「麗蘭、よろしいか。」
宮中での歌会でみそめられた麗蘭が入内して2年が過ぎたある日のこと。麗蘭の部屋に、宮中の女官たちを仕切る百合の女房がいらっしゃいました。
「明日から、特例として、そなたは寝殿仕えとなられることになられた。」
「し、寝殿仕えと申しますと…。」
「平たく申しますと、女御として、皇子さまの幾つかある床の一つを、そなたにお守りしていただくこととなった、ということにございます。」
それは皇子さまの妃になるということを意味しておりました。
「そ、そんなぁ。私は、ここでただ、物語をしていればいいのです。お母さまを思い出しながらお仕えできるだけで光栄なのでございます。」
麗蘭のお母さまは幼い頃亡くなっています。麗蘭は、それはそれは個性的なお義母さまとお義姉さまにお母さまの思い出を壊され、お父さまと共に入内してきたのでした。
「女官というのは、あくまでも世話係。決して寝殿をともにすることなどなかった。しかし、麗蘭、そなたは初めて歌会で選ばれた女官なのだ。それも今まで決してなかったことなのだ。」
そうです。麗蘭は宮中で開かれた歌会で、自身が詠んだ和歌を残し、皇子さまのお心にとまって入内することができたのです。
宮中は完全なる階級社会。お仕えしたい女子が居ても、父親の身分で階級が決まるのです。高貴な父親の娘は、寝殿仕えをするような女御になれますが、いやしき身分の父親の娘は、どんなに優れていても決して女官から上がることはございませんでした。
「麗蘭が寝殿仕えに成功して、お子を授かれば、この先の女官にも『選ばれれば女御に上がれる』という道が開けるのだ。」
寝殿仕えに成功すれば、さぞかし輝かしい未来があるのでしょう。でも、もうここには居られません。お母さまを思う文机とも、大好きなお父さまともお別れです。
「女房さま、無理を承知で、お断りすることはできますでしょうか?」
麗蘭は正座の膝小僧を拳できつく握りながら申し上げました。
「麗蘭、これはまたとない飛躍の時なのでございます。女官から女御に上がるなど、50年のお仕えで1人もありませぬ。そなたにはそれだけの可能性がお有りなのだ。」
それでも麗蘭は口をモゾモゾ、真一文字に波を打ちながら、部屋の隅に置かれた文机を見つめています。
「麗蘭。前にも話たが、そなたに出会えたことが宮中に来て一番嬉しかったことなのだ。親友の文月の娘であるから。文月ならこんな話どんなふうに喜ぶか、私も想像して嬉しい気持ちになっておるのだ。集めた物語の本は持って行ける。どうだ、文月のためにも、女御となって、お子を産まぬか?」
百合さまの目には滴がたまっておいでです。お母さまが麗蘭に最後のご挨拶をなさった時のように。
「女房さま。わかりました。明日からお勤めを果たして参ります。」
その夜。同期の女官吉良がささやかな送別会を開いてくれました。
「麗蘭、本当におめでとう!」
「同期として鼻が高いよ。」
「ありがとう。」
吉良はずっと拍手をしながら、同じく同期の松子はこぶしで天狗の鼻を作りながら、喜んでくれています。
「私は書庫部だから、ここに来てから寝殿に入ることも皇子さまにお会いすることも出来てなくて。お2人に聞きたいことが山ほどありますの。」
「任せて! 私は寝殿仕えの女御さま付きだから、困ったらすぐ駆けつけるわ。」
吉良は緑の袴をふわりと持ち上げて、麗蘭にご挨拶しました。
「私は医官付きだから、御子さまを宿してからは任せて! お産は得意分野だし。」
松子は紫の袴にしめている金色の帯をさすりながら言います。この帯は特別な勉強をした者にしか授けられない、医の道に通じている女官の証です。
「ありがとう。2人が居ればお父さまと離れても大丈夫かも知れないわ。」
「そうね! 麗蘭なら大丈夫よ! 皇子さまも素晴らしいお方だしね。」
吉良の言う通り、皇子さまの評判は女官の中でも噂になっていました。そんな皇子さまがご自身の意向で初めて選ばれた女御さまが麗蘭なのでした。
「すごく嬉しいことなんだけど、異例のことだし、あの方もいらっしゃるから、ちょっと気をつけないとね。」
「気をつける、とは?」
松子の助言に麗蘭は首をかしげます。
「紫乃さまっていう、紫の大納言さまのお嬢さまも女御になられるんだけど、女御さまの間でも意地悪なお嬢さまって有名なんだよね。」
「やっぱり。吉良が言うなら本当なのね。後ろ盾は完璧なんだけどね。医官の間でもあの娘は診たくないって言う人も多いの。早く御子を身ごもって医官の手から離したいって聞いたわ。あ。」
松子にそう言われると、麗蘭は目を伏せ、青い顔になりました。
ーーよく決めてくれた!
