それから、俺たちの時間と世界の時間は決定的に乖離した。
 倉庫でのあの日を境に、俺と虚無の間にあった歪で、しかし確かなはずだった絆はその形を失った。いや、あるいはあれこそが俺たちの関係性の本質であり、それまでのすべてが俺一人の見ていた感傷的な幻想に過ぎなかったのかもしれない。
 彼女は俺の目の前で、俺が「人間」として最後にしがみついていた、ちっぽけなペンダントを、家族の笑顔ごと踏み砕いた。そして、あの見たこともない、花が咲くような残酷なほどに美しい笑顔で言ったのだ。
 『私たちに、こんなものいらないでしょ?』と。
 あの瞬間、俺の中の何かが完全に死んだ。
 俺はもう、彼女を理解しようとすることをやめた。
 彼女に何かを期待することもやめた。
 彼女は虚無だ。空を見て虚を無とする概念そのもの。そこに、俺が入り込む隙間など、最初からなかったのだ。

 俺たちはあの後、何も言わずに倉庫を後にした。不思議なことに、組織の男たちは俺たちを追ってはこなかった。俺が殺した上司の死体も、あの場所に転がったままだった。おそらく、彼らにとっては俺たちのような末端の消耗品が一人減ろうが、内輪揉めでボスが一人死のうが、どうでもいいことなのだろう。
 彼らの世界では、命はただの数字か、あるいは勘定科目に過ぎない。俺たちはその世界のルールさえも、知らないうちに破っていた。

 奇妙なことに、安宿の主人は宿賃を滞納し始めた俺たちを、何も言わずに泊め続けてくれた。時折、ドアの前に古びた毛布や、賞味期限の切れかかったパンが黙って置かれていることがあった。その老人は、俺たちの瞳の奥に、自分と同じ種類の、取り返しのつかない諦念を見ていたのかもしれない。あるいは、ただ俺たちが死ぬ場所を探している幽霊か何かだと思い、関わることを恐れているだけだったのかもしれない。
 理由はどうであれ、俺たちはその黴臭い四角い檻の中で、ただ時間をやり過ごした。
 会話は、ない。
 視線が合うことも、ほとんどない。
 俺たちは同じ部屋にいながら、それぞれが別の無人島にいるかのようにただ存在していた。俺はベッドの上で、虚無は部屋の隅の椅子の上で。互いの呼吸の音だけが、この部屋にかろうじて生命の残響があることを証明していた。
 あの倉庫での労働はもちろんもうない。
 そして金もない。
 胸の中は悪い感情で満たされているというのに、財布は空っぽだった。

 俺は新しい仕事を見つけた。
 それは、虚無にだけは決して見せたくない醜悪な現実との新たな契約だった。
 毎朝、まだ空が深い藍色に沈んでいる時間に、俺は宿を抜け出す。そして駅前のコンビニで山のように積まれた新聞の束を受け取り、自転車でこの巨大な都市の眠れる毛細血管へと、それを送り届けるのだ。
 坂道は肺を灼くように苦しい。雨の日は指先の感覚がなくなるほど冷たい。配り終える頃に俺の身体は、汗と、雨と、そしてどうしようもない疲労でぐちゃぐちゃになっていた。
 だがその苦痛が俺には必要だった。
 肉体を極限まで痛めつけることで、俺は思考するという人間だけが持つ呪いから、一時的に解放された。頭が空っぽになり、ただペダルを漕ぐこと、新聞をポストに入れること、その単純な動作の繰り返しだけが俺の世界になる。それは、あの倉庫での労働と本質的には同じ、緩慢な自殺であり、贖罪の儀式だった。

 その日も俺は、夜明け前の街を亡霊のように走り抜けた。
 配り終えた後、ポケットに残った数枚の硬貨を握りしめ、俺は二十四時間営業のコンビニのイートインスペースへと吸い込まれた。
 熱いコーヒーと一番安いクリームパン。それが俺の報酬であり、一日の始まりを告げる儀式だった。
 宿にはまだ帰りたくなかった。
 あの部屋に帰れば、また虚無とのあの重たい、窒息しそうな沈黙が待っているだけだ。
 彼女は、俺がこんな泥にまみれた仕事をして彼女との生活を、そして来るべき「死」を、繋ぎ止めていることなど知らない。いや、知ったところで何も感じないだろう。彼女にとって、金も労働もパンも、すべては有象無象の現象の一つに過ぎないのだから。

 俺はプラスチックの硬い椅子に深くもたれかかり、コーヒーを啜った。
 ガラスの向こう側では、少しずつ街が目を覚まし始めていた。通勤する人々が無表情で足早に通り過ぎていく。
 彼らもまた、それぞれの檻の中でそれぞれの労働をこれから始めるのだ。
 そう思うと、奇妙な連帯感のようなものが湧き上がってきた。
 俺はこの世界の孤独な歯車の一つ。
 それでいいのかもしれない。
 疲労が鉛のように全身に広がっていく。
 俺の意識はコーヒーの湯気と共にゆっくりと白く混濁していった。
 瞼が、重い。
 俺はそのまま眠りに落ちた。

