩いていた指は止まる。
 
「信じなかった。というか信じられなかった。あんな良い人がそんな事言うわけねえじゃん、って。ただ、悪いことは重なるもんで……これまた聞いてしまったわけですねえ、本人の口から」
「っ……」
「ちっ。井戸端会議ってあんな大声でやるもんなのかよ」

 まさか。
 日吉は生唾を飲んでから、何と言われたのかを問う。 
 当時の春川は瀬川を気にかけていた。
 けれど、学校へ来なくなってから3ヶ月ぽっちで追うことを辞めて、会って間もない日吉に押し付けた。
 デカい怖い人、兼村と話したものの、結局人頼みで終わり、今の今まで瀬川との接触はない。そのことを話した時の春川の言葉は──。
 
「正直、相手すんの面倒だって」