──瀬川のビール&ハイボールおすすめ作戦が効いたのか、あれからカクテルの提供数がグッと減った。緊張の糸が切れたのか、九条は冷蔵庫から出したエナジードリンクをぐひぐびと飲み始めた。
「あぁ~、エナドリ最高〜」
「サボるな」
「水分補給してんの!」
変わらずぎゃいぎゃいやっている九条のインカムへ、囁き声が入ってきた。口調からして先程の青年、瀬川凪だろう。1卓、要するに日吉たちのいる席へ、オーダー取りや提供を誰かに頼みたいとのことだった。
さっきの冷静さはどこへやら、非常に苛立った声音で「おれマジであそこ行きたくねーから」と締め、インカムは切れた。他のホールスタッフも驚いたのか、皆片言の返事をしていた。九条と兼村もはて?と顔を見合わせる。
「おやおや、なにかありましたなこれは」
「……珍しいな」
「ねー。スタッフ相手にはこんな言葉遣い絶対しないのに。……あ、帰ってきた」
どかり、と厨房へ足を踏み入れたのを見て、九条が問い掛ける。
「凪、どしたん?」
「……学校の担任が来てる」
「あー……去年来たへなへなの?」
「違う。今年からの奴。ごちゃごちゃうるせーから逃げてきた」
店長である徹平に謝罪をすると、揚げ物中心の作業を任される。作業する合間も瀬川の愚痴は止まらず、黙ったままの兼村に代わり九条がうんうんと聞いてくれている。
「へー、わざわざ来たのに逃がしてくれたんだ」
「意味分かんねえ」
「いい人じゃん」
「……どうせまた、春川みたいに来なくなる」
「……凪さあ、なんでそんなに学校嫌なの?あんだけ勉強好きなのに」
休憩時間を削ってまで勉強している彼を知っている九条は、思い切ってずっと感じていた疑問をぶつけてみた。
皆が賄いを食べ談笑する中、裏口の階段へ座って、読み古したボロボロの教科書などを眺めてはため息をついている姿をよく見かけるからだ。その度、九条は彼へ食べやすいような賄いを持って行っては、隣で煙草を吸いながらその姿を見守る。いつの間にかそれが当たり前の環境になっていた。
瀬川はこんがり揚がったポテトフライを皿に盛り付けていく。ケチャップとマヨネーズがそれぞれ入ったココットを添えて、カウンターへ出す。
「別に?めんどいだけ」
「……行くのがめんどいってこと?」
「そ」
「凪の住んでるとこから遠くないのに?」
「距離の問題じゃねーよ」
「……他人との距離ってこと?」
「……ポテトフライ、軟骨揚げ1卓お願い」
それきりインカムにしか対応しなくなってしまった彼に対して、九条は内心やれやれと肩を竦めた。
瀬川がここでアルバイトを始めたのは中学生の頃だった。まだあどけない顔立ちで、こちらがリラックスを促すくらい堅い姿勢で面談を受けていた。どこか一線引いた態度は変わらないが、だいぶ柔和で可愛げがあった。
勉強が好きだから、彩都に入るんだと意気込んでいて、現在のように休憩中も勉強に勤しんでいた。無事、入学が決まった時は皆でお祝いパーティをしたことはまだ記憶に新しい。
だが、高校受験を終えてから現在のように豹変してしまったのである。この姿で出勤された時は、あの冷静沈着な兼村でさえあんぐりと口を開けていた。訪ねたが理由を濁すばかりだった。多感な時期だし、遅めの思春期かも、などと初めは放っておいた。親でもないのにそこまで介入する権利もないとも思っていたし。
そこに突然、去年の担任春川がやってきて、学校へ来ていないと聞いた時は耳を疑った。身嗜みのことは百歩譲ったとして、あんなに合格を喜んでいた瀬川が登校拒否をしているなんて思ってもみなかった。たぶん、何かへの嫌悪感を持っているのだと思う。けれど、未だにはっきりとした理由は分かっていない。
今日がイレギュラーだっただけで、この店では真面目に働いている。営業中は、あんな態度を取ることも滅多にない。
(だからこそ色々勿体ない気がするんだけど、本人が言うまで待つしかないよねえ)
九条はドリンクと共に、杞憂と共に飲み干したあと、空き缶をゴミ箱へと捨てた。
――――――――――――
少年は、子供の頃から“アイ”というものに飢えていた。
母親はシングルマザーだった。今思えば、たぶん水商売で生計を立てていたのだと思う。
少年が赤ん坊のころから既に彼から興味をなくし、男に走った。言葉通り代わる代わる連れてくるので、物心ついても彼は一人一人の顔を覚えていない。
母親は、男たちへ彼をおもちゃとして与えた。母親か男、もしくはどちらかの機嫌を少しでも損ねると、殴打の雨が降ってくる。満足するまで暴力を振るわれ、罵声を飛ばされる。そうして興奮が止んだのち、彼は住処へ戻されるのだ。
アパートのベランダが、彼の寝床だった。ずっとそこへ放置され、所在が他人にバレないようブルーシートまでかけられていた。色々なことが分かってくると、暑い日は困るけど、寒い日はちょっとあったかいな、なんて思えてしまった。
食事は、スナック菓子を二日に一回程度の間隔で渡される。空腹の少年は貪るように食べた。それを四つの目が笑いながら見ている時だけ、少年は部屋の中に入ることを許されていた。
そのため、彼は小学校に入学するまで、菓子以外の食べ物を知らなかった。給食を初めて目にしたとき、教師へ「これはたべもの?」だとか「どうやってたべるの?」だとかつい疑問を投げかけてしまった。きっと母親へ連絡が入ったのだろう。帰宅後は想像の通りの結果になった。
春夏秋冬関係なく、長袖長ズボンを着るよう命令をされた。母親と男が付けた傷が目立たないようにするためである。そういえば、入学前に「顔はバレるからやめて」と母親が猫撫で声を出していた記憶がある。
少年は殴打や蹴られることも嫌いだったが、特に彼を苦しめたのは水責めだった。浴槽に顔を押し付けられて溺死寸前まで追い詰められる。意識が朦朧としてきた頃、離されてはまた沈められる。これが原因で今も水に潜れない。
それから、母親はだんだんと家に寄り付かなくなり、少年が中学校へ上がる際、男と共に出ていった。
その時発した最後の言葉が、どの暴力よりも彼のこころを打ちのめした。
『あーあ、あんたなんて産まなきゃよかった』
今も、耳にこびりついて離れない。こうして、頻繁に夢を見るくらいには──。
〘1(I)8(hate)2(you)!!〙