 夢を見た。
 血塗れの倉庫。豪快に笑うトラさん。嘲笑する高坂。そして、うつろな瞳で俺を断罪する父の顔。砕け散ったペンダント。それらが万華鏡のようにぐるぐると俺の脳内で回り続けていた。

 「……もしもーし」

 誰かの声ではっと目を覚ます。
 夢の残滓と現実が、まだ曖昧に混じり合っている。
 「大丈夫ですかー?こんなとこで寝てると、風邪ひきますよー?」
 目の前に誰かが立っていた。
 店員だろうか。俺は慌てて身を起こした。
 「すみません……」
 そう言って顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、予想とは全く違う人物の姿だった。

 年の頃は俺より少し上だろうか。二十代前半くらいに見える、女の人だった。
 明るい茶色に染めた髪を、無造作なポニーテールに揺らしている。洗いざらしの少し大きめな白いシャツに、ゆったりとしたカーキ色のワイドパンツ。肩からは小さな、しかし長年使い込まれたことが分かる艶のある革のショルダーバッグを提げている。その姿は、どこにも属していない自由さと軽やかさに満ちていた。
 何よりも印象的だったのはその笑顔だった。
 太陽という言葉がこれほど似合う笑顔を、俺は見たことがなかった。それは何の屈託もなく、何の裏もなく、ただそこにいるだけで周りを明るくするような、圧倒的な陽のオーラを放っていた。
 俺が虚無と共に足を踏み入れた影の世界とは正反対の存在。
 光、そのもの。
 
 「あ、起きた。よかったー」
 彼女は、にぱっ、と効果音がつきそうなほど快活に笑った。
 「なんかうなされてたみたいだったから、声かけちゃいました。お節介だったかな?」
 「いえ……」
 俺はその眩しさに目を細めながら、かろうじて答えた。
 「ありがとうございます」
 「どういたしまして!それにしても君、すごい隈だよ。ちゃんと寝てる?」
 彼女は何の遠慮もなく、俺の顔を覗き込んできた。その距離の近さに俺は思わず身体を後ろに引いた。彼女からは甘い、柑橘系の香水の匂いがした。それは、虚無のあの冷たい花の香りとは全く違う、温かい匂いだった。

 「さては、夜更かししてゲームでもしてた口だね?」
 彼女は勝手に納得したように頷いた。
 「ま、若いからいっか!青春だね!」
 青春。
 その言葉が、棘のように俺の胸に刺さった。
 「あ、そうだ!」
 彼女は何かを思い出したように手を叩いた。
 「君、この後暇だったりする?」
 「え……」
 唐突な質問に俺は言葉に詰まった。
 暇か、と聞かれれば暇だ。この後俺を待っているのはあの、虚無との意味のない永遠のような時間だけだ。
 「実はさ、今日すぐそこの高校で文化祭やってるんだよね」
 彼女は店の外を親指で指した。
 「わたしそこの卒業生なんだけど、ちょっと顔出したくて。でも、一人で行くのもなんか寂しいじゃん?だからさ、もしよかったら一緒に来てくれないかなーって」
 「……俺が、ですか?」
 「そう、君が!」
 彼女はあっけらかんと言った。
 「なんか、君見てるとほっとけないんだよねー。この世の終わりみたいな顔しちゃってさ。そんな顔してないでたまにはバカみたいに騒ぐのも大事だよ?」

 文化祭。
 その言葉が俺の脳裏で、あの忌ましい記憶を呼び覚ました。高坂たちの嘲笑。押し付けられた雑用。
 祭り。
 それは、俺たちが最も遠い場所にいるものだ。
 俺は断ろうとした。俺のような人間がそんな生の祝祭が行われる場所に、足を踏み入れていいはずがない。
 「でも……」
 俺が断りの言葉を口にしようとした、その時。
 俺の頭に宿の、あの部屋の光景が浮かんだ。
 椅子に座り、ただ壁の一点を見つめている虚無の姿。
 あの、重く冷たい沈黙。
 あの、永遠に交わることのない断絶。
 あの部屋に帰ることと、この太陽のような女に無理やり付き合わされること。
 どちらがマシか。
 どちらがより、苦痛が少ないか。

 俺は後者を選んだ。
 それは、希望や好奇心からでは断じてない。
 ただ、より大きな絶望から逃れるための消極的な、そして卑小な選択に過ぎなかった。
 「……分かりました」
 俺はほとんど聞こえないような声でそう答えた。
 「行きます」
 その言葉を聞いた瞬間、彼女は心の底から嬉しそうに顔を輝かせた。
 「ほんと!?やったー!じゃ、決まりだね!行こ行こ!」
 彼女は俺の腕をごく自然に掴むと、半ば強引に俺を椅子から立たせた。
 その温かい手の感触に、俺は再び身体を強張らせた。
 俺はこの光に触れてはいけない人間なのだ。
 そう思いながらも、俺は彼女に引かれるままに、コンビニの自動ドアをくぐり抜けていた。



