「……っ……!」

 悪夢から逃れ、飛び起きた。座っていた椅子がぎぎ、と鳴る。
 心臓がどくどく鳴ってうるさい。誰かに見られているような気がして反射的に辺りを見渡すが、誰もいない。いるはずがない。
 胸を撫で下ろしながら、荒くなった呼吸を整えていく。
──あれから、敗訴、慰謝料、退学、借金等々の単語ばかり頭に浮かんでろくに眠れずにいた。元々短時間睡眠なうえに、定期的に見る悪夢がだんだんと心身を削っていっていた。
 不意に、机の上に置かれたスマートフォンが振動する。画面には21時50分と表示されていた。帰り支度をしてインターネットカフェを後にする。
 コンビニエンスストアで飲み物と菓子パンを購入して、路地裏へ入る。真っ暗闇へ辿り着くと、置きっぱなしの段ボールに座ってブルーシートを被った。

(あと三日か……金ねえのに、この生活やいかに)

 瀬川はふう、とため息をついた。
 停学処分を命じられたあの日に彼はすぐ動いた。バッグに必要最低限のものだけ詰め込んで、今は、自分でも来たことのない少し遠くの街にいる。ここに隠れてからほぼ二週間になる。
 長期間この暮らしだとさすがに体が痛い。なぜか“あの頃”のベランダのほうが寝心地はよかった気がする。
 そう、彼は自宅ではなく路上で寝泊まりをしていた。
 学生が滞在できる22時まではインターネットカフェで過ごす。勉強、入浴洗濯、スマートフォンの充電などが必須なためだ。以降は利用できないため、その後は陣取ったここで朝を迎える生活を続けていた。カフェは一番安い店を選んで利用しているものの、塵も積もれば何とやらである。
 食べ物は二日にいっぺん菓子パンを三回に分けて食べた。あの頃からすればご馳走だ。そこにたらふく水を流し込めばある程度空腹は抑えられる。自分の胃が小さいことに感謝した。
 もう暖かい時期だが夜は少し冷えるため、ブルーシートで暖を取っている。
 辛い思い出しかないこれを、彼はどうしても捨てられないでいたが、まさかこんなところで役に立つとは。
 あそこでの暮らしを思い出しながら、うとうとしているとあっという間に朝がやってくる。

 まだ空が白んでいる頃、昔のことを考えながらぶらついていると、よく見かける集団のシマまで来ていた。同い年くらいの人間がいるシマだ。
 この街へ来たばかりの頃、一度、そこのガード下を使いたくてとある女の子へ話しかけたことがあった。こういう集団には縄張りがあるのが定石だ。聞いてみれば使用している人間はいないらしく、ありがたく使わせてもらうことにした。
 ただ、教えたお礼として性交渉しないかと持ちかけられ、瀬川は一瞬固まった。
 保健体育や辞書でその言葉やそれをする意味を学んだだけで、作法までは知らない。
 やんわり断りつつ、どうして自分と?と聞くとかっこいいから!と即答された。よく見ると近くには酒の缶が転がっている。酔いのせいか、と納得する。
 何とか断りきったけれど、今夜何があるか分からない。その日は朝まで眠らなかった。いや、眠れなかった。
 傍から見れば、某有名コンテストで優勝しそうなレベルの容姿を持っているのに、普段から自分の全てを否定する傾向にある彼は、自分の容姿(それ)に気付いていない。
 そのため、「かっこいい」という言葉に瀬川は非常に困惑していた。その意味を考えているうちに朝になってしまったというわけである。
 路上で眠っている同年代を静かに一瞥してから、ファストフード店へ向かう。インターネットカフェが開店するまでの時間潰しはそこしかない。
 カフェの開店時間になり、個室へ入っていつも通り勉強をしながらふと思った。

(待てよ。勝手に思い込んでたけど、仮に全員で諸々100万請求してくるんじゃなく、一人一人100万だとしたら……)

 気付いた瞬間、頭を抱えた。

(馬鹿か、気付くの遅すぎ……)

 3人分100万円ならば割って25万円。1ヶ月1万返済でも4年弱で完済出来るはず。だけれど、300万となると話は別だ。
 急いでパソコンと向きあって、色々と知識をアップデートしていく。

(連帯保証人ってまず親族に義務が生じるよな。肉親といえど七海とは戸籍が違うし……鑑定結果を隠せるなら大丈夫か。みんなの力は借りたくない。頼むなら……保証会社にしなくちゃ。自己破産はダメだな。おれには返済手段がある。えーと、たぶん今回なら民事裁判になるけど……和解はあり得ないな。相手は全力で負かしてくるはずだから。……へー、少年院って入るためのランクあるんだ。勉強になる。今回は当てはまらなさそうだけど、こんなの収容しといたほうがいいよ)

 調べれば調べるほど、圧倒的に自分が不利だということに改めて気付かされる。
 瀬川は心のなかで笑った。

(すげえや、落ちるとこまで落ちろってことか)

 神様のことは信じていない。願いをかなえてもらった試しがないから。だからその仕置きとして、全てが悪いこととして跳ね返ってきているのだろう。やはり、自業自得だ。椅子にもたれかかって天井を見上げた。
 気にかけてくれる人がいるのは知っているし、感謝している。だからこそ、巻き込みたくない一心で逃げてきた。
 Liteへはそういった人たちから毎日メッセージが送られてくる。その度、もっと粗末に扱えばいいのに、と思った。こうして心配させて疲弊させて、結局迷惑をかけている。なら、こんなやつ放っておこう、それでいいのに。 
 自らを案じてくれる人とは、一線置いて壁を作らなければ。少しでも深く自分に触れてしまうといけない。自分のことはどうだっていいけれど、彼らの人生にヒビが入るのは怖い。
 マウスを握る左手が少し震えていた。
 自分で吐いた台詞を思い出して下唇を噛み締める。

