それは絶望の淵の底で見つけた小さな、小さな光の欠片だった。
 俺はその、名前も知らない道化師が残していった温かい言葉の記憶と、彼女の心臓の確かな鼓動の残響を胸に抱いたまま安宿への重い道のりを戻った。
 ドアを開けると部屋はいつもと同じ深い澱んだ闇に沈んでいた。
 虚無は部屋の隅の椅子に彫像のように座っていた。彼女は俺が帰ってきたことに何の反応も示さない。ただ窓の外の、隣のビルの汚れた壁を見つめているだけだった。
 以前の俺ならそのあまりに完璧な無関心さに絶望し、苛立ち、あるいは彼女の世界に自分もまた沈んでいくことを受け入れていただろう。
 だがその夜の俺は違った。
 俺の心の中には、あの小さな光の欠片が灯っていたからだ。それはこの部屋の濃密な闇を完全に払拭するには、あまりにか細く、頼りない光だった。だが、確かにそこにあった。

 俺は何も言わずに自分のベッドに潜り込んだ。
 その夜、俺は久しぶりに夢を見なかった。
 血と暴力と絶望に満ちた悪夢ではなく、ただ静かで穏やかな無の眠りに落ちることができた。
 翌朝、俺の心は決まっていた。
 俺は生きる。
 虚無と共にあの最も美しい終焉を迎えるその時まで。俺はこの醜く、しかしどこかに光の欠片が隠されているかもしれない世界で生きてみることにしたのだ。
 それは彼女への裏切りだったのかもしれない。
 だが俺はもう彼女の完全な「道具」ではいられなかった。あのお姉さんの温もりが、俺の中に人間としてのちっぽけな、しかし消しがたいエゴを再び芽生えさせてしまったのだから。



 それから俺たちの奇妙で歪な日常が始まった。
 俺はしばらく生きることが楽しかった。
 「楽しい」という感情がまだ自分の中に残っていたことに、俺自身が一番驚いていた。
 あのお姉さんの言葉が、俺を縛り付けていた呪いの一つを解いてくれたのだ。目的がなくても生きていい。その当たり前の事実が、俺の重く錆びついていた心の歯車を少しずつ動かし始めた。
 俺は新しい仕事を見つけた。
 それは埠頭の倉庫のような奈落への入り口ではない。もっと穏やかで人間的な温もりのある場所だった。
 宿の近くの、古い商店街のその片隅に、その店はあった。
 『喫茶ハルキ』
 色褪せた緑色の庇。ガラスの扉には手書きの温かい文字。中を覗くと年季の入った飴色の木のカウンターと、使い込まれたベルベットの椅子が見えた。その店の窓に一枚の小さな紙が貼られていたのだ。
 『アルバイト募集』と。

 俺はその店のドアを開けるのに三日かかった。
 だが四日目の朝、俺は震える手でそのドアノブを握った。
 店主は春樹さんという腰の曲がった、優しい目をしたおじいさんだった。俺の履歴書も身分証もないその怪しげな風体を見ても、彼は何も聞かなかった。ただ、「珈琲は、好きかね?」とだけ尋ねた。
 俺がこくりと頷くと、彼は「なら、合格だ」と言って皺くちゃの笑顔を見せた。
 その日から、俺の新しい日常が始まった。

 働き始めて最初の数日。俺はまるで、出来の悪いブリキの人形だった。
 春樹さんの穏やかな指示にただ「はい」とだけ答え、言われたことだけをぎこちなくこなす。カップを洗い、床を掃き、カウンターの隅で息を潜める。俺はこの陽だまりのような空間を汚してはいけない異物なのだと自分に言い聞かせていた。
 そんな俺を観察する、もう一つの視線があった。
 春樹さんの孫の遥さんだ。
 彼女は俺が働き始めた時静かに会釈をしただけで、特に話しかけてくることはなかった。俺は彼女の背中を見ながら仕事を覚えた。
 彼女の後ろ姿はどこか印象的だった。腰まで届く艶やかな黒いストレートのロングヘア。それを低い位置で一本に束ねている。仕事の邪魔にならないように、という実用的な理由からだろうが、その潔い髪型が彼女の凛とした雰囲気を際立たせていた。
 遠目から見ると、すらりとした良いスタイルをしているせいで背が高く見える。だが実際に近くに立つと、俺の身長よりも頭一つ分は小さかった。そのギャップが彼女の存在感を不思議なものにしていた。
 彼女の顔立ちは虚無のような人間離れした彫刻的な美しさとは全く違った。大きな、少し垂れ気味の優しい瞳。小さな鼻。笑うと薄い唇の端にえくぼができる。美人、というよりは間違いなく「かわいい」という言葉が似合う人だった。彼女の放つ雰囲気は人を寄せ付けない絶対的な美ではなく、人をほっとさせるような、温かい陽だまりのそれだった。