 コンビニを出て、活気のなかった路地を抜けると世界は一変した。
 段々と人通りが多くなり、ざわめきが、音楽が、笑い声が巨大な波となって俺たちを包み込んでいく。
 青春、という形のない概念がもし目に見えるとしたら、きっとこんな光景なのだろう。
 揃いのクラスTシャツを着た高校生たちが楽しそうに肩を並べて歩いている。手作りのカラフルな看板。風船。クレープの、甘い匂い。どこかのクラスが作ったであろうお化け屋敷から漏れ出てくる、楽しげな悲鳴。
 そのすべてが、俺の知らない別の惑星の出来事のように感じられた。
 俺は自分がここにいてはいけない異物であるという感覚に苛まれていた。
 だが、隣を歩く彼女は――結局俺はまだ、彼女の名前さえ知らない――その活気を全身で浴びるように楽しんでいた。

 「うわー、懐かしいなーこの感じ!わたしらの時もすごかったんだよー!後夜祭で好きな人に告白するとかさー、あったよねー!」
 彼女は俺に絶え間なく話しかけてくる。俺は、ただ曖昧に頷くことしかできない。
 都会の高校、というものは俺がいたあの田舎のちっぽけな学校とは、規模が違った。校舎はまるで城のように巨大で、どこからどこまでがその敷地なのか見当もつかない。
 「あれ、正門どこだっけな…」
 彼女はきょろきょろと、周りを見渡した。
 俺たちはどうやら、学校の裏手の方を歩いているらしかった。高いフェンスが延々と続いている。フェンスの向こう側からは楽しげな音楽と歓声がはっきりと聞こえてくるのに、中に入るための入り口がどこにも見当もなかった。
 それはまるで、今の俺の人生そのもののようだった。
 幸せの音はすぐそこに聞こえるのに、その中に入るための扉はどこにもない。

 俺たちはしばらくその巨大な城壁のような学校の周りを彷徨った。
 そしてようやく、一つのゲートを見つけた。
 だが、それは正門というにはあまりにみすぼらしい小さな鉄製の門だった。そしてその門には、太い南京錠がかけられていた。
 「あちゃー、こっちは裏門かー。しかも鍵かかってるし」
 彼女は残念そうに唇を尖らせた。
 俺はその固く閉ざされた門を、ただぼんやりと見つめていた。
 閉ざされている。
 そう、この世界は俺に対していつも固く閉ざされているのだ。
 そう思った時だった。

 門のすぐ横。そこに用務員室のような小さなプレハブ小屋があった。そして、その小屋から作業着を着た初老の男性が鍵の束をじゃらじゃらと鳴らしながら出てくるところだった。
 彼は俺たちを一瞥すると、怪訝そうな顔をしたが特に何も言わずに裏門の南京錠へと鍵を差し込んだ。
 ガチャリ、と重い音がして錠が開く。
 男性は、門を人が一人ようやく通れるくらいだけ開けると、中へと入り、そしてすぐに内側から門を閉めようとした。
 その一瞬の隙間。
 それを見た瞬間、隣にいた彼女の目がきらりと光った。
 彼女の意図を察し、俺はほとんど無意識に彼女を制するような言葉を口にしていた。
 殺人という最大のルール違反を犯した人間が、こんな些細なルールにこだわる。その矛盾を自分でも滑稽だと思った。

 「俺は、ちゃんと正門から入りますから」
 俺のそのささやかな抵抗の言葉を、しかし彼女はまるで面白い冗談でも聞いたかのように、けらけらと笑った。
 「真面目だなー、君は!オッケー!じゃあ夕方までは別行動ね!」
 彼女はそう言い放つと、俺の返事も待たずに動いた。
 「ちょっとごめん!」
 彼女は俺にそう言うと、次の瞬間には猛然とダッシュしていた。
 そして閉まりかけるその、鉄製の扉のわずかな隙間に、まるで猫のようにしなやかに、その身体を滑り込ませた。
 「おい、君!」
 用務員の男性の驚いた声が聞こえる。
 だが、彼女はお構いなしに門の内側へと着地した。
 その場では、俺も行くものだと承諾してしまっていた。

 そして扉越しに、こちら側に取り残された俺に向かって悪戯っぽく笑いかけた。
 「ごっめーん!先入っちゃった!」
 彼女はフェンスの金網に指をかけながら言った。
 「夕方頃にまたここで落ち合おう!それまで解散!絶対だよ!」
 そして彼女は再び背を向けると、祭りの喧騒の中へとあっという間に駆け出していった。
 その、太陽のようなポニーテールと白いシャツが、人混みの中に消えていく。

 ガチャン。
 俺の目の前で、用務員の男性が忌々しげに再び南京錠をかけた。
 俺は一人取り残された。
 祭りの外側に。
 固く閉ざされた、門のこちら側に。

 俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
 彼女が去った後には、圧倒的な静寂と途方もない虚無だけが残されていた。
 「正門から入る」
 俺は確かにそう言った。
 その言葉が今や、重い鎖となって俺の足に絡みついている。
 俺はゆっくりと歩き出した。正門を探すために。
 だが、巨大な学校の周りをあてもなく歩きながら、俺の足はどんどん重くなっていった。
 一体何のために?
 俺は何のために正門を探している?
 中に入ってどうする?
 あの、キラキラとした残酷なほどに眩しい光の中に俺一人が、この血と罪にまみれた魂を引きずって入っていくというのか。
 文化祭に興味など欠片もなかった。
 あのお姉さんと一緒にいる、というただそれだけの理由がかろうじて俺をこの場所に繋ぎ止めていた。
 だがその彼女はもういない。
 俺は一人だ。

