「えっ、なに!?」と日吉は困惑した声を上げたが、無視される。

「アンタは黙って答えりゃいい」
「え、あ、はい」
「A、Bの二択問題だ。……これから、主人公日吉惣次郎は、悪役に対してどのような態度を取るか。また、悪役はどちらのセリフを発するか答えよ」 
「……」

 悪役、とは自分のことを指しているのだろうか。小さな背中がますます縮こまって見える。
 それでも、凛とした声は設問を読み上げていく。

「問一。A、日吉はここに残る。B、そのままこの場を立ち去る」
「……」
「問二。A……うざってぇから今すぐ消えろこのクソ教師!」

 肩で息をして、彼はそう言い切った。
 それを見つめながら、黙る瀬川へ日吉は問う。

「……瀬川、Bは?」
「……B、は」
「……」
「……だきしめてよ」
「!」
「だきしめてよ、それができないなら、もうこっちこないで、くるしいだけだから」

 静かに零された言葉へすぐに日吉は歩を進める。瀬川がゆっくりと振り返った。
 見慣れたはずの涼しい顔をしていた。でも、今はそう見えない。
 左の壁へとん、と寄りかかり、腕を組んでそっぽを向いた。視線は斜め上に行っている。

「さあ、どう答える?日吉大センセー?」

 ふざけたような、煽るような言い方をされる。日吉は即答した。

「問一、A。問二、B」
「……」
「正解は?天才少年瀬川凪君」
「さーあね。知らねえ」
「瀬川、ちゃんと……」
「知らねえよ、本当に。だってどうなるかは、これから……」

 だんだんと視線が下に落ちていって、床を見つめ始める。
 そうだ。どうなるかは日吉の行動によって変わる。でも強制はされていない。選択は自由だ。
 もしここから立ち去れば、これ以降必要以上に関わらなくなるだけだ。
 頑張ったけど無理でしたー、と投げ出せば本来の生活に戻ることが出来る。
 心配を屁理屈で返されたり、朝から晩まで探させたり、悪態をつかれてムカッ腹を立たせる生徒のいない、楽園へ帰ることができる。
 悪魔はそう囁いたが、この男には通じない。

(……そんなの、俺は望まない)

 日吉はずんずんと瀬川へ近付いていく。ハッと顔を上げた瀬川の腰を引き寄せて、その胸に収めた。
 思った以上に薄い体だった。服越しなのにとても冷えているのが分かる。あたためるように背中を撫ぜながら、日吉はやさしく言葉をかける。

「……頑張ったな」
「……!」
「怖かったろ。もう大丈夫だから」
「……」
「はあ……無策じゃねえよな。なまじ頭が良いから、どうせあれこれ無理に考えて行動したんだろ?ったく、少しは大人を頼りなよ」
「……分かってた」

 ぽそりと瀬川は呟く。

「分かってたんだ、ずっと。おれ、“ここ”から出なきゃよかったんだって」
「え……?」
「自分のこと、死ねばいいのにって、ずっと思ってた……いや、思ってる」
「……!?」

 思わぬ言葉が飛び出したことに日吉が動揺する中、淡々と瀬川は続けた。

「どうして、殺してくれなかったんだろう。外に出なかったら、勉強も覚えなかったし、誰にも迷惑かけなかったのに」
「瀬川……?」
「あんなに叩いて蹴って首絞めて、毎日死ね死ね死ね死ねってさ。じゃあいっそ殺せよ。いつだって殺せたじゃんか」
「お前……まさか……っ」

──虐待の一種にネグレクトも含まれているが、瀬川の言葉からして、身体的、心理的虐待をも受けていたようだ。日吉は絶句した。

「そもそもさぁ、産まれた時に……」

 瀬川がそこまで言いかけてから、日吉は異変に気がついた。瀬川の肩が小さく上下する。
 だんだん背中がひくついてきて、とうとう嗚咽が漏れた。

「……産まれた時に、ころせば……っ」
「……!」
「なみだけ、たすけてくれれば、それで、よかった」
「そんなこと……!」
「おかあさん、おれのことうまなきゃよかったってゆってた」
「……っ」
「なんで、おなかのなかで、とちゅうできえるとか、できなかったんだろう。おれのこと、わらわないからきもちわるいってゆってた、おれのせいだ、おれのせいでおかあさんぐあいわるくなっちゃったんだ」
「違う、よ、瀬川、それは……!」
「いいこにしてなかったから、かえってこなくなっちゃったんだ、いなくなっちゃったんだ」
「だから、ちが、っと……!」

 ここで瀬川は膝から崩れ落ちた。体を支えて座らせて、また抱きしめ直す。
 細い体から一生懸命絞り出すように瀬川は叫び始めた。

「おかあさんごめんなさい!こんどこそいいこになるからかえってきてよ!べんきょうがんばるから!なんでもいちばんになるから!」
「……っ……瀬川はすっごい頑張ってる。それに、他人を思いやれるとっても良い子だよ?」
「でもかえってきてくれない!せんせいもいなくなっちゃうんだ!おれがわるいこだから!きらわれちゃったからもういなくなっちゃうんだ!」
「嫌いになんてなってない。一言もそんな……」
「こわい、こわい……っ!もう、っひ、ひとりでいるの、やだぁ……!」
「……大丈夫。いなくなったりしないから。俺はちゃんとここにいるよ、瀬川」

