陽が落ち始めた香吹町繁華街には、光る看板がぽつぽつと増え出していた。
これからこの中で遊ぶであろう人間たちの波に逆らいながら、瀬川は最寄り駅まで歩みを進めていた。その足取りは重く、鉛のように感じる。
本日は祝日で、普段の遅番勤務ではなく中番勤務だった。三連休の半ばだったため、遊び盛りの大学生らが事前に希望休を出していた。
それで少々人員不足と聞いていて、穴を埋めるべく瀬川は立候補したのだった。
けれど、勤務中は最悪な事態が続いた。
オーダーを聞き間違える、提供する席も間違える、出来立ての料理を厨房でひっくり返す。他にも普段簡単に出来る作業でさえこなせない。最終的にはインカムで話そうとしても途中で言葉が出なくなって、休憩室で休ませてもらう羽目になった。
少し休んでから謝罪に戻った彼に、店長兼村は帰宅を促した。顔色が相当酷かったらしい。
今はしっかり休め、今度からまた店を頼む。
そう言われ、諸々の意味を込めて頭を下げてから早退をしたのである。
こんなに頭も手も回らないのは、朝方、暫く見ていなかった悪夢が襲ってきたことが原因だろう。
やっとの思いで目的の駅へ着いて、電車で岐路を辿る。人々がぎゅうぎゅうに押し込まれた車内から、瀬川はぼうっと景色を見ていた。
(帰れって言われても困るな。役に立たないんだから仕方ないんだけど)
この電車に乗っている人たちはこれからどこへ行くんだろう。理由はどうあれ、きっと自分とは別のあたたかな世界へ行くんだろうな、と感じた。
そうやってぼんやりしている間に家のある最寄り駅へ到着してしまい、押し出されるようにしてホームに着地した。
改札を出て北に向かって少し歩くと、大きな商店街に入る。そこを抜けてまた少し歩けば彼の住むアパートメントがある。
「はいはい!今日は新鮮なカツオがおすすめだよー!」
「メンチカツ一つとー……」
「ファミレス行かね?」
「ありがとうございましたー!」
「あら、お久しぶりね~」
相も変わらず、活気のある場所だ。
祝日は稼ぎ時なのか香吹町に劣らず人の行き交いが激しい。
瀬川はいつもここを通るのが嫌いだった。
だが、土地の作り上ここを通らないと家に辿り着けない。だからいつも出来るだけ、耳や目になにか異物が入らないよう、常時気を張って歩みを進めることにしている。
すぐ隣をすれ違った親子をつい、ちらと見てしまった。どうやら、娘は夕飯にカレーを食べたいそうで、母親が手伝いをお願いすると元気な返事をしていた。ぎゅ、と手を繋いで去っていく。
そう、“こういうの”が入ってくるから、嫌なのだ。
下を向いて歯を食いしばった。爆発しそうな気持ちをぐっと抑えて、瀬川は帰宅した。
玄関へ靴を放り、敷きっぱなしの布団の近くへスクールバッグを置くと、そのまま寝転んだ。
酷く疲弊している。主に精神面でだ。薄暗い天井を見上げながら、彼は今日の失態を思い出す。
考えてしまうといてもたっても居られなくなって、バッグから教科書や参考書をどっさり取り出した。
──彼のバッグの中は、いつだって勉強ができる環境になっている。
毎日、登校に間に合う時間に起きて身支度を済ませる。けれど、いざ彩都の最寄り駅へ着いても気が付けばドアが閉じている。そうして足は香吹町へ向いてしまう。
少し近い詩武谷に行くことも多い。ファストフード店で過ごしたり、隙間時間で出来るアルバイトで時間を潰してから、兼村の店へ向かうのが彼のルーティンになっていた。
部屋にかさり、と紙の擦れ合う音がする。教科書も参考書も、どれもこれも手にしたときから今までもう何度も読み返した。まだ他の生徒が学ばないところまで読んで解いて読んで解いて……を繰り返していた。各種問題や、説明文の一言一句空で言えるほどである。
瀬川はふう、と息をついた。
彼の住む六畳一間は本で溢れかえっていた。小学校・中学校で使った教科書はもちろんのこと、小遣いを貯めて古本屋で購入した小説、児童書、絵本など、種類は多岐にわたる。
読んでいた数学の教科書を腹の上に置いて、目を閉じた。
(……勉強、好きだ。解けば解くほど満たされるし、面倒なこと考えなくていい。文字はうるさくないから好き。小説は特にそう。読んでると、その世界に溶けていく感じがたまらない。どっちも、居場所がないおれを受け入れてくれる)
でも、勉強が好きだからといって学校には行けない。そこが自分の居場所じゃないことを昔から知っているから。
じゃあ、兼村の店は?心配した口調だったが、呆れているようにも見えた。あそこを離れる潮時なのかもしれない。
じゃあ、じゃあ、次はどこへ行けばいいんだろう。自分を受け入れてくれる場所なんてもうどこにもないんじゃないか?
あの店の人たちが偶然優しかったから上手くいっていただけで、他のところでこんな見た目、人間性が通用するはずもない。どこでも奇異の目で見られることが多い。そんなの当たり前だ。
見つめていた天井から、徐に姿見へと近付いた。暗がりに自分の姿が映る。
ピアスを開け、髪が赤い。普段はだらしなく制服を着ている自分。自ら道を踏み外しているのは理解している。
でももう戻れない。絶対戻りたくない。あの頃とは違う。姿見へ手を伸ばして、彼は小さく呟く。
「……“ぼく”は──」
そのままごん、と鏡へ額を預けて、“瀬川凪”は自分の瞳を睨みつけた。