 宿に帰るか?
 あの、冷たい沈黙が支配する虚無の待つ部屋へ?
 それも地獄だ。
 ではどうする?
 どこへ行く?
 何を、すればいい?
 やりたいことなど何もなかった。
 行く当ても、やるべきことも、この世界のどこにも見当たらなかった。
 俺は都会の真ん中で、完全に迷子になっていた。
 物理的にも、そして、精神的にも。

 俺はいつの間にか、学校の裏手にある小さな公園のベンチに座り込んでいた。
 フェンスの向こう側からは、祭りの喧騒が、楽しげな音楽が風に乗ってここまで届いてくる。
 それは手の届かない、隣の惑星の幸福の音だった。
 俺はその音を遠くに聞きながら、ただぼんやりと自分の足元を見つめていた。
 夕方で、という曖昧な約束だけがかろうじて俺の身体をこの場所に繋ぎ止めている、唯一の細い、細い蜘蛛の糸だった。
 俺はその糸がいつぷつりと切れてしまうのか、それだけを考えながら過ぎていく時間と、自分自身の空っぽな内面をただ見つめ続けていた。
 それは、俺という存在の完璧な比喩のように思えた。
 


 その絶対的な孤独と絶望の中で、俺はただ泣き続けることしかできなかった。
 心が砕け散ってしまった。
 俺はもう二度と元には戻れないだろう。
 俺の意識は安宿の黴臭い部屋の冷たい床から、ゆっくりと剥離していった。そして、時間という名の底なしの井戸へと落下していく。
 忘れていたはずの、あるいは忘れたふりをしていただけの、遠い、遠い記憶の底へ。
 俺という人間を形成した、最初の、そして最も美しい地獄の始まりのあの日の光景へ。




 ……光。
 世界は光と音と匂いでできていた。
 目の前には巨大な青い生き物が横たわっていた。それは、ゆっくりと呼吸をするように白いレースの縁飾りを、絶え間なく砂の上へと送り出し、そしてまた引き戻していく。ザアアア、という身体の芯まで震わせるような、心地よい音を立てながら。
 太陽の光がその青い生き物のきらきらと光る鱗に反射して、無数のダイヤモンドの粉を空中に撒き散らしていた。
 潮の塩辛い匂い。肌を撫でる温かい風。足の裏をくすぐる熱い砂の感触。
 それが、俺が生まれて初めて出会った「海」という名の楽園だった。

 「すごい...!すごいよ、お母さん!テレビと、おんなじだ!」

 俺は、まだ舌足らずな言葉でそう叫んでいた。幼稚園に入る、少し前の夏の日。俺の小さな身体はこの、あまりに広大で、あまりに美しい世界の前に喜びではち切れそうになっていた。
 そして、俺の手の中にはこの日のために母さんが買ってくれた宝物があった。
 テレビで見たヒーローが持っていたのとそっくりの、スイカの模様をしたビーチボール。
 赤と緑の鮮やかな縞模様。それは、この青と白だけでできた世界で唯一俺だけの特別な色だった。俺はそのボールを胸に、強く、強く抱きしめていた。この幸せが、どこかへ飛んでいってしまわないように。

 「ふふ、本当ね。テレビよりずっと素敵じゃない?」

 母さんは俺の隣にしゃがみこみ、そう言って微笑んだ。
 その日の母さんの笑顔を、俺は今でもはっきりと覚えている。
 彼女は本当に、心の底から幸せそうだった。彼女の瞳は、俺の姿だけを映し、俺の喜びをまるで自分のことのように、その全身で分かち合ってくれていた。
 子の幸せは、親の幸せ。
 その、ありふれた言葉が真実としてそこには輝いていた。彼女はこの日のために、どれほど前から準備をしてくれていただろう。俺の好きなお菓子、新しい水着、そして、このスイカのボール。そのすべてが、彼女から俺への、愛情の結晶だった。

 俺と母さんは、二人で波打ち際を駆け回った。
 スイカのボールを投げ合い、追いかける。ボールが波にさらわれるたび、俺たちは甲高い笑い声を上げた。母さんの長い髪が潮風に美しくなびいていた。
 彼女は俺の手を引き、一緒に海の中へと入っていった。
 冷たい水が足に触れる。最初は少しだけ怖かった。でも、母さんの手が俺の手を強く握ってくれていたから、すぐに怖くなくなった。
 俺たちは、寄せては返す波に身体を揺られた。
 それはまるで、巨大な優しい揺り籠のようだった。
 このまま、時が止まってしまえばいい。
 この楽園が、永遠に続けばいい。
 俺は心の底から、そう願っていた。

 だが、楽園には常に影が差すものだ。
 俺たちの、その完璧な世界の少しだけ離れた場所に、その影はあった。
 父さんだ。

 彼は一人、大きなビーチパラソルの下に座っていた。
 彼は海には入ろうとせず、ただ腕を組み、サングラスの奥からじっと、俺たちの姿を眺めているだけだった。
 その姿からは、楽しいという感情は一切感じられなかった。
 むしろそこにあるのは苛立ちと、退屈と、そしてこの世界の一切を拒絶するような、冷たいオーラだった。
 俺は一度だけ彼に、スイカのボールを見せに行った。
 「父さん、見て!スイカだよ!」
 父はサングラスを少しだけずらし、俺と、俺が差し出したボールを一瞥すると鼻でふん、と笑った。
 「……くだらん」
 そして、またすぐに海の向こうの何もない水平線へと、視線を戻してしまった。
 俺の胸の奥が、ちくり、と痛んだ。

