「──ごちそうさまでした!美味しかったあ!」
七海の元気な声が店に響く。瀬川も静かに手を合わせている。
たらふく食べて一休みしていた日吉だったが、慌てて財布を取り出して、支払いを申し出た。
兼村はそれを拒む。また客として来てくれればそれでいいと。必要以上に遠慮するのも憚られる。今回は好意を受け取り、また還元しに来るよう約束をした。
その後、瀬川と兼村は今後の連絡をLiteでやりとりすることを決め、今日のところは解散となった。
手を振って見送ってくれる二人に、瀬川はまた深々と頭を下げる。日吉も会釈をした。
七海はスキップをしながらキャッキャしている。
「やったー!また凪パイセンとバイトできる!」
「パイセンて……どっから覚えてくるんだよ……。前のカチコミとかもさ」
「えへへー。あたし漫画読むの好きだからそこから覚えたの!」
「はーん」
「凪も読みなよー」
「興味ねえ」
「んもう……。ねえねえ、ひよしんは知ってる?“格闘!ジャンパチ!”シリーズ」
「お、知ってる知ってる!俺が高校の時から連載してるやつだよ。えーと……単発編、確変編の途中までは読んだかな」
「今ね、FEVER編やってるんだけどー」
まさか、若い世代の口から懐かしい漫画のタイトルが聞けるだなんて思いもしなかった。
日吉と七海は夢中になって繁華街を出るまで漫画の話で盛り上がってしまった。
我に返った二人はハッと瀬川の方を見たが、特に気にしている様子はなく、むしろ四つの瞳へ怪訝そうな顔をする。
「えと……ごめんね凪。興味無いって言ってたのに盛り上がっちゃって……」
「は?何の話?」
「え?」
なんだか噛み合っていない。
七海は、再度、漫画の話で勝手に盛り上がり、疎外してしまったことを謝罪した。
対して、瀬川は連立方程式のことを考えていたためそもそも会話自体聞いていなかったと答えた。
噛み合った瞬間、七海はぷんぷんと怒り出す。
「もー!心配したのに!」
「え?さっきの?もう終わった話だからいいって」
「そうじゃなくて!」
「じゃ、なに」
「むーかーつーくー!今日寝落ちするまで通話繋いでやるもんね!」
「何怒ってんだか知んねえけど、お好きにどうぞ?おれは勉強してるからレスポンスしません」
「じゃあついでに化学教えてもらっちゃおうっと!邪魔しちゃうぞ〜!」
「……まあそれはそれで、復習になるのでおれとしては吝かではない」
「うっ……ぐぬぬぅ」
「っていうかそろそろ期末あんじゃねえの。本腰入れたら?」
「あっ……。お願いします教えてくださーい!」
「ちっ。しゃあねえなあ……」
言い合いながらもみくちゃにされて歩く双子を、後ろからハラハラしながら見守る。こうして、少し危なっかしくて微笑ましくて、可愛くて愛おしい子供たち。
両親も、こんな思いで自分を育ててくれたのだろうか。
母親なんて、腹を痛めてまで自分を産んでくれたのだから、余計にそう感じてくれていただろう。だとしたら嬉しい。
ふと、思春期だった頃を思い出した。
過去に戻れるのなら、自分をぶん殴ってやりたいくらいには荒れていた。
家族には随分酷いことをしたし、口汚いことも言った。
朝帰りを叱ってきた父親と取っ組み合いをしたり、姉と口喧嘩はしょっちゅうで、弟を怖がらせるし、母親をたくさん泣かせた。
なのに、家族全員、絶対自分を見捨てなかった。
家へ帰れば毎食用意されているし、名前を呼んでくれる。温かい寝床もある。
徐々に情緒が安定してきた頃には、皆で出かけたりして──。
注意されることが、叱られることが、見守られることがこんなに幸せだったんだと、ちょうど彼らの歳の頃気が付いた。
そうして日吉は恩師と出会い、今、夢をかなえた。
「ひよしーん?」
「えっ、あ、なに?」
「あたし寄るとこあるから、ここでバイバイしようと思って」
七海はすぐ目の前のビルを指差している。CDショップが目的地らしい。駅とビルとで直結しているそうで、帰りも危険は少なさそうだ。
「OK。またお店遊びに行くから」
「たくさん注文してね!売上がよかったらお給料上がるかも!」
「だからホールの仕事増やすなって……誰が仕切ると思ってんの」
「凪パイセンであります!」
「ほんっとにうざ……」
「えへへー!じゃねー!」
元気に手を振りながら去っていく彼女を見送る。ちゃんとビルの中へ入っていくのを見た。と、同時に四脚、駅へと歩みを進める。
「やっぱり帰るのね」
「だってもう用事ねえし」
「俺もだわ。明日振休だし今からゆっくりしとこう」
大きなあくびをする姿を、少し不安そうな瞳で見られていることを日吉は知らない。
相も変わらず、行く先行く先、人、ひと、ヒト。何とか改札を抜けホームへと辿り着く。
色々な路線が入り混じるこの駅は、電車の本数も多い。数分で代わる代わるやってくる。
