「鈴の饗、そちらに行きましたぞい。」

 「あ、ああ!」

 風薫る5月。麗蘭さまのお父さま鈴の饗は、医官に誘われ紫の大納言と3人で遊魚と呼ばれる魚釣りに出かけていました。

 「あ、ああ。あの魚はまだやり残したことがおありなのでしょう。」

 「はっは! 鈴の饗はまったく面白いことをおっしゃいますなぁ。」

 鈴の饗の目の前にいた小さなニジマスは、尾ひれを振りながら上流へと泳いでいきました。

 「えい、やー。」

 上流に行ったニジマスは、紫の大納言に釣り上げられました。

 「さすが、紫の大納言さまにございますな。」

 「いえいえ。帝なら、もっと大きなイトウも一発でしとめてしまいますよ。」

 医官の褒め言葉に手をあげてこたえ、紫の大納言は釣り上げた小娘の腕くらいのニジマスを川に放しています。

 「へえ、大納言さまともなると、帝ともお知り合いなんですね。」

 「紫の大納言さまは特別にございます。釣りも鷹狩りも、幼き頃からともに楽しまれてきたのです。」

 たるんだ釣り糸を川に流しながら、鈴の饗は医官から大納言さまと帝の関係を教えてもらっていました。大納言さまは全く無関係にひたすらピンと張った釣り糸を流していらっしゃいます。

 「医官殿、紫乃さまの様子は如何にございますか?」

 「大納言さま、ご懐妊された女御さまは、専門の女官がみることになっておるのです。それゆえ私が直接見たわけではありませんが、特に異常はないと聞いております。」

 「そうか。体調がすぐれず、何度も皇子さまを呼び出しているようだが…、大丈夫なのか?」

 大納言さまは釣り糸を見つめたまま、医官に聞いています。鈴の饗はそう聞かれている医官の顔をのぞき込んで、来るべき「娘のご懐妊」に備えているようです。

 「大納言さま、ご懐妊とは誠に喜ばしいことでありますが、女の身体が自分のものではなくなるという、女にとっては非常に苦しいものなのです。ですが喜ばしい(・・・・)ことなので泣き言は言えませぬ。しかも病気と違い、薬も使えませぬ。なので、その状況でも普通のことなのです。」

 「そうか。医官が申すなら、そうなのだな。ハッ!」

 また大納言さまの糸に何やらがかかったようです。

 「医官さま。ところで、麗蘭さまは…?」

 鈴の饗はこっそり手の甲を口元に当てながら、医官に聞いてみました。すると医官は釣り糸を引き上げ、片付けを始めてしまいました。

 「また、御子はいらっしゃっておりませんでした。体重も少々落ちているようです。」

 「そうか。かわいそうに…。」

 「月のものも、止まっておられるようです。なんとかストレスを解消しないと、御子は難しいかと。」

 ジャボっと音がしたかと思うと、鈴の饗の竿は手から離れ、川下に流れて行きました。

 「医官さま、私は、どうしたらいいのでしょうか?」

 「そうですのぉ、ストレスを与えないのが一番ですから、何も言わず、ただただ心の中でお祈りするしか…。」

 「そんなあ!」

 川の中で鈴の饗がしゃがみ込んでいると、大納言さまも竿を片付けて戻っていらっしゃいました。

 「大納言さま、本日の釣果は?」

 「ああ、あのニジマスのみ。さっき釣れたのは、黒いザリガニにございました。糸も切れたし、帰った帰った。」

 大納言さまはそのまま医官と鈴の饗に背を向けて宮中へと帰ってしまいました。