 母さんはそんな父の機嫌に、気づいていないふりをしていた。
 あるいは、気づいていながら俺のために、必死に笑顔を絶やさなかった。
 彼女は俺たちの間に見えない壁を作り、父の放つ負のオーラから、俺を守ろうとしてくれていたのだ。
 「悠真。あっちでお砂のお城を作りましょうか」
 彼女は何事もなかったかのように俺の手を引いた。
 俺たちはまた、二人だけの完璧な世界へと戻っていった。

 だが、その時だった。
 強い潮風が不意に、母さんの髪を大きく吹き上げた。
 そして、俺は見てしまった。
 いつもは彼女の艶やかな黒髪で隠されている、その、こめかみのあたり。
 そこに白い四角いものが、巻かれているのを。
 包帯だ。
 ガーゼをテープで留めただけの小さな、しかし、その場の幸福な風景にはあまりに不釣り合いな白い傷痕。

 子供の無垢な好奇心とは時に残酷だ。
 俺は何も考えずにそれを指差していた。
 「お母さん、それなあに?」
 その俺の無邪気な一言が、彼女が必死に守っていた、完璧な世界の薄いガラスの壁に決定的なひびを入れた。

 母さんの顔から一瞬、笑顔が消えた。
 その瞳が悲しそうに揺らめいた。
 「これは……ええとね……」
 彼女が言葉に詰まった、その時だった。
 背後からぬっと、父さんが現れた。
 彼はいつの間にか、パラソルの下から移動してきていたのだ。
 そして対照的に、その唇にはほんのわずかな、しかし確かな笑みが浮かんでいた。

 「子と遊ぶのも、悪くないな」

 父はそう言うと、母さんの肩にその大きな手を回した。
 それは、愛情のこもった抱擁ではなかった。
 それは、所有者が自分の所有物に手を置くような、威圧的で、支配的な仕草だった。
 母さんの肩がびくり、と小さく震えた。
 彼女の顔が引き攣った。
 「……どうしたの、お母さん?」
 俺がそう尋ねると、母さんははっとしたように我に返り、そしてまた、あの完璧な笑顔をその顔に貼り付けた。
 「ううん、なんでもないのよ悠真。さ、お城の続きを作りましょう」
 彼女はそう言って、俺の手を引いた。
 父さんの満足げな歪んだ笑みから、俺を遠ざけるように。
 俺はまだ、その時何も分かっていなかった。
 母さんの、包帯の意味も。
 父さんの、笑顔の本当の意味も。
 ただ、俺の宝物だったスイカのボールの鮮やかな色が、ほんの少しだけ色褪せて見えたのを覚えている。
 楽園はもう完璧ではなかった。



 遊び疲れてぐったりとした俺は、帰りの車の中で後部座席に横たわり、すぐに眠ってしまった。
 腕の中には、まだあのスイカのボールを固く抱きしめていた。
 俺の意識が夢という名の穏やかな海に沈んでいく。

 そして、俺が眠りに落ちたその静寂の中で。
 前の座席に座る父と母の二人だけの会話が始まった。
 俺が決して聞くことのなかった、地獄の対話が。

 「……あなた」
 最初に口火を切ったのは母さんだった。
 その声は昼間の明るい声とは全く違う、か細く震える声だった。
 「悠真の前ではやめてって、言ったじゃない……」
 「ああ?」
 父の声は低く、不機嫌だった。
 「何の話だ」
 「とぼけないで。この顔の傷のことよ。あの子が気づいてしまったわ……」
 「だからどうした。俺が俺の持ち物に、傷の一つや二つつけて何か問題があるか?」
 「悠真は物じゃないわ!」
 母さんの声が少しだけ強くなる。
 「あの子は、あなたと私の子よ!あんな、怯えた顔をさせないで!」
 「怯えた顔?」
 父は心底おかしそうに鼻で笑った。
 「あいつが俺に怯えているだと?違うな。あいつは俺を崇拝している。俺の完璧な息子になることを望んでいるんだ。お前のような欠陥品とは違う」

 沈黙。
 車のエンジン音だけが響いている。
 やがて母さんが絞り出すような声で言った。
 「……もう無理よ。別れましょう」
 「……なんだと?」
 「だから、別れて、と言っているの。そして、悠真の親権は私がもらいます」
 その言葉が最後の引き金となった。

