瀬川凪は、朝から空腹だった。
 おなかと背中がくっつくとはまさにこのこと。そのため、唯一の楽しみである食事をすべく登校中である。時間ギリギリだったが、寧ろその方が都合がいい。
 彩都の学生たちと共に向かえば、根も葉もない噂を囁かれ、白い目で見られることが予想できる。いつもなら、その時点で引き返すのだけど、今日は大好物を口にすることが出来るのに、それくらいで逃げるなんてあり得ない。
 もう春のかけらもない青々とした並木通りを進むと、彩都学院が見えてくる。
 門番のごとく立っていた教師のお小言を無視して昇降口までやってくる。シューズケースから上履きを取り出して、外履きを代わりにしまった。これには理由があるのだけれど、知っている者は極僅かだろう。
 だが、そんなこともどうだっていい。ここまで来れば絶対にフルコースを食べられる。そんな気持ちが足取りを少し軽くした。
 が、保健室の扉を開けた先にいた人物を見て、食欲が少し失せてしまった。
 彼の担任である日吉がにこにこして待ち構えていたからだ。
 極端に距離を取るわけでもなく、その逆でもない。今まで出会ってきた教師とは違う雰囲気で、食えない表情をする日吉を彼はとても警戒していた。
改めて云々と挨拶してきたが、無視をして用意されていた机に座る。
文房具類を取り出していると、全日程日吉が彼に付き添うという言葉を耳にして、つい視線をずらしてしまった。柔和な瞳がこちらを見ている。

「ということなので。二日間よろしくね」
「……最ッ悪……!」
「まあまあそう言わずに。最初は……英語からな」

 空腹で今にも死にそうなのに、ぐちゃぐちゃと説明してくる日吉を彼はぶん殴りたい気持ちでいっぱいだった。兎にも角にも早く食事にありつきたいのだ。
ちら、と腕時計を見るとそろそろ始まる頃合いだった。
 とうとう机に前菜が置かれて、瀬川の喉がゴクリと鳴る。
 召し上がれの合図と共に、彼はフォークを握った。無駄なく手早く、左手を動かしていく。貪るように刺しては口に含んで、刺しては口に──を繰り返す。
 彼の頭の中は幸せホルモンでいっぱいだった。

(あぁっ……たまんない……。楽しい楽しい楽しい、たのしい!)

──その様子を日吉はじっと観察する。
 瀬川がテストを解くスピードは異常だった。カンニングする暇なんてない。
さすが彩都だけあって、他の生徒たちも解答スピードは中の上だと思う。だが、彼は違う。悩む素振りもないし、筆に一切迷いがない。
 そして、どことなく楽しそうにしている、ような気がした。
 思った以上の実力に圧倒されているうちに、彼はそっと筆を置いた。

「終わった」
「……ん?」
「終わったっつってんの。次」
「え?ええと……」

 日吉が時計を見ると、まだ15分程度しか経っていない。見直しとか、ともごもごしていると必要ないと返ってくる。
 次は次はと求められて正直困った。ここまでのスピードを出してくると思わず、何も準備をしていなかったのだ。せいぜい残り15分持て余すくらいかな、などと思っていた過去の自分に見せてやりたい。レギュレーションを守ってほしいと頼んでも聞く耳を持たない。
 ああもう!と瀬川はイライラして貧乏揺すりを始めた。その瞳は飢えた獣のようにギラギラと光る。

「この時間もったいない。45分あれば三教科は解けるのに……!」
「じゃあ溜まってる小テスト持ってくるからそれで我慢して!」

 背中へ舌打ちが飛んできたが気にせず職員室へと走る。しこたま溜まった小テストを抱えて再び戻る。
 息を切らした日吉からそれを奪い取った瀬川は、またも物凄いスピードで解いていく。それなりの量をいとも簡単に胃袋へ収めた彼に、日吉の開いた口は塞がらない。
 終わらせたものを日吉へ押しつけてまた、次は、と言われて頭を抱えた。

「……無いです、スイマセン」
「ちっ……」

 瀬川は腕時計を見ながらぶつぶつと呟いている。文句かしらと耳をそばだてると、「時間かかりすぎた」「もっと早く出来る」などと聞こえてきた。自己反省しているようである。
 充分だよ、と言いかけたその時、ぽろっと本音らしき言葉が出た。