いいですか麗蘭さま、できれば早く、男の子をお産みになるのです。女の子でも帝とはなれますが、男の子であれば孫の代まで天皇家は確定。文月もお父さまも鼻高々でありましょう。
ーー。
それが百合さまからの花向けの言葉でした。女御さまとなられたからには、御子を産むこと、それも早く、男の子を、というのが常でした。
「ごめんなさい。先に御子さまを産むのは麗蘭がいいと思うの。でも、あの紫乃さまならどんな意地悪をしてくるかわからないわ。」
「そうね。特に身体に入れるものには気をつけないとね。私も気を配ってみるから自分でも気をつけてね。」
「うん。」
松子と吉良の忠告を胸に、麗蘭はお父さまと暮らした部屋をあとにしました。
宮中での歌会でみそめられた麗蘭が入内して2年が過ぎたある日のこと。麗蘭の部屋に、宮中の女官たちを仕切る百合の女房がいらっしゃいました。
「明日から、特例として、そなたは寝殿仕えとなられることになられた。」
「し、寝殿仕えと申しますと…。」
「平たく申しますと、女御として、皇子さまの幾つかある床の一つを、そなたにお守りしていただくこととなった、ということにございます。」
それは皇子さまの妃になるということを意味しておりました。
「そ、そんなぁ。私は、ここでただ、物語をしていればいいのです。お母さまを思い出しながらお仕えできるだけで光栄なのでございます。」
麗蘭のお母さまは幼い頃亡くなっています。麗蘭は、それはそれは個性的なお義母さまとお義姉さまにお母さまの思い出を壊され、お父さまと共に入内してきたのでした。
「女官というのは、あくまでも世話係。決して寝殿をともにすることなどなかった。しかし、麗蘭、そなたは初めて歌会で選ばれた女官なのだ。それも今まで決してなかったことなのだ。」
そうです。麗蘭は宮中で開かれた歌会で、自身が詠んだ和歌を残し、皇子さまのお心にとまって入内することができたのです。
宮中は完全なる階級社会。お仕えしたい女子が居ても、父親の身分で階級が決まるのです。高貴な父親の娘は、寝殿仕えをするような女御になれますが、いやしき身分の父親の娘は、どんなに優れていても決して女官から上がることはございませんでした。
「麗蘭が寝殿仕えに成功して、お子を授かれば、この先の女官にも『選ばれれば女御に上がれる』という道が開けるのだ。」
寝殿仕えに成功すれば、さぞかし輝かしい未来があるのでしょう。でも、もうここには居られません。お母さまを思う文机とも、大好きなお父さまともお別れです。
「女房さま、無理を承知で、お断りすることはできますでしょうか?」
麗蘭は正座の膝小僧を拳できつく握りながら申し上げました。
「麗蘭、これはまたとない飛躍の時なのでございます。女官から女御に上がるなど、50年のお仕えで1人もありませぬ。そなたにはそれだけの可能性がお有りなのだ。」
それでも麗蘭は口をモゾモゾ、真一文字に波を打ちながら、部屋の隅に置かれた文机を見つめています。
「麗蘭。前にも話たが、そなたに出会えたことが宮中に来て一番嬉しかったことなのだ。親友の文月の娘であるから。文月ならこんな話どんなふうに喜ぶか、私も想像して嬉しい気持ちになっておるのだ。集めた物語の本は持って行ける。どうだ、文月のためにも、女御となって、お子を産まぬか?」
百合さまの目には滴がたまっておいでです。お母さまが麗蘭に最後のご挨拶をなさった時のように。
「女房さま。わかりました。明日からお勤めを果たして参ります。」
その夜。同期の女官吉良がささやかな送別会を開いてくれました。
「麗蘭、本当におめでとう!」
「同期として鼻が高いよ。」
「ありがとう。」
吉良はずっと拍手をしながら、同じく同期の松子はこぶしで天狗の鼻を作りながら、喜んでくれています。
「私は書庫部だから、ここに来てから寝殿に入ることも皇子さまにお会いすることも出来てなくて。お2人に聞きたいことが山ほどありますの。」
「任せて! 私は寝殿仕えの女御さま付きだから、困ったらすぐ駆けつけるわ。」
吉良は緑の袴をふわりと持ち上げて、麗蘭にご挨拶しました。
「私は医官付きだから、御子さまを宿してからは任せて! お産は得意分野だし。」
松子は紫の袴にしめている金色の帯をさすりながら言います。この帯は特別な勉強をした者にしか授けられない、医の道に通じている女官の証です。
「ありがとう。2人が居ればお父さまと離れても大丈夫かも知れないわ。」
「そうね! 麗蘭なら大丈夫よ! 皇子さまも素晴らしいお方だしね。」
吉良の言う通り、皇子さまの評判は女官の中でも噂になっていました。そんな皇子さまがご自身の意向で初めて選ばれた女御さまが麗蘭なのでした。
「すごく嬉しいことなんだけど、異例のことだし、あの方もいらっしゃるから、ちょっと気をつけないとね。」
「気をつける、とは?」
松子の助言に麗蘭は首をかしげます。
「紫乃さまっていう、紫の大納言さまのお嬢さまも女御になられるんだけど、女御さまの間でも意地悪なお嬢さまって有名なんだよね。」
「やっぱり。吉良が言うなら本当なのね。後ろ盾は完璧なんだけどね。医官の間でもあの娘は診たくないって言う人も多いの。早く御子を身ごもって医官の手から離したいって聞いたわ。あ。」
松子にそう言われると、麗蘭は目を伏せ、青い顔になりました。
ーーよく決めてくれた!
いいですか麗蘭さま、できれば早く、男の子をお産みになるのです。女の子でも帝とはなれますが、男の子であれば孫の代まで天皇家は確定。文月もお父さまも鼻高々でありましょう。
ーー。
それが百合さまからの花向けの言葉でした。女御さまとなられたからには、御子を産むこと、それも早く、男の子を、というのが常でした。
「ごめんなさい。先に御子さまを産むのは麗蘭がいいと思うの。でも、あの紫乃さまならどんな意地悪をしてくるかわからないわ。」
「そうね。特に身体に入れるものには気をつけないとね。私も気を配ってみるから自分でも気をつけてね。」
「うん。」
松子と吉良の忠告を胸に、麗蘭はお父さまと暮らした部屋をあとにしました。



