「待て瀬川ァ!」
「!?」
「この野郎!お前絶対(ぜってぇ)逃がさねえからな!」

 訳がなく、諦めず全力で追いかけることに決めた。猫を被るのももう飽きた。
 ちょうど靴を履き替えていた瀬川にもその声が届くくらいの雄叫びだった。すぐさま逃げようとしていた彼に容易く追いついた日吉は、再び腕を掴もうとする。
 それは空を切ったが勝負はまだまだこれからだ。ピュン、と外へ出ていく彼をそのまま追いかけた。打ち履きだろうと関係ない。とにかくなにがなんでも捕まえたかった。

「うおおおおおおおおお!」
「な、なんなんだよアンタ!」
「待てっつってんだろうがあああああああ!」
「……!」

 先程、保健室と職員室を行き来していたとき、日吉の疲れようといったら酷い有様だった。だからこそ油断してしまった。
 通学路、住宅街、エトセトラ。そうやって撒こうとしたが、走れども走れども追いついてくる。
 こんなに持久力があるとは思わず、瀬川は驚いていた。

(くっそ!いつまで追いかけて……!ってか、もう限界……っ!)

 沢山の本をバッグに詰め込む癖が足を引っ張っていた。肩も背中も重たくて、どんどん体力が削られていく。そもインドアな彼には基礎体力があまり備わっていないのも要因の一つだ。
 走るスピードが落ちてきて、まずい!と後ろを振り返ってみる。

「っは、はぁっ、はっ……?」

 そこには人っ子一人いなかった。
 瀬川は呼吸を整えながら警戒して辺りを見渡すが、やはり誰もいない。
 ほう、と一息ついたが、落ち着いて見てみれば辺りは知らない場所だった。自分が今どこにいるのか分からない。あれだけ縦横無尽、適当に走っていれば自然とそうなるか、と納得した。
 スマートフォンを取り出してマップを出してみる。ちょうど近くに飲食店があったため、店名で検索していると、後ろから声がかかる。

「ねえ、君迷ってるの?おじさんが案内してあげよっか?」

 今日は変な人間に絡まれる運勢なのだろうか。またもイライラして振り返ったが、時すでに遅し。背中に冷や汗が垂れていくのを感じた。
 そこには撒いたはずの日吉が立っていた。

「な、んで……!」
「ここねえ、十字路になってるから上手いこと隠れながら回ってこられるんですわ」

 先程の決死の形相とは違い、普段のにこにこ日吉に戻っているものの、雰囲気が明らかに違う。
 急いで踵を返したが文字通り首根っこを掴まれて逃げられなくなった。とんでもない腕力に、瀬川の顔は青ざめる。
 藻掻いているうちに重たいバッグが滑り落ち、代わりに瀬川は地面からちょっと浮いた。身長差も相まって、吊るされている気分になる。
 日吉は瀬川へバッグを持たせると、容赦なく引きずり歩き始めた。どんなに暴れて大声を出しても全く気にも留めない。

「離せ馬鹿ーッ!」
「ダメでーす」
「うっ、ぐ、け、警察……っ!呼んで……!」
「はいどーぞやってみてくださーい。いやー、疲れたわ。明後日辺り絶対筋肉痛だよ……」

 瀬川はぎゃんぎゃん喚く。踏ん張っては引きずられ、踏ん張っては引きずられ、を繰り返している。
 実家の犬も散歩から帰りたくない時はこんな風に抵抗したっけ。今年の年末は帰省するか。などと考えながら日吉は学校へ歩みを進めるのだった。
 その後、質問を続ける日吉VS黙秘権を行使する瀬川で攻防が交わされたが、結局解決に至らなかった。アルバイト先へは出勤時間ギリギリに到着して、ヘトヘトのまま仕事をこなしたのだった。

──考査二日目の朝。
 瀬川は駅の救護室で休んでいた。強い目眩がする。目を閉じても眼振が起き、ぐるぐると世界が回った。
 彼が、いつも香吹町や詩武屋へ向かってしまうのには理由があった。
 単に面倒だから、サボりたいからという気持ちからではなく、最寄り駅である“彩都学院前”で下車することがかなわないからだ。
 下車しようとすると冷や汗と動悸が止まらなくなって、気付けばドアが閉まっている。せっかく毎日登校しようと準備をしているのに、全て水の泡になる。
 過ぎてしまったり、降りるという意思が無ければ問題ない。ただ、登校や考査のような必ず下車しなければならない時、それは起きる。
 昨日もその症状が出たけれど、無理やり下車をして学校へ向かっていた。だが今日は症状が強く、構内でうずくまってしまい救護室送りとなったのである。

(……早めに出て良かった。全然間に合う)