「もっとやりたぁい……」

 どきりとした。
その声はいつもの刺々しいものではなく、甘く蕩けたものだった。
 掠れ気味の声はどこか妖艶さまで感じさせて、一瞬、情事のそれが脳裏を過ってしまった。
 凝視する視線に気が付いたのか、日吉をキッと睨み付けてくる。どうやら無自覚に発された言葉のようだ。慌てて拝むようなポーズで謝罪した。いつかの春川のようで強い嫌悪感があったが、他に方法が思い付かなかった。
 料理が出てこないことに腹を立てたのか、瀬川は持ち物を全てバッグに入れて席を立った。

「帰る」
「いやいやいや!まだ三教科あるから!もうちょい待って!」
「待てない」
「……分かった分かった!残り持ってくるから全部やってって!」

 再び保健室職員室間でのマラソンをした。肩で息をする日吉を他所に、再び瀬川はフルコースを楽しんでいる。
 スープに魚料理、肉料理と次々食べ尽くしていく。結局、一時間程度で四教科を解き終えてしまった。
 だが、日吉にとってはここからが始まりである。今度こそ帰ろうとする瀬川を引き留める。心底嫌そうな顔をされたがめげずに気持ちをぶつけた。

「瀬川。君と話がしたい」
「はあ?」
「今後のこととかさ、色々あるでしょ」
「……」

 養護教諭に席を外してもらい、室内で二人、向かい合う。当たり前のように視線は交わらない。腕やら足やらを組み、そっぽを向いている。まるで反抗期真っ只中の振る舞いだ。
 ふう、と一息ついて、日吉から口を開いた。

「登校する気はない?」
「ない」
「それはどうしてかな?」
「面倒」
「面倒、かあ。そういう抽象的なものじゃなくてもっとこう……」
「うるせえ」

 Gerberaであれだけの語彙力を発揮したのに、今は箇条書きのような話し方をしている。
 改善すべきところは変える、言ったところで何になる。相談に乗るから何でも話して欲しい、何もない。
 このようにてんで会話にならない。しかし、疑問をどんどん挙げなければいつまで経っても絡まった糸は解けない。あれこれ気になっていたことを振っているうちに、また瀬川は苛立ち始める。強い口調で彼は言った。
 曰く、ちゃんと言うことを聞く“いい子ちゃん”たちの面倒を見る方が有意義ではないか。Gerberaにも二度と来て欲しくない。兼村ともグルなんだろうから、だそうだ。
 痛いところを突かれて日吉は思わず呻いた。その声に、瀬川は「へえ」と気持ち嬉しそうに言う。

「おれ、カマかけただけなのに」
「……!」

 面にこそ出ていないが、きっと「してやったり」と思っているに違いない。
 ここでようやくにこやか日吉モードから闘志モードへ変換される。そんなことなどつゆ知らず、瀬川は足を組み替えて机へ頬杖を付く。

「あの人も学校の話振ってくるようになった。クソ、どこ行っても学校学校って」
「じゃあ退学したら?」
「……っ」

 その言葉に、一瞬瀬川の顔が強張った。下唇を少し噛んでいる。一気に曇った顔を見て、日吉は追い打ちをかける。

「勉強が苦痛なら辞めたらいい。けど、違うよね?実際に解いてるの見たけどすごい楽しそうだった。考査には必ず来る、ってことはそういうことでしょ?」
「……!」
「……もしかしたら、君のレベルに彩都(ここ)が付いていけてなくて授業がつまらない、のかな。でも、新しい発見とかあるかもしれないし、クラスの子たちも待って」

 瀬川は、跳ねるように立ち上がった。ダンッと机を叩く音が響いて、椅子は床へ寝転がってしまった。
 燃える瞳で日吉を見ている。初めて会ったときのように、彼の中で何かが怒りのトリガーになったらしい。
 彼は体を震わせながら目一杯叫んだ。

「うるさい黙れよッ!誰も待ってなんか……っ!」

 そこまで口にしてから、ハッとした顔になった。かと思えばすぐいつもの無表情に切り替わって、そのままバッグを手にして部屋から出ていこうとする。
 まだ話が、と言いかけながら空いた右腕を掴んだが強く振り払われる。振り返りもせず、いつもの調子で「忠告」と口にした。

「生き残りたいなら、“そっち”と仲良くしといたほうがいいよ」
「え……どういう意味?」
「そのまんまの意味。もう近寄んじゃねーぞクソ馬鹿教師」

 中指を立てながら去っていく背中は、角を曲がって昇降口へと向かっていく。それを黙って見守る──。

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【ゴールデンレトリバー 50m走 5.5秒 】
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