 最初の週が終わる頃。
 俺は一人、閉店後の店でグラスを磨いていた。春樹さんは奥で帳簿をつけている。
 そこに遥さんが小さなマグカップを二つ持ってきた。
 「……お疲れ様」
 彼女はそう言って、俺の前に一つのマグカップを置いた。湯気と共に、甘いミルクの匂いがした。
 「ホットミルク。眠れなくなるから夜は珈琲飲まないんだ」
 「……あ、ありがとうございます」
 俺は戸惑いながらそれを受け取った。
 俺たちはカウンターを挟んで、しばらく無言でホットミルクを飲んだ。気まずい、というよりは穏やかな沈黙だった。
 「……少しは、慣れた?」
 彼女は尋ねた。
 「はい、なんとか」
 「そっか。よかった」
 彼女は、そう言って優しく微笑んだ。
 その笑顔に、俺はなぜか、少しだけ泣きたくなった。

 それから季節がゆっくりと移り変わっていった。
 夏が完全に死に、風が秋の色を運び始めた頃。俺は喫茶ハルキの、風景の一部として、完全に溶け込んでいた。
 俺はもうただのブリキの人形ではなかった。
 春樹さんの穏やかな指導の下、俺はサイフォンで珈琲を淹れることができるようになっていた。フラスコの中でお湯が沸騰し、ガラス管を上っていく。粉と混ざり合い、芳醇な香りを放ちながら、再び下へと落ちていく。その一連の化学実験のような静かなプロセスは、俺のささくれた心を穏やかにした。
 「悠真くんの淹れる珈琲は、真面目な味がするな」
 春樹さんは一度、そう言って笑った。
 「まっすぐで、嘘がない味だ。ばあさんの優しい味とはまた違うが、これもまた、いいもんだ」
 その言葉がどれほど俺を救ってくれたことか。

 遥さんとの距離も、少しずつ縮まっていった。
 彼女は俺に色々なことを教えてくれた。常連客のそれぞれのいつもの注文。古いジャズのレコードのかけ方。そして、この店の歴史。
 カウンターの隅に、一枚の色褪せた写真が飾られていた。そこにはまだ若々しい春樹さんと、その隣で幸せそうに微笑んでいる一人の女性が映っていた。
 「おばあちゃん」
 遥さんはその写真を愛おしげに指でなぞりながら言った。
 「おじいちゃんが、よく話してるでしょ。このお店はおばあちゃんが始めたんだよ。お花と、珈琲と、ジャズが大好きな人だった」
 彼女の声は少しだけ寂しそうだった。
 「数年前に病気で逝っちゃったんだけどね。でも、なんか今でもこのお店のどこかに、いるような気がするんだ」
 彼女は初めて俺に、自分の個人的な話をしてくれた。それは、俺をこの店の本当の意味での一員として認めてくれた証のように感じられた。
 俺は自分の過去を話すことはできなかった。
 だがその代わりに、ただ黙って彼女の話を聞いた。
 その日以来俺たちの間の沈黙は、より温かい色を帯びるようになった気がした。

 俺は人間としての感覚を少しずつ取り戻していった。
 笑うこと。
 驚くこと。
 そして、誰かの優しさを素直に受け取ること。

 光が強くなればなるほど、影もまた濃くなる。
 俺がその陽だまりのような温かい光の世界から、宿のあの四角い檻へと帰るたび。
 俺の心は激しい混乱に襲われた。
 部屋はいつも暗く、冷たい。
 そして虚無は、いつも同じ場所で同じようにただ座っている。
 俺が日に日に珈琲と石鹸の生活の匂いをその身に纏っていくのとは、対照的に。
 彼女は変わらなかった。
 いや、むしろその人間離れした無機質さは、日を追うごとに研ぎ澄まされていくようにさえ見えた。
 彼女の感情は前より一層、分からなくなっていた。
 彼女はもはや生きてすらいないのではないか。ただそこに美しい抜け殻として、存在しているだけなのではないか。
 俺は時々、そんな恐ろしい考えに囚われた。
 俺たちの間に横たわる亀裂は、もはや修復不可能な巨大な渓谷となっていた。
 俺は光の側に、彼女は影の側に。
 俺たちは同じ部屋にいながら、決して交わることのない世界に生きていた。