電光掲示板を見ると、5分ほどで瀬川たちの乗る電車がやってくるようだ。
瀬川は乗り場へ並ぶ。だが、普段なら当然のように隣へ来るはずの日吉が来ない。
振り返ると、備え付けの椅子へ腰掛けている。背もたれに寄りかかって天井を見ている。
瀬川は近寄って疑問をぶつけた。
「……アンタ、乗らねえの?」
「え?いやあ、時間ずらしたほうが良いのかなって。ほら、施設行った時そうしたかったみたいだから」
へら、と笑うと瀬川は少し不機嫌そうにした。だが、次に聞こえてきた言葉に日吉は真逆の顔になる。
「今日は違う」
「そっかー。……ん?」
「……一緒に、乗ってやってもいい」
はて?と思っている間に電車が来てしまった。理解が追いつかないまま最後尾へ並ぶ。
降車する人々を見送ったあと、すぐに二人分席が空いているのを見つけた。瀬川は迷わずそこへ座り、座席を叩いていた。昼間のように呼んでいるらしい。
恐る恐る座ってみたがトラップではなさそうだった。ジャブや肘打ち、猫パンチは来ない。
電車に揺られながら外を見た。夕焼けに差し掛かった空が綺麗だ。暑い日も増えてきて、そろそろ夏本番がやってくる。
そのうち、日吉の降りる駅が近付いてきて、じゃあまたと声をかける。乗ってからずっとスマートフォンを弄っていた瀬川は空返事をした。
到着アナウンスと共に降り、そのまま改札へ向かおうとした時、袖がぐいと引っ張られた。
何かトラブルが?と一応謝罪を口にしながら状況確認しようとすると、目の前には宝石があった。
それには日吉がしっかり映っている。
「ついてきてくれてありがと」
見惚れたその一瞬だけ、雑踏にもアナウンスにも負けてしまうような弱さの囁き。
だけれど、日吉の体内には一気に染み込んだ。まるで、真っ白な紙にインクを零したように。
宝石の持ち主は、するりと人混みを抜けて電車へと戻っていった。その後、車内はほとんど人で埋め尽くされて、宝石の姿は見えなくなる。
気が付いたときには、家でスーパーの弁当を食べていた。
右手に箸、左手に缶ビール。テレビにはよく見るバラエティ番組が映し出されている。有名芸人の一言で会場がドッと沸く。
「……えぇ!?俺ワープした!?っと、おとととととと!」
あわや飲みかけのビールをこぼしそうになったが、危機一髪。無駄にせず済んだ。
喉越しとともに記憶を辿っていくが、やはりあの駅のホームから自宅までの記憶がない。
近くにあった鞄の中や、上着を手探るが貴重品も全て揃っている。だからこそ目の前にある物を飲み食いできている。
(……それにしても、可愛かったなあ、瀬川)
普段とはかけ離れた装い。でも口から出てくるのはいつも通りのそれで。
自分から謝罪をしたいと申し出て、逃げずにしっかりとやり遂げた。そうして気を許した寝顔や食べ物を頬張る姿を見せてきた。
皆、ああやって色々な環境で成長して、自分の手を離れる時がやってくる。来年にはそうなってしまう。今からでも目頭が熱くなった。
これで、やっとスタートラインに立てた気がする。だが、他生徒と比べて瀬川との距離はまだマイナスだ。
無理をさせず徐々にプラスへと近付けて、様々な体験をさせて楽しませてやりたい。三年次には修学旅行もある。少しでもクラスに馴染めるように続けて助力していかなければ。
「……よし!まずは休みを楽しむぞ!飯食ってすげえ寝て……!」
えいえいおー!と一人士気を高める日吉は、とある時この日を思い出して、酷く動揺するのだった。
――――――――――――
瀬川は布団の中で丸まっていた。
Liteを開いて、日吉とのトーク履歴を見ていた。
関わるな、と言ったあの日。今度また話そうと返してくれた。
逃げてから二週間分、ずらりと連ねられていた言葉は何度も読み返した。
今日の謝罪の件を申し出た時も、二つ返事で了承し、来てくれた。
たくさん食べていたし、話もして、兼村たちと笑っていたけれど、時折疲れた顔もしていた。
駅のホームで彼の様子が一番顕著だった。
改めて思った。もう関わらせないほうがいいのではないかと。自分に深く関わった人間は、疲弊させて傷付いてしまう。母親や、日吉のように。
でも、それでも、縋りたくなってしまった。
この“気持ち”が止められない。
だから、聞こえないようにあの喧しいホームで礼を口にした。
(……知らない、こんな気持ち。近しいものはあっても、喜怒哀楽のどれでもない。辞書にもどこにも載ってない……)
まんまるになっているうちに、七海からメッセージが届いた。
帰り際に話した通話の誘いだった。それに返事をして、準備を始める。
(……一旦忘れよう。期末考査の対策、しっかりしなくちゃ)
勉強セットを机の周りに配置する。しばらくするとスマートフォンから呼び出し音が鳴った。スピーカーモードにして、会話を始める。
この日、瀬川が抱いた気持ちに答えが出たとき、彼は酷く困惑するのだった。