 父の笑い声が車内に響いた。それは陽気な笑い声ではない。もっと冷たく、乾いた、魂の奥底から響いてくるような不気味な笑い声だった。
 「親権?お前が?」
 父は言った。
 「お前がこの俺から悠真を奪うと、そう言うのか」
 「そうよ」
 「面白い冗談だ。お前がこいつを育てられるとでも思っているのか?金も、力も、家も、何一つない、そんなお前が?」
 父の言葉は静かだったが、その一言一言が鋭い氷の刃となって母さんの心を突き刺していく。
 「悠真は俺の息子だ。俺の血を引いた、俺の最高傑作になるべき存在なんだ。そのために俺は、あいつに最高の教育を、環境を与えてやる。あいつは俺の期待に応え、完璧な人間になるんだ」
 その言葉はまるで、数年後のあの九十八点のテストの夜を予言しているかのようだった。
 「お前のような欠陥品に、俺の作品を育てさせるわけにはいかないんだよ」
 「……ひどい」
 「それに、よく考えてみろ。もしお前がそれでも出ていくというのなら。お前は二度と悠真に会うことはできなくなる。俺は、あらゆる手段を使ってお前をあいつから引き離す。お前は母親失格の烙印を押され、一人惨めに野垂れ死ぬことになる。それでもいいのか?」

 それは脅迫だった。
 愛情など微塵もない、冷徹な、計算ずくの精神的な拷問だった。
 母さんはもう、何も言い返せなかった。
 ただ、そのか細い肩を震わせ、声を殺して、泣いている気配だけが、暗い車内に満ちていた。
 父は満足げに息を吐いた。
 そして、ルームミラーで後部座席で眠る俺の姿を確認した。

 その時、俺は眠っているはずの、俺は。
 夢の中で泣いていた。
 腕の中のスイカのボールを、固く、固く抱きしめながら。
 理由も分からず、ただ悲しくて、悲しくて、涙を流していた。
 その涙の塩辛い味は、昼間にはしゃいで口に入った海の水の味とよく似ていた。
 楽園は、あの日の、あの瞬間に完全に終わったのだ。
 俺はただ、その事実を知らなかっただけなのだ。




 俺は、その鉄格子の向こう側で繰り広げられる、生の祝祭の音と、光をただ浴びながら、一人立ち尽くすことしかできなかった。
 それは、俺という存在の完璧な比喩のように思えた。



 夕方、という曖昧な約束だけが、かろうじて俺の身体をこの場所に、繋ぎ止めている、唯一の細い蜘蛛の糸だった。
 俺はその糸がいつぷつり、と切れてしまうのか、それだけを考えながら、過ぎていく時間と自分自身の空っぽな内面をただ見つめ続けていた。
 その時だった。
 俺の脳裏で、何かが閃光のように弾けた。
 約束。
 そうだ。俺は約束をしていた。
 あの、太陽のような女と。夕方頃に、あの裏門で落ち合うと。
 俺は弾かれたように顔を上げた。
 空はもう、その燃えるような輝きを失い、深い紫色の帳が下り始めようとしていた。
 夕方。
 その曖昧な言葉が示す時間は、もうとっくに過ぎているのかもしれない。
 遅れた。
 そう思った瞬間、俺の身体は勝手に走り出していた。
 なぜ、俺は走っているのだろう。
 もう会えなくても、どうでもいいはずなのに。
 いや、違う。
 そのちっぽけな約束だけが、今の俺をこの無意味な世界に繋ぎ止めている、唯一の、最後の蜘蛛の糸だったのだ。

 俺は全力で走った。
 肺が、痛い。足が、もつれる。
 だが俺は、走るのをやめなかった。
 裏門の前にたどり着いた時、俺は肩で激しく息をしていた。
 そこに彼女はいた。
 俺が来るのを待っていたかのように。あるいは、ただそこにいることが当たり前であるかのように。
 彼女はフェンスに軽くもたれかかり、沈みゆく夕日を眺めていた。
 白いシャツと、カーキ色のワイドパンツ。使い込まれた革のショルダーバッグ。その姿は、夕日の赤い光を浴びて、まるで一枚の美しい絵画のようだった。

 俺の気配に気づき、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。
 そして、にぱっ、と笑った。
 「やっほー。お遅刻さん」
 その屈託のない笑顔に、俺の張り詰めていた緊張が少しだけ緩んだ。
 「文化祭、楽しめた?」
 彼女は尋ねた。
 その問いに、俺は思わず嘘をついていた。
 なぜ嘘をついたのか分からない。ただ、この光の中にいる彼女に俺の闇を見せたくなかったのかもしれない。
 「……はい。楽しかったです」
 「へえ、よかったじゃん!何が一番良かった?」
 彼女は子供のように目を輝かせて聞いてくる。
 俺は必死に頭を回転させた。文化祭らしい、ありきたりな嘘を。
 「……出店の焼きそばが美味しかったです」
 我ながらあまりに陳腐な嘘だと思った。だが、今の俺にはそれくらいしか思いつかなかった。

 その、俺の哀れな嘘を聞いて、彼女はくすくすと笑った。
 そして俺に言った。
 「ちょっと、こっち来て。少し屈んでみて」
 「え……?」
 俺は戸惑いながらも言われた通りに彼女の前に立ち、少しだけ屈んだ。
 すると、彼女の細く、しなやかな指が俺の前髪をそっとかき分けた。
 そして、次の瞬間。
 ぴしっ、と乾いた、しかし優しい音がして、俺の額に軽い衝撃が走った。
 デコピン。
 痛くはない。
 だが、そのあまりに唐突な出来事に、俺の理解は全く追いつかなかった。