 その日も俺は、いつものようにアルバイトをしていた。
 秋も深まり、窓の外の街路樹が赤や黄色に色づき始めている。
 夕暮れのオレンジ色の光が店内に長く、斜めに差し込んでいる。
 客足も途絶え、俺と遥さん、そしてカウンターの奥で静かに豆を焙煎している春樹さんの三人だけ。
 静かな時間だった。
 ジャズの古いレコードがかすかに針の音を立てている。
 やがて店の古時計が、ぽーん、ぽーんと七時を告げた。
 閉店時間だ。

 「よし、今日はここまでだ。悠真くん、遥、お疲れさん」
 春樹さんの優しい声が響いた。
 俺は「お疲れ様でした」と頭を下げ、エプロンを外し、帰り支度を始めた。
 あの冷たい部屋が待っている。そう思うと胸が少しだけ重くなった。
 俺が店のドアに手をかけた、その時だった。

 「あ、悠真くん」
 背後から遥さんの声がした。
 「ちょっと、待って」

 俺は振り返った。
 彼女は少しはにかむように頬を赤らめながら、そこに立っていた。
 俺はそのあまりに日常的で、あまりに平和な光景に一瞬、言葉を失っていた。
 心臓がトクン、と小さく跳ねた。
 それは、俺がもうとっくに忘れてしまったはずの、感情の響きだった。
 その手には小さな可愛らしい淡いブルーのラッピングペーパーに包まれた四角い箱が、大事そうに握られていた。銀色の細いリボンが結ばれている。
 ここは本当に、俺のいるべき世界なのだろうか。
 血と、罪と、絶望に満ちた俺のような人間が、こんな陽だまりのような光景の中に存在することを許されるのだろうか。

 「あの……これ」
 遥さんは意を決したように一歩俺に近づくと、その小さな包みを俺の胸の前へと差し出した。
 「よかったら受け取って、もらえませんか」
 その声は少しだけ震えていた。
 俺は戸惑った。
 なぜ。
 なぜ、俺に?
 俺はこの店で、ただ黙々と働き、給料をもらうだけのアルバイトに過ぎない。彼女と何か特別な話をしたわけでもない。ただ同じ空間で、同じ時間を共有しただけ。それだけの希薄な関係のはずだ。
 「……なんですか、これ」
 俺は馬鹿正直にそう尋ねていた。
 「開けてみて」
 遥さんはそう言ってうつむいた。長い黒髪がさらりと流れ、彼女の赤くなった耳を隠した。

 俺はおそるおそるその包みを受け取った。
 指先に包装紙の乾いた感触が伝わる。それはひどく温かいもののように感じられた。
 俺はゆっくりと銀色のリボンを解いた。そしてラッピングペーパーを破らないように、慎重に開いていく。
 中から現れたのは、シンプルな白い箱だった。
 蓋を開ける。
 その瞬間、ふわりと甘く、そして少しだけほろ苦いカカオの香りが、俺の鼻腔をくすぐった。
 箱の中には、形は少しだけ不揃いだが、丁寧に作られたであろう数粒のチョコレートが並んでいた。表面にはナッツやドライフルーツが飾られている。
 手作りのチョコレート。
 俺の混乱は頂点に達していた。
 なぜ、これを、俺に?
 頭の中でバレンタインの日を思い出す。二月十四日。今とは季節単位で違う。

 「……どうして、これを俺にくれるんですか」
 俺は当然の疑問をぶつけた。
 すると遥さんは、もじもじと足元の床を見つめながら小さな声で言った。
 「……あのね、今日わたしの誕生日、なんだ」
 「え……」
 「十一月、二十二日」
 誕生日。
 その言葉が、俺の時間感覚の麻痺した頭の中で、うまく意味を結ばなかった。
 俺は、自分がいつこの街に来て、どれくらいの時間が経ったのか、正確にはもう分からなくなっていた。季節が夏から秋へと移り変わったことだけを、肌で感じていただけだ。
 遥さんの誕生日。
 その事実に、俺はまず驚いた。そして次の瞬間、さらなる混乱に襲われた。

 「誕生日……?遥さんの?だったらなおさらおかしいじゃないですか」
 俺は言った。
 「誕生日なら、俺が遥さんにプレゼントを渡す側のはずです。なんで遥さんが俺にくれるんですか?」
 俺のそのあまりに真っ当な疑問に、遥さんはさらに顔を赤らめた。
 そして、しばらく躊躇った後、意を決したように顔を上げた。
 その瞳は少しだけ潤んでいた。