 日吉のシャツをぎゅっと握り締めながら、瀬川はずっと泣き続けた。背中を撫ぜ、ぽんぽんとあやしても、自分が悪い、ごめんなさい、産まれてこなければ、と自責の言葉ばかりを叫んでいる。
 色々な言動を経て、この姿を見て、やっと腑に落ちた。
 だから、自分のことを後回しにするのだ、と。
 昨今、セルフネグレクトという言葉を耳にすることが増えたけれど、瀬川はそれをもやってしまっているようだ。
 日吉は悔しい気持ちで一杯だった。勉学を特技として持ち、楽しさだけ追求しているのではないと分かってやれなかったからだ。
 彼のこころは子どもどころか、産まれたての赤ん坊だったのだ。子どもにすらなれないまま、ここまで来てしまったのだろう。
 いつの間にか横向きになっていた瀬川は、必死に日吉の腕へしがみついていた。
 助けて欲しい、行かないで欲しい、という気持ちがひしひしと伝わって来る。
 体を抱き直して、脇腹あたりに手のひらを置いた。やはり冷たい。手が浮き出た肋骨を掠めてどきりとする。  

「……隠れてる間、ちゃんと食べてた?」

 泣きながらこくこくと頷く。何を食べていたのか聞くと、しゃくりあげながら答えた。安い菓子パン一つを、一日3回に分けて食べていたと聞いて胸が痛くなった。

「寝泊まりは?あったかいところにいた?」
「……みちに、いた」
「……!?」
「だんぼーる、しいて……ぶるーしーと、かぶって……」
「……っ。……どうして逃げたの。そこまでしなくても、俺たちはお前を絶対匿ったし、あいつらまとめてぶんなぐ……相手にできたのに」
「っう、それ、は、めいわ、く、だから」
「迷惑なんかじゃないって。みんなも……おっとと……」

 また大号泣が始まってしまった。
 いつも屁理屈や知識で負かしてくる口が、もう自責しか吐かない。
 自分で自分を攻撃して、壊れてしまった蛇口のようにあふれ出るそれを、今の日吉にはただ受け止めることしか出来ない。

(家庭環境に問題があった生徒は浅川にもいたし、似たようなケースはあった。でも……ここまで酷いのは始めてだ)

 不意に呼ばれて、どうしたのか問うと、こわいこわいと連呼される。

「どうした?何が怖い?」
「つれて、かれそうに、なって」
「……え?」
「おとこの、ひとが、いいの、みつけたって、うで、ひっぱって……」
「……!何もされなかったか!?」

 頭は縦に動いた。ちゃんと逃げたと聞いて胸を撫でおろす。

「でもね、でも、せんせ、ならいい」
「え?」
「せんせい、なら、こわく、ない」
「……それは、どういう……」
「へんなこと、されても、だいじょうぶ……」
「……!」

 つい、パッと手を離してしまった。
 そんな邪な気持ちは持っていないし、今、誰も彼らを見る者はいない。けれど、教育者としてそれだけは絶対にだめだ、と理性が判断した。
 安心して緩んでいた瀬川の腕からするりと抜ける。それにハッと意識を取り戻した瀬川は日吉から距離を取った。

「……気持ち悪いこと言ったごめん」
「あ、いや、俺も逃げたわけじゃないんだよ、その」
「……と、まあ、そういう三文芝居を見せたかっただけでした。帰っていいよ」

 普段の澄ました顔に戻してしまった日吉は心のなかで自分をぶん殴った。
 この、少し暗い廊下でも、瀬川の目元は赤く、腫れ始めているのが見て分かる。鼻をすんとすすってまた明後日の方向を見ている。

「……気持ち悪いとか、そういう意味で離れたんじゃないのは分かってほしい。俺は教師だから……」
「生徒にそういう事言われたら困るってことだろ。分かってるよそんなの。おれだって別にそういうつもりで言ったんじゃない」
「でも、助けたい気持ちは本物だ。お前の言ってたことだって……」
「いいや?芝居だよ。上手かったろ?褒めてほしいくらいだね。あーあ、一攫千金狙って俳優にでもなろうかな」
「瀬川」
「帰りなよ、早く。もし万が一漏れたら、またおれのせいにしたらいい。生徒が迫ったって。自分は何もしてないって。おれもそう言うよ。自分が迫ったって。センセーは何もしてませんって」
「……そんなことしないよ」
「……」
「お前が今言ったこと、搾り出したのは全部本音だろ?」

 優しく問いかけると、瀬川の体制は徐ろに体育座りに変わる。膝の間に頭を埋めて、小さく小さく丸まってしまった。
 きっと、こうやってずっと一人で過ごしてきたんだろう。
 さっき吐き出したことは誰にも言えず殻にこもりひたすら耐えてきた。
 虚勢を張って、強がって、全てを隠してきた。

「……なあ、もっと教えてよ」
「……?」 
「瀬川のこと、もっと教えて」

 スーツの上着を脱ぎ、それで瀬川の体を包んだ。
 そうやってもう一度抱きしめると、縋るように背中へ爪を立ててきた。
 再び吐き出すような泣き声を聞きながら日吉は思う。

(うちの可愛い生徒を、よくもこんなボロボロにしてくれたな。肉親だろうが女だろうが関係ない。どんな手段使ってでも探し出して、一発お見舞いしてやるよ)