 腕時計を見た瀬川は少しホッとする。最寄り駅から彩都へは徒歩数分圏内だ。10分前でも間に合う距離である。
 大好きなテストのために決死の思いで下車したのに、間に合わなかったからという理由で引き返すのは嫌だった。
 刻一刻と登校時間が迫り、いい頃合いで駅を出た。
嘔吐きながら昇降口まで来ると、要らない出迎えがあった。朗らかに笑う日吉である。
 その笑顔が気に食わないんだ、と視線をそらした。

「おはようさん。……おっ、今日大人しいな」

 本当に鬱陶しいと思いながら、内履きに履き替えていたその時、ぐらりと視界が揺れる。遠くから「危ない!」と声が聞こえた時には日吉の腕に抱えられていた。なんだか呼吸もしにくい。

「大丈夫か!?おいおい……顔色悪すぎ……」

 何か言いたかったが言葉が出てこない。頭が回らない。口にしようとすると嘔吐きそうになる。
 目をぎゅっと閉じて目眩とそれらを堪えた。

「……とりあえず、保健室行こうか」

 嫌いな人間にひょい、と抱え上げられて正直不快だったが暴れる元気もなかった。仕方なく体を預けてそのまま連れられていく。
 養護教諭に診てもらう頃には少し症状が改善されていたが、とりあえず一時間寝てみて悪化するようなら、帰宅をと促された。その場合、再び考査の機会を設けて貰えるよう上に頼む、と日吉も言っていた。
 正直悔しかったが、即帰宅よりはマシだった。1.5時間程度あれば残りの教科は終わらせられる。手の甲を額に当てて小さくため息をついた。

(くそ、なんでこんな大事なときに……)

 症状が出ることは分かっていたけれど、なにも最後の日にこんな強く出なくたっていいだろう。ぎり、と下唇を噛む。

「寝てるとこごめん」

 不意に日吉が話しかけてきた。いつもより気持ち静かだ。無視をした、というか、悪心が酷く話せないため黙るしかなかった。
 彼は、昨日瀬川を追いかけ回した挙げ句、遅くまで拘束してしまったことを謝罪してきた。
 平日はアルバイトしているのを失念するほど熱心になってしまった。自分が具合を悪くさせたかも、と彼は落ち込んでいる様子だった。
 本当にごめんね、と括ってベッドから離れていった。もう何度も見慣れた天井を見つめながら瀬川はこぼした。

「……忠告したのに」
「うん?なんか言った?」
「……一時間経ったら起こせっつった」
「おー、分かった。無理はするなよ」
(……こんなのに心配なんかして、馬鹿じゃねえの)

 心の中で悪態をつきながら目を閉じる。自分を疎む他の奴らのようにもっと下に見ればいい。扱いにくい、側に置きたくないと、人生から爪弾きにすればいいのに。昨日全力で追いかけてきたのだって、未だ理解に苦んでいる。
 ぼうっとしながらあの日を思い出す。

『これ、俺の名前と電話番号。俺直通だから安心して。困ったことあったら連絡してよ』

 あんなことを言っていたが、どうせ一ヶ月後くらいには自分に構わなくなるだろう。そうすればきっと負担も減って、楽しい教師生活を謳歌できるはず。
 お人好しの日吉とか呼ばれてそう、なんて思った。スマートフォンと手帳をしまってから集中力はそのままに静かに目を閉じた。
 その後、無事回復した瀬川はやはり尋常じゃないスピードで食事を楽しんだ。
 満腹になっていよいよ帰宅しようとした時、日吉に引き留められる。
 また刑事ごっこかと思って、何か言ってやろうと振り返れば、日吉のしょげた姿が映った。あのさ、と元気のない声音で瀬川に言う。

「本当に、何かあれば言ってよ。いつでも聞くから。あ、俺Liteやってるから、電話嫌ならそっちでもいいし」
「しつこい」
「……分かった。気をつけて帰りな」

 なんだか今日は元気がない。前にどこかで見た、散歩ができなくてしょぼくれている犬みたいだった。
 わざわざ昇降口まで付いてきたし、見送りまでしてくれる。礼も言わずに背を向けるのが少し、ほんの少しだけ申し訳なく感じた。いや、気にする必要はない。忘れようと決心して駅へ向かう。
 アルバイトの時間まで、行きつけの図書館で時間を潰そうと訪れたはいいものの、どうにも調子が出なかった。脳みそはあの男の真意について考察を始めているらしい。読もうとしても解こうとしてもずっと頭を過る。

(ああ、腹立つ。邪魔すんな、馬鹿)

 柔和で朗らか、気が利いて、誰にでも好かれるタイプの人間と自分では一生マッチングするわけがない。
 瀬川はもう一度連絡先のメモを見て、何か書き加えた。それから、なんとか忘れるように目の前の文字列へ没頭することに努めた。

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𓃡          𓃠
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