──あんたら金持ちと違って、どうせそういう人生なんだから。

 産まれてきた時から決まっていた人生なんてそうそう変えられるものではない。お先真っ暗、ドン底送りからは逃れられない。そんなのとうの昔から分かっている。
 なのに、どこか希望を捨てきれずにいる自分が嫌だ。
 Liteを開き、トーク画面を見る。
 知り合いからの連絡で通知数が一番多いのは、日吉だった。タップしようとして、指が止まる。
 横へと弱く頭を振った。

(何考えてんだ。もう関わるなって言ったのおれだろ)

 瀬川の頭の辞書には、頼るという言葉が存在しない。
 知識としてはあるが、その行動が出来ない。そもそも、それはやっていいことなのかが分からなかった。
 特に他人に対して。
 自分を助けてくれる保証なんてないことは、とっくにこの体に刻まれている。それなら自分を犠牲にして、一人で完結させてしまった方が早いんじゃないか、と勘違いしたままここまで来てしまった。そんなことを続ければ自分の首を絞めるだけ、自らが苦しいだけだ。
 幼い頃の彼にそうやって教えてくれた者は誰もいなかった。それが原因で、現在も彼は自然と茨の道を進んでいる。“分からない”から。
 きゅっと胸が痛む。昔から起こるこれも“分からない”。
机の上に置いていたスマートフォンの振動でハッとする。開店からいたにも関わらず、調べものと思案とで相当な時間を使っていたようだ。
 仕方なく退店して、いつもの寝床へと歩みを進める。

(……しまった。ご飯買ってない)

 気付いた頃には例のシマまで来ていた。ここを過ぎてしまうと後は夜道が続くのみだ。
 巻き込まれないようそっとコンビニエンスストアへ向かい、食べ物と飲み物を買った。
 近くとも遠からずの場所で、本日初めての食事を始めようとしているところへ、急に声をかけられた。見知らぬ男だった。
 警戒しながら用件を聞くと、「なんだ男か」と返ってきた。何故だか残念がっている。暗がりだが品定めするような、妙な目つきが見て取れた。
 男は「まあ顔は良いし」と頷いてから瀬川へ話を持ちかけてきた。
 それを聞いた瀬川は固まる。耳を疑った。
 混乱しているうちに腕を引かれ、どこかに連れて行かれそうになっていた。引き剥がそうとしても連日の疲れが原因なのか、上手く力が入らない。
 男が向かう先には、一台の車と数名の人間が立っていた。仲間だろうか。男は「良いの見つけた」と車側へ声をかける。それにつられてぞろぞろとやってくるのを目にして身の毛がよだつ。
 どうにか男の手を振り解いて全力で走った。
 寝床をも過ぎるまでしばらく走ったが、追いかけてくる様子はなかった。念の為、近くの路地裏に身を潜める。
 壁に背をもたれた瞬間、膝が折れた。体がガクガクと震えている。普段なら立ち向かえるのに、今日はそれが出来なかった。
 男の言葉に酷く動揺していたからだ。

──ねえ、俺らと✕✕しない?金は払うからさ。

(意味分かんない……なに……?なんて……)

 男の言葉が何度もリフレインされるけれど、瀬川の頭でも理解が出来ない。

(なんで、なんで)

 自らを抱きしめたりしながら震えが止まるのを待った。時折、触られたことを思い出して手でそこを何度も払った。
──近年、世の中では多様性と称して各々の性自認を大切にしようという動きがあることは知っている。異性愛や同性愛、または無性愛だったりと様々な例があることも。
 瀬川はそれに対して肯定も否定もしない。他人の人生なのだから、好きに生きればいいと思っている。
 恋愛というのは……互いを何かの理由で“好き”になること。そこから関係が発展して恋人になる、らしい。人によってはいずれ結婚したり、パートナーとなって新しい人生を歩むのだろう。
 そうして、その人生の中で子供を授るためや、相手とスキンシップを取るための行為があることも知っている。
 シマで女の子に誘われたのはまさにそれだ。果たして彼女は本気だったのだろうか。
 瀬川には恋愛感情が分からない。男性・女性、強いて言えばどちらが好きかと問われても、どちらでもないと答えるだろう。
 だからこそ否定しないと思っていたのに、先程のはとても気持ちが悪く、心身が拒否した。
 膝を抱えて丸まったままどうにか気持ちを落ち着けようと、身近な人を思い浮かべてみる。
 兼村の頼もしさ、九条の優しさ、七海のパワー。
 その中でも一際輝いて見えたのは、日吉だった。
 あの柔和な笑顔で同じことを言われたら、たぶん許してしまう気がした。
 例え、先程のような邪悪な表情をして迫られたとしても構わない。
 何故かは分からないけれど、自分より何倍も大きなあの体の内にすっぽり収まることを考えると、なんだか安心した。

(……変なの。なんで今出てくるのが……“先生”なのさ)

 普段なら顔を見ただけで腹が立つし、考えるだけで勉強の邪魔になるのに。
 いつの間にか震えが止まって、呼吸もしやすくなっていた。それに気が付いた途端、睡魔がやってくる。
 急いでスマートフォンを取り出して目覚ましをセットした。何かあったときのため間隔は15分おきにした。
 最後にもう一度、Liteを開いて日吉のアイコンを見る。そのきらきらを目に焼き付けてから、強く強くスマートフォンを握り締めて、瀬川は瞳を閉じた。

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