 俺が呆然としていると、彼女は悪戯っぽく笑った。
 「うーそーつーきー」
 彼女は言った。
 「バレバレだよ、君」
 「……え」
 「だって君ずっとあそこの公園でうとうとしてたじゃない」
 彼女はそう言うと、学校の巨大な校舎の屋上を指差した。
 「わたし天文部が昼間なのに屋上に天体望遠鏡を揃えてる、って聞いて面白そうだから見に行ってみたんだ。そしたらさ、そこから見えちゃったんだよね。公園のベンチで、この世の終わりみたいな顔して船漕いでる君が」
 すべて、見られていた。
 俺の孤独も、虚無も、哀れな嘘も、すべて。
 俺は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
 「……すみません。嘘、つきました」
 俺は消え入りそうな声で謝罪した。
 だが彼女は、その俺の謝罪を手のひらで優しく制した。

 「謝らないでよ」

 彼女は言った。
 その声は、いつもの陽気なトーンとは違う、少しだけ静かで真剣な響きを持っていた。
 そして次の瞬間、彼女はためらうことなく両腕を広げ、俺の頭を彼女の胸へと引き寄せた。
 「え……っ」
 俺の身体は、完全に彼女の腕の中に包み込まれていた。
 柔らかい、白いシャツの感触。
 驚くほど温かい、彼女の身体の温もり。
 柑橘系の、太陽の匂い。
 そして、俺の耳元で聞こえる彼女の穏やかで、力強い心臓の鼓動。
 俺は硬直した。
 身体が石になったように動かない。
 物理的な温かい愛情。
 それは、俺の世界には存在しないはずの異物だった。
 そのあまりに強烈な異物感は、俺の固く閉ざしていた記憶の扉を、いとも容易くこじ開けてしまった。




 中学に入ってからの、長い、長い灰色の季節だった。
 あの九十八点のテストと父の暴力、そしてそれ以上のあの夜の出来事以来、俺の家から「愛」というものが完全に消え失せた。
 食卓はいつも沈黙に支配されていた。
 カチャリ、という食器の音だけが虚しく響く。
 父は俺を見なかった。俺が存在しないかのように振る舞った。俺は、彼にとって期待を裏切った失敗作であり、見るのも不愉快な汚点だったのだ。
 母は俺を見ていた。だが、その瞳にはいつも怯えと、悲しみの色が浮かんでいるだけだった。彼女は、壊れてしまった。父の暴力と、俺を守れなかったという罪悪感の中で、彼女の魂はゆっくりと死んでいった。彼女が俺に優しく触れることは、もう二度となかった。父を刺激することを恐れていたからだ。

 俺は幽霊になった。
 自分の家の中で誰にも見られることのない、透明な幽霊。
 食事は出てくる。洗濯物は畳まれて部屋に置かれている。だが、そこに温もりは一切なかった。すべてが義務として機械的にこなされるだけ。
 俺は愛を求めていた。
 心の底から渇望していた。
 もう一度褒めてほしかった。認めてほしかった。ただそこにいるだけでいいのだと、言ってほしかった。
 だから俺は努力した。勉強も運動も、すべて完璧にこなそうとした。
 だが、無駄だった。
 俺がどんなに良い成績を取っても、父が俺を褒めることはなかった。
 俺がどんなに良い子でいても、母が俺を抱きしめてくれることはなかった。

 その報われることのない渇望は、やがて俺の心を内側から蝕んでいった。
 そして俺は、ある日決めたのだ。
 もう求めるのはやめよう、と。
 愛なんて最初から欲しくなどなかったのだ、と自分自身に嘘をつくことを。一度覚えてしまったからその愛を思い出し、求めてしまう。だから、愛なんていらなかった、と。 
 俺は、自分の心の中にある「愛を求める」という、最も人間的な欲望を自分の手で殺した。
 そうしなければ、俺は生きていけなかったからだ。
 俺は感情のない抜け殻になった。
 そうしてようやく、あの家という檻の中で息をすることができるようになったのだ。



 ……温かい。
 なぜこんなに温かいんだ。
 忘れていたはずの、殺したはずのこの温もり。
 俺の意識は、灰色の過去から夕焼けの現在へと引き戻された。
 俺はまだ彼女の腕の中にいた。
 彼女の心臓の音が聞こえる。
 トン、トン、と命の音が俺の死んだ心に直接響いてくる。
 その温かさが、その命の音が。
 俺が長年かけて築き上げてきた心の壁を、いとも容易く粉々に打ち砕いていった。
 ああ、そうだ。
 俺は、ずっとこれが欲しかったんだ。
 誰かにただこうして、抱きしめてほしかったんだ。
 俺が殺したはずの欲望が、堰を切ったように溢れ出してくる。
 それは熱い涙となって、俺の瞳から流れ落ちた。
 彼女の白いシャツの上に、俺の醜い、しかしあまりにも正直な涙が染みを作っていく。
 それは過去の愛を求めることを諦めてしまった哀れな少年への訣別の涙だった。
 俺はもう、自分に嘘はつけない。

 彼女は、俺が泣いていることに気づいているはずだった。
 だが、彼女は何も言わなかった。
 ただ俺の背中を大きな温かい手でゆっくりと、優しく撫で続けてくれていた。
 まるで、すべてを分かっているとでも言うように。

