その日、日吉は鼻歌を歌いながら学校の廊下を歩いていた。生徒名簿で肩を叩いてリズムを取り、今にもステップをしそうである。生徒たちもご機嫌な日吉を見てキャッキャと近寄ってくる。
赴任してきてまだ間もないが、柔和で教え方も上手く、時には他愛ない話をしてくる日吉は、人気の先生ランキングに挙げられているらしかった。“ひよしん”なんてあだ名までついているようだ。授業終わりの質問タイムや、こうして廊下で声をかけられたりもする。本人もやぶさかではなく、こうして生徒たちと触れ合う機会が増えたのが非常に嬉しかった。
だが、今日ご機嫌なのはそれだけではなかった。
赤信号に引っかからないまま出勤できたり、星座占いが1位で、朝食に目玉焼きをと割った卵の黄身が双子だったりと何だか運が良い。
とはいえ、学校内では生徒も教師も中間考査対策で忙しない空気も漂っている。こんな状況のとき、焦ると失敗へ至る自覚を持つ日吉は、急がば回れ、と敢えて気持ちゆったりと過ごすことにしている。やることはしっかりやるけれど、全てをガチガチに固めてしまうのは彼の性に合わないのだ。
(……テスト、ねえ)
その単語を聞いてパッと思い付くのは、あの天才問題児、瀬川凪である。赴任してすぐだったからか、教師陣から聞いた内容には猜疑心があった。
あれから、それとなく二、三年(校内成績が出るため)の生徒に聞いてみたが、勝ったことのある人間は誰一人としていないらしい。デキる生徒でもいくらか点差を付けられてしまうようだ。生徒たちの話し方からして、毎度満点クリアは嘘ではないらしい。
授業内でやる小テストはともかく、中間、期末考査には参加をするようだし、恐らく今回もやってくるに違いない。と、考えて作り始めていたのだが、一抹の不安がよぎる。
果たして、彩都レベル、もしくは近いものを自分に作れるのだろうか?
普段は、教科書をなぞり伝達に力を入れたそこへ、少々ユーモアを足しているだけだ。皆、お喋りもせず真面目に日吉の話に耳を傾けているが、ここまで勝ち上がってきた彼らにとっては平々凡々な授業だろうな、と勝手に悩んでしまう日もある。
(最悪、教科書丸写しでもいいだろ。疲れてる子も多いだろうし日吉のテスト雑魚いよね〜!くらいのスタンスで行こう)
教師になったとはいえ、根は変わっていないので結構適当な面があることは自覚していた。それでも足を洗った後は真面目に過ごしてきたし、教育実習や初任者研修中にも担当教科の勉強は怠らなかった。
ただそれはあくまで基礎にプラスした程度である。まさか学習強豪校に赴任することになるとは思わなかったため、対策が足りないのは事実だった。
うーんと頭を悩ませていると、これまた“問題児”である春川がやってきた。もう彼を見放している日吉は、正直存在自体が鬱陶しかった。だがもう子供ではないのだから、苦手でも何でも表面上は仲良くしなければ、とにこやかにする。
「どうしました?」
「いやあ、一応伝えておこうかなと」
「?」
「瀬川、いつも保健室で考査受けさせてるんですよ」
「えっと……そりゃまたどうして」
「カンニングの件もそうですけど、まず教室に来たがらないので」
「ああ……」
「だから、日吉先生付きっきりでお願いしたいんです」
「……はい?」
どうやら今まで、教師陣が時間ごとにローテーションを組んで、瀬川の監視をしていたらしい。だが、今は日吉が瀬川を連れ戻す担当のため、イコール監視専属といった考えになった。また、これは教師陣満場一致の結果だそうで、春川はこの通り!と拝むようなポーズを取った。そろそろ蹴り飛ばそうかと思ったが、子供ではないので以下略。だが、好機は訪れた。
そもそも、なぜ瀬川が疑われるのかが気になっていた。一度やったのなら話は別だが、そうではないようだ。不良という色眼鏡を外すことが出来ない人間が多い、ということだろうか。
密室で二人きり(養護教諭は除くが)ならば、疑いを晴らすことも可能なはず。
兎にも角にもテストが作成できなければ何も進まない。日吉は去っていく春川を頭の中でボコボコにしてから、パソコンとにらめっこを始めた。
「──お、瀬川ー。元気にやってるか〜」
日吉は再びGerberaへやってきた。もちろん酒井を連れてだ。注文取りにやってきたのは彼だったが、意外にも嫌な顔をしていない。何よりきょとんとした顔をしている。何か変だなと思っていると、頭頂部にチョップが直撃した。
「おい、もう酔ってんのか惣次郎」
「はあ?素面に決まってんだろ」
「この子、女の子だよ。お顔はその……瀬川君?にそっくりだけど」
「……え?」
名札を見てみると“ゆうきなみ”と書いてある。体が女性特有の曲線を描いていることから間違いなく女の子だ。
だが顔立ちが瀬川にそっくりだったため、日吉は唖然としたまま声が出なくなった。兼村の言う通りだ。そう思った途端完全に固まってしまった彼に代わって、酒井が対応をする。
曰く、悠木がアルバイトを始めてから、常連客や先輩スタッフが瀬川と彼女を間違えるのが日常茶飯事になっているらしい。うんうん、と酒井は納得したように頷く。
「そりゃそうだろうねえ。あ、こいつね、瀬川君の担任なのよ。で、俺はこいつの友達〜」
「そうなんですね。あっ!ご注文お伺いします!」
「はあい!んーとね、焼き鳥ももタレ二人前と、チヂミに……クラフトビール二つ……」
「は、はい!えーと、えーと」
「ゆっくりで大丈夫だからね〜」
「はい!ありがとうございます!」
悠木が復唱する度にはい!と元気な返事をする酒井。日吉を置きざりにほのぼのする空間が出来上がっていた。
そんな最中、二つ後ろの席から何か割れる音と怒号が聞こえる。三人ハッとそちらを見ると、グループ客がスタッフをなじる姿があった。
どうやらスタッフが運ぶ料理を間違えて、そのことに腹を立てているようだ。何人か相当酔っぱらっているようで、所々呂律が回っていない者もいる。その中でもとりわけ、リーダー的男が激怒している。ぎゃあぎゃあと喚きながら、とうとうスタッフへ料理を投げたり水をかけ始めた。
「うげー、クソ客じゃん」
「酷い!行かなきゃ!」
「待って待って、女の子じゃ危ないって……惣次郎、行く?」
「やったるかあ」
日吉と酒井が肩を回し席を立ち上がろうとした時、スタッフが大声で瀬川に助けを求めた。それを聞いた二人はぴた、と動きを止める。
「お客様、いかがされましたか?」
すぐにすたすたと歩いてきた瀬川は左手に水差しを持っていた。
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【Ready Fight!!】
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