 「……わたし、ね。友達、少ないから」
 彼女はそう、ぽつりと言った。
 「だから、誕生日だからって、プレゼントをくれる人なんて、ほとんどいないんだ。おじいちゃんくらいかな」
 その告白はあまりに唐突で、あまりに痛々しかった。俺は何と言葉を返すべきか、分からなかった。
 「でもね」
 彼女は続けた。
 「プレゼント、やっぱり欲しいな、って、思っちゃうんだ。誰かに『おめでとう』って、言ってもらいたいなって。だから……考えたの」
 彼女は一度言葉を切り、そして恥ずかしそうに笑った。
 「わたしが誰かにプレゼントをあげればいいんだ、って。そしてその人が喜んでくれたら。その、嬉しそうな顔が、わたしにとってのプレゼントになるんじゃないかな、って」

 俺はその、あまりに健気で、あまりに優しい彼女の言葉に、胸を強く締め付けられた。
 嬉しそうな顔が、プレゼント。
 俺の表情が?
 その事実に、俺の体温が急激に上昇していくのを感じた。
 恥ずかしい。
 どうしようもなく恥ずかしい。
 俺はこの、あまりに純粋な善意の奔流の前に、どうやって立っていればいいのか分からなかった。
 俺はパニックに陥り、逃げ出すように言葉を発していた。

 「……でもそんな!俺はもう、十分嬉しいですから!」
 俺は持っていたチョコレートの箱を、彼女に突き返そうとしていた。
 「だからこのチョコレートは、遥さんが自分で食べてください!その方が絶対にいいです!」
 それは、俺がこのむず痒く、そしてどうしようもなく温かい状況から逃れるために唯一の、そして最も愚かな選択だった。

 俺のその言葉を聞いて、遥さんの顔がさっと悲しそうな色に染まった。
 そして、彼女はそれまでで一番真剣な強い瞳で、俺を真っ直ぐに、見つめた。

 「優しさを受け取ることも、優しさなんだよ?」

 その静かな、しかし有無を言わさぬ力強い言葉。
 それは俺の心の最も硬く閉ざされた扉を、いとも容易くこじ開けてしまった。
 俺は今まで、誰かの優しさをまともに受け取ったことがあっただろうか。
 父の期待という名の暴力的な愛。
 母の諦めという名の無力な愛。
 虚無の支配という名の絶対的な愛。
 俺が知っている愛はすべて、歪んでいた。
 だから俺は分からなかったのだ。
 ただ純粋な、見返りを求めない陽だまりのような優しさを、どうやって受け取ればいいのか。

 遥さんはそう言うと、すぐにぷいっとそっぽを向いてしまった。その長い黒髪に隠されて表情は見えない。だが、その耳が林檎のように真っ赤に染まっているのが分かった。
 俺も彼女から視線を逸らした。
 気まずい沈黙が流れた。
 温かい珈琲の香りと、ジャズの静かな音色だけが、俺たちの間に横たわっていた。
 俺は、自分の手の中にあるチョコレートの箱を見つめた。
 その小さな箱が今は、とてつもなく重いもののように感じられた。

 数秒だったか。
 数分だったか。
 その永遠のようにも感じられた沈黙を破ったのは。
 どちらからともなく同時に漏れた、小さな笑い声だった。

 「……ふっ」
 「……ふふっ」

 俺たちは顔を見合わせた。
 そして、今度は声を上げて笑い出した。
 それは、腹を抱えて笑うような豪快な笑いではない。
 ただ、どうしようもなくこの状況がおかしくて、愛おしくて、自然に込み上げてくる、温かい笑いだった。
 俺が心の底から笑ったのは、一体いつ以来だろうか。
 もう思い出せないくらい、遠い昔のことのような気がした。

 笑い終えると、俺たちは少しだけ照れくさそうに視線を交わした。
 俺はもう一度手の中の箱を見つめた。
 そして、意を決して中から一粒、チョコレートを取り出した。
 アーモンドが乗った、ミルクチョコレート。
 それを口に運ぶ。
 甘い。
 少しだけ形は不格好で、少しだけ舌触りは滑らかじゃないかもしれない。
 でも、その不器用な甘さが、俺の乾ききっていた心にじんわりと染み渡っていった。
 それは、俺が今まで食べたどんな高級な菓子よりも、ずっとずっと、美味しい味がした。
 「……美味しいです」
 俺はそう呟いた。
 「ありがとう、遥さん」
 そして続けた。
 「……誕生日、おめでとうございます」

 俺のその言葉に、遥さんは今までで一番嬉しそうな、花の咲くような笑顔を見せた。
 その笑顔が、俺にとっての本当の贈り物だったのかもしれない。
 俺はその日初めて、優しさを受け取る、という優しさを知ったのだ。