 どれくらいの時間そうしていただろうか。
 やがて俺の涙が枯れた頃、彼女はゆっくりと身体を離した。
 そして、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。
 その、太陽のような瞳の奥にある、深い、深い優しさに俺は吸い込まれそうになった。
 「君の目の下の隈、少し取れてるよ。よかった」
 彼女はそう諭すように言った。
 「文化祭なんて楽しめなくたっていいんだよ。わたしだって、学生の時面倒くさいなって、サボったこと何回もあるし。楽しんでる奴らの方が異常なんだって思ってた時もある。だから関係者でもなんでもない君が楽しめなかったからって、負い目を感じる必要なんてどこにもないんだよ」
 それは肯定だった。
 それは俺が生まれてから誰にも与えられたことのない、無条件の赦しだった。
 俺の胸の奥が熱くなる。
 だが、俺の捻じ曲がった心は、その、あまりに真っ直ぐな優しさを、まだ素直に受け取ることができなかった。

 「違うんです」
 俺は食い下がるように言った。
 「俺が寝てたのはただ眠かったからじゃない。俺は……目的が与えられていない状態だと何もできないんです。どうしていいか分からなくなる。ただそこにいることしか、できなくなるんです」
 それは俺の魂からの卑屈な告白だった。
 それを聞いて、彼女は少しだけ驚いたような顔をした。
 だがすぐに、またあの太陽のような笑顔に戻った。

 「そっかー」
 彼女は言った。
 「でもね、それ多分勘違いだよ」
 「……勘違い?」
 「うん。だって人間なんて、ほとんどの奴が大した目的なんて持ってないんだから」
 彼女は夕焼けの空を見上げながら続けた。
 「みんな目的を持って何かを一生懸命やってるように見えてるだけで。本当は目の前のことに必死になってるうちに、いつの間にかそれが目的みたいになってるだけなんだよ。目的っていうのはさ、最初からそこにあるものじゃない。道端に咲いてるタンポポの綿毛みたいに、どこからかふっと飛んできて、自分の心に根を下ろすもの。そして気づかないうちに、潜在的にそっちの方向へと自分を動かしていくものなんだ」

 俺は彼女の言葉がすぐには理解できなかった。
 ただ首を傾げる。
 そんな俺を見て、彼女は少し困ったように笑った。そして、補足するように言葉を続けた。
 「うーん、そうだなぁ……。例えば、散歩みたいなものかな」
 「……散歩?」
 「そう。君はさ、散歩する時、『あの電信柱まで歩くぞ』って、それだけを目的にして歩く?」
 「……いえ」
 「でしょ?ただ、なんとなく歩き出す。歩いてる途中で可愛い猫を見つけたら立ち止まるかもしれない。いい匂いがしてきたらそっちのパン屋さんに行ってみるかもしれない。疲れたらさっきの君みたいに公園のベンチで一休みするかもしれない。そうこうしてるうちに、気づいたら電信柱の前を通り過ぎてたり、あるいは全然違うもっと素敵な場所にたどり着いてたりする。そういうもんだよ」
 彼女は言った。
 「目的っていうのは、その電信柱みたいなもの。ただのぼんやりとした目印、方角、風景。大事なのはそこに着くことじゃなくて、そこに着くまでに何を見て、何を感じて、何を見つけたか、ってことなんじゃないかな」

 俺は何も言い返せなかった。
 彼女のそのあまりにシンプルで、あまりに力強い哲学は俺がこれまで囚われてきた、「完璧な目的を達成しなければならない」という父の、そして虚無の呪縛とは全く違うものだった。
 それは俺に、別の生き方があるのかもしれない、というちっぽけな、しかし確かな可能性を示唆していた。

 会話はそれで終わりだった。
 彼女はにこっと笑うと、くるり、と俺に背を向けた。
 「君の人生は、君のものだ」
 彼女は歩き出しながら言った。
 「だから、誰になんて言われようと自分を曲げるな。……なんて月並みな言葉かもしれないけどさ」
 彼女は一度だけこちらを振り返った。
 「でもわたしはそんな、月並みにさえなれる言葉を胸を張って言える今の自分が、結構誇らしいんだ」
 「それじゃあ達者でね、少年!」

 彼女は笑顔で大きく手を振った。
 そして今度こそ、本当に夕焼けの赤い光の中へと溶けるように消えていった。
 後に残されたのは俺一人。
 そして、彼女が残していったいくつかの温かい言葉と、彼女の心臓の確かな鼓動の記憶だけ。

 俺はその場にしばらく立ち尽くしていた。
 彼女は一体、誰だったのだろう。
 名前も知らない、ただの通りすがりのお節介なお姉さん。
 だが、彼女の言葉は俺の固く閉ざされた心の扉を、ほんの少しだけこじ開けてしまったのかもしれない。
 俺は、夕日が完全に沈み、一番星が輝き始めた空を見上げた。
 これから、どうする。
 どこへ、行く。
 答えはまだ見つからない。
 だがほんの少しだけ、ほんの米粒ほどに小さく、俺は明日が来るのが怖くなくなっている自分に気づいていた。
 それは、絶望の淵の底で見つけた、小さな小さな光